琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】何とかならない時代の幸福論 ☆☆☆☆

何とかならない時代の幸福論

何とかならない時代の幸福論


Kindle版もあります。

下がり続ける暮らし、「本音」と「建て前」の二重構造、「みんな同じに」の圧力、コロナ後……
問題だらけの日本に希望はあるか? どうする? どう生きる? いま一番聴きたい二人の珠玉対談!

NHK Eテレ「SWITCHインタビュー 達人達」で反響を呼んだ対談を、未放送分も含めて収録。
またコロナ後、あらたに行われた対談も収録した、必読の書。


 ブレイディみかこさんと鴻上尚史さん。
 「いまの社会」で、人々はどう生きて、何に迷っているのか、を語り続けてきたお二人による対談本です。
 NHK Eテレ「SWITCHインタビュー 達人達」で放送した内容が半分、追加の対談が半分、という構成になっています。
 お二人の本をかなり読んでいる僕にとっては、正直、「どこかで聞いた、読んだ話」が多かったのですが、対談という形式だからこそ、それぞれの考え方が整理された状態で語られているようにも感じました。


fujipon.hatenadiary.com

鴻上尚史『ぼくはイエローで~』の中で、教育が多く語られているじゃないですか。日本も本当に直面しなきゃいけないことが、教育にもあって、ただ「みんな仲良くしましょう」という言葉で済ませるわけにはいかないわけです。この本のなかで息子さんが言ってた、学ぶという権利もあるけど、話を聞いてもらう権利もあるとか、子供の権利に関する条約のくだり──イギリスは小学校から、子供には権利というものがあると、ちゃんと教える教育がある。
 というのも、日本の教育は真逆に進んでいるように感じるんですよね。最近、『もぐもぐタイム』という、給食の時間に一言もしゃべらないでご飯を食べるという指導が日本の小学校で広がっているんですよ。広島から始まったんですけど、その理由が、いっぱいおしゃべりすると給食をたくさん残すから、給食の時間に、はしゃいだり歩いたりする子供がいるから、一言も喋ってはいけないっていうのをやってみたら残食率が劇的に減ったということなんです。それを聞いた他の学校関係者もこりゃいいやと始めた。「もぐもぐタイム」って可愛い名前ですけど、強制沈黙タイムです。今、日本ですごい勢いでこの指導が広がっているんですよ。
 もうなんか、イギリスの教育と真逆じゃないですか。これに対して、もちろん抵抗してる小学校の先生もいる。ケンカした子供達が給食でご飯食べながらそこで仲直りをするとか、「これおいしいね」とか、「なんだお前ニンジン食べられないの」と会話するとか、給食の時間は食べることとコミュニケーションを上達させるためにあるはずだとおっしゃってる。


ブレイディみかこ社交の場ですよ。


鴻上:社交の、コミュニケーションが上達するための場でしょう。その場に、沈黙が広がっているんですよ。もう怖くなるでしょう。


ブレイディ:怖いですよ。どんな社会にするつもりなんでしょう。


 こんな「もぐもぐタイム」というのが広がってきているんですね。僕はこれを読むまで知りませんでした。
 正直なところ、僕は子供の頃、給食の時間が苦手でしたし、今でも、人と一緒にものを食べる、ということに、けっこう緊張もしてしまうのです。
 いまはコロナ禍の影響もあって、飲み会・食事会もほとんどなくなり、食事中の会話のプレッシャーも減って、個人的には快適ではあるんですよ。
 でも、僕みたいな人間ばかりになるのが、良いことだとも思えない。
 ただ、食事を残す、残さない、というのと、会話の有無って、そんなに関係があるのかなあ、という気はします。ずっと喋っていると、食べ終わるのに時間がかかるのは事実だろうけれど、給食に苦労した僕の経験では、「周りと喋っていたから食べきれなかった」ということは、あまり無かったような……

鴻上:その後、電車の運転手さんが運転中に水を飲んでたとか、消防士さんがコンビニの前で何か飲んでたとかいうことが、ネットで炎上する騒ぎが起きたわけですよ。これは、そんな教育を受けてきた子達の結果なんじゃないかと思ってしまうんです。
 今、「もぐもぐタイム」が広がっているので、あと10年くらいしたら「ファミレス入ったら隣で家族が喋りながら食べてた。うるさくてしょうがない」みたいなクレームが出始めるかもしれない。食事はなんで黙って食わないんだ、みたいな揉め事が起きるんじゃないかと本気で心配になります。


 新型コロナ禍で緊急事態宣言が出て、飲食店でも「黙食」が推奨されているのです。
 一度「感染予防のためには、食事中は喋らないように」というのが「常識」になってしまうと、コロナが収束してきても、元通りになるのだろうか、とも思うのです。
 「だって、喋らないほうが『安全』じゃない?」って言われたら、反論するのは難しい。
 まあ、僕自身も現状に、ストレスと同時に居心地の良さ、気楽さを考えてしまうから、そう考えてしまうのかもしれませんが。

 もっと「個人」が自分の考えていることを言えて、多様性が重視される時代に向かっていくのか、それとも、「みんなお上のルールを同じように守る、コミュニケ―ションに苦悩しなくていい世界」のほうが望ましいのか。

ブレイディ:日本のいいところはあるわけだから、そういうわけではないけれども、ただやっぱり足りない何かがありますよね。2019年、日本に台風が来た時、どこかの避難所でホームレスが入るのを役所から断られましたよね。実はイギリスでもニュースになってました。BBCが報じてたのかな、新聞にも載ってましたし。
 その時、息子が言ったんですよ。「日本人は、社会に対する信頼が足りないんじゃないか」って。息子によれば、そのホームレスを断った人は、自分のことを本当は考えていないんじゃないかと。もし自分がここで「ダメです。入れません」と言ってしまった場合に、そのホームレスの方はそれからどうなるんだろうって考えたら嫌じゃないですか、すごいう嵐の中でどんな目に遭うかわからない。もしかしたら命を落とすかもしれないと思ったら。
 そんな状況は、個人が背負っていくにはすごく重いじゃないですか。だから本当に自分のことを考えてるんだったら、いいですよって入れちゃったほうが楽じゃないかと。でもそこで入れられなかったのは、避難所に来てらっしゃる他の方──例えば町内会など地域の人々や、自分が所属している役所の部署の上司とかが、拒否したいだろうって思ったから。
「本当に個人として自分のことを考えたら、そこで誰かの生命に対して責任を負うなんてことはしないはずだ」って、ウチの息子は言うんですよ。だから、「周囲の人たちがきっと嫌だって言うに違いない」っていう考えは、あまりにも社会への信頼が足りない。確かに日本にはそういうところは、あるような気がしますよね。


鴻上:僕がずっと言っていることですが、「世間」と「社会」で考えれば、そのホームレスを断った人は世間に生きている。自分と利害関係がある人達のことを世間と呼んで、自分と全く利害関係のない人達が社会になるんですけど、避難所に集まった人達は、区役所の人にとって世間で、ホームレスは社会、ということになるんです。結局、区の役所の人の場合は世間を選んで、社会は無視したんです。
 私達日本人が、駅でベビーカーを抱えてフーフー言いながら、階段を上がっている女性を助けないのは、社会に生きている人達だから関係ないと考えるからです。知り合いだったら、すぐ飛んでいって助けるでしょう。それは相手が世間の人だからです。
 断った役所の人にとっては、ホームレスは完全に社会に属する人だから無視しても構わないという考えですよね。一方、避難所の人達は、世間に属する人達だから大切なんです。


 鴻上さんは、これまでもずっと、この「世間」と「社会」について、書いてきているのです。


fujipon.hatenadiary.com


 たしかに、「自分さえよければいい」のであれば、良心に従って、あるいはホームレスがもし命を落としてしまった場合の責任問題を考えて、受けいれてしまったほうが、リスクを避けられそうです。
 ところが、現場にいると、「他のみんなが嫌がるかもしれない。あとで責められるのではないか」と考えてしまうんですね。
 客観的にみれば、さすがにその状況では、生命保護を優先すべきだし、それに対して、表立って反対する人がいるとは思えないのに。

 ネットとか公共の場では「社会にとって正しいこと」をやるべきだと訴える人が多いのだけれど、多くの日本人は、そう言いながらも「社会」を信頼しきれていない、というのは、僕にもわかるのです。
 だからといって、「世間」を信頼しているというわけでもなくて、「世間」のほうがより身近で、逃げられない存在というだけなのですが。

 この対談を読んでいると、「社会」を信じられない、頼ることができないがゆえに、日本人は八方ふさがりになっているのではないか、と考え込んでしまうのです。
 それでも、ネットの力で、「世間を飛ばして、いきなり社会に訴える」ことが可能になってきてもいるんですよね。
 ただ、それが必ずしもプラスになるわけではなくて、面白半分の人たちの意見に乗せられて暴走したり、身近な人からは「なんで直接相談せずに、ネットに書いたりしたんだ」と責められたり、という事例もたくさんあります。

 結局は、バランス感覚、とか、「自分が正しいと思えることをやるべき」というような月並みな結論になってしまうのですが、今の世の中で「自由に生きる」というのは、「ネットでお金稼ぎ」みたいなものではなくて、「犯罪や過剰な迷惑行為でないかぎり、自分がやりたいことを世間に遠慮せずにできる」ということではないか、と思います。
 でも、それはとても、いまの世の中では難しいことですよね。

 新型コロナ禍では、「自粛警察」の存在がクローズアップされています。
 ひどい連中だ、と思いつつも、ああいう人々の存在が、感染予防に関しては、有効なのではないか、と僕は考えてしまうのです。

 個人の欲求や欲望と社会にとってのメリットが衝突するとき、どちらが優先されるべきなのだろうか?


 

アクセスカウンター