琥珀色の戯言

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【読書感想】同調圧力 日本社会はなぜ息苦しいのか ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

新型コロナウイルスがあぶり出したのは、日本独自の「世間」だった!  長年、「世間」の問題と格闘をしてきた二人の著者が、自粛、自己責任、忖度などの背後に潜む日本社会の「闇」を明らかにする緊急対談!

●戦争中から変わらない「国民総自粛」
●日本人が名刺をもらうとホッとする理由
●「世間=同調圧力」を生み出す日本独特のルール
●西欧は「社会」、日本は「世間」の大きな違い
●感染者はなぜ謝罪に追い込まれるのか?
●学校でも会社でも「先輩」が強すぎる不思議
●日本では「批評」がそのまま「人格批判」となる
●言霊の国なのに、言葉が信用されない謎
●ネット上の匿名が圧倒的に多い日本人
●若者の自己肯定感が低い理由
●なぜ出る杭は打たれるのか――芸能人の政治発言
●不寛容の時代に窒息しないために

生きづらいのはあなたのせいじゃない。世間のルールを解き明かし、息苦しさから解放されるためのヒント。


 作家・演出家であり、近年は「人生相談の名手」としても知られている鴻上尚史さんと、1999年に歴史学者阿部謹也さんらと「日本世間学会」を立ち上げ、現在は日本世間学会幹事の評論家・佐藤直樹さん。
 
 長年(少なくとも20年以上)「世間」や「空気」と日本の社会について語り続けてきたお二人による対談本です。
 2020年の新型コロナウイルスの流行に対して、日本人の衛生観念の高さが称賛される一方で、「自粛という名目の保証なき営業禁止」や「マスク警察」「他県ナンバー狩り」などの現象について、日本の「世間」「同調圧力」の強さが再認識されているのです。

 

鴻上尚史日本では欧米のような「命令」も「ロックダウン」もありませんでした。市民に対しては「外出自粛」、商店や企業に対しては「休業要請」です。ある意味、ゆるい。ゆるいけれども、多くの人びとはそれに従い、従わない者が白眼視されていきます。それこそ僕が先に述べた「空気を読め」といった感覚に支配されています。


佐藤直樹海外、特に欧米は厳しい対応をしました。外出禁止令を出し、マスクの着用も義務付け、違反に対してそれなりの罰則を設けた国も少なくない。法を整備し、ルールをつくり、罰則も定め、しかし、同時に補償も用意するわけです。命令と補償がセットになっています。しかも、政治指導者がそれなりに国民に語りかけ、納得を得ようと努力した。


鴻上:政治指導者には指導者としての「言葉」がありましたね。演劇の演出家から見ると、自分の言葉で話しているという説得力がありました。しかし日本の場合は……。


佐藤:日本は強制力もなければ補償も明確でない「緊急事態宣言」です。「自粛」と「要請」ばかりで、海外からも「ゆるすぎる」といった批判がありました。でも、日本ではこれで充分なんです。罰則がなくとも、人びとは羊のように大人しいし、従順にこれを受け入れる。


鴻上:「要請」ですから、最終的に政府は責任をとらなくてもよいわけです。イギリスでも当初、政府は劇場の休業を「要請」したんです。でも、イギリスの演劇人たちは、それでは補償の対象にならないから、はっきりと閉鎖の命令を出してほしいと声を上げました。これに対し日本は責任を国民に押しつけるシステムです。


佐藤:その通りです。そこが問題なのです。要請に従うかどうかは任意である。君たちの自由意志である、というかたちの責任逃れ。しかし、それが意外とうまく機能してしまう。それを「民度」が高いと考える人もいるのかもしれませんが、実際は、「周囲の目の圧力」、つまりは同調圧力がきわめて強いからですよ。強制力のない「自粛」や「要請」であっても、それを過剰に忖度し、自主規制する。まわりが「自粛」し「要請」に従っている場合、それに反することをすれば、まちがいなく鴻上さんが言うところの「空気読め」という圧力がかけられます。圧力は人びとの行動を抑制するだけでなく、結果として差別や異質な者の排除にも発展していく。


 だから「同調圧力」が強い日本という国はダメなんだ……と言い切れればよいのですが、今回の新型コロナウイルスに関しては、「感染拡大を防ぐためには、この理不尽なまでの『同調圧力』がプラスになった」とも言えるのです。
 個々の感染者や家族、医療関係者へのバッシング、「他県ナンバー狩り」などは、正気とは思えないのですが、日本社会全体としては、こういう状況のおかげで、感染拡大や患者の重症化をある程度食い止められた、という可能性が高い。
 演劇に関しては、当事者からすれば「補償はないけど、実質的には強制と同じである『自粛要請』」よりも、「補償つきの閉鎖」にしてくれ、というイギリスの演劇人の考えは、至極まっとうだと思うんですよ。
 でも、日本では、矢面に立った人たちが他の業界と比較して炎上するなどの不手際もあり、演劇界への支援はうまくいかなかったのです。
「自粛」というのは「自発的にやめること」ですから、他者がそれを「要請」するのは、言葉としてはおかしいんですけどね。
 それでも、ほとんどの日本人は「自粛」を受け入れたばかりか、その要請に従わない人たちを「自発的に」攻撃すらしたのです。


 鴻上さんは「世間」と「社会」について、こう説明しています。

鴻上:僕がいつも単純に説明しているのは、「世間」というのは現在及び将来、自分に関係がある人たちだけで形成される世界のこと。分かりやすく言えば、会社とか学校、隣近所といった、身近な人びとによってつくられた世界のことです。そして「社会」というのは、現在または将来においてまったく自分と関係のない人たち、例えば同じ電車に乗り合わせた人とか、すれ違っただけの人とか、映画館で隣に座った人など、知らない人たちで形成された世界。つまり「あなたと関係のある人たち」で成り立っているのが「世間」、「あなたと何も関係がない人たちがいる世界」が「社会」です。ただ、「何も関係がない人」と、何回かすれ違う機会があり、会話するようになっても、それはまだ「社会」との関係にすぎませんが、やがてお互いが名乗り、どこに住んでいるということを語り合う関係に発展すれば、「世間」ができてくる。


佐藤:日本人は「世間」に住んでいるけれど、「社会」には住んでいない、ということですね。


鴻上:はい、昔からよく言われますね。エレベーターなどで知らない人と同乗すると、日本人はお互いに何の会話もしないまま、光る数字を見上げているとか。同じ「世間」の人ではないからですね。


佐藤:欧米の人はホテルの廊下ですれ違った際にも挨拶をしてきますね。


 鴻上さんは、現在の日本では、中途半端に「世間」が壊れてきている一方で、「社会」ともうまくつながっていけない人が増えているのではないか、と仰っています。
 もう、世間には頼れないけれど、社会に対して「個人」として立ち向かっていくだけの技術も覚悟もない。
 ああ、それはわかるような気がするなあ。
 欧米の人たちは「個人とその権利」を、それこそ何百年もかけて身に付けてきたのだから、日本人が一朝一夕に同じようにふるまえるわけがありません。


 ただ、鴻上さんは、「世間」は古い慣習で、日本は遅れている、と考えているわけでもなさそうです。
 西洋の個人主義キリスト教に支えられているけれど、その信仰は揺らいできています。

鴻上:欧米でも日曜日に教会に行かない人がどんどん増えていて、自分たちはほぼ無神論だと主張する人も増えてきました。でも、日本は一神教だった強力な「世間」が壊れて、何十年も前からそうなっているわけです。そうすると、日本が世間に先駆けて、一神教という強力な支えがないまま個人であり続けるためにはどうしたらいいか、いままさに日本人はトライアルをしているんだと僕はずっと言い続けています。苦労する意味がある試行錯誤だよと。


佐藤:ただ、やっぱり世界標準は依然として一神教ですよね。


鴻上:そうですね。

 
佐藤:キリスト教だけではなくて、イスラムだって一神教です。日本に入ってきた仏教は違いますけれど、仏教だって、上座部仏教にその痕跡がありますが、原始仏教の頃は釈迦のみを仏とすることから一神教とみなす考えもある。だから、基本的に世界標準は一神教なので、特に日本みたいなのはものすごく珍しい。


鴻上:そうですね。一方で、一神教なんだけど、神の支えを強力に求める人たちの割合は、イスラムは分かりませんが、キリスト教国では若い世代になればなるほど減っている。


佐藤:そう。だけど、だからといって個人でなくなることはない。


鴻上:もちろん。ですが、薄い支えでもちゃんと個人でいられるということは、めざすべきところではないかとも思うわけです。欧米人が試行錯誤している前から、俺たちは強力な支えもないまま試行錯誤しているんだぞというね。


佐藤:ただ、日本人の支えになっているのは「世間」です。


鴻上:もちろんそうなんですが、強い「世間」ではなく弱い「世間」に複数所属して自分を支えるとか、「社会」と気軽につながって自分を支えるとか、方法はあると思うんです。


 僕はこれを読みながら、自分の家庭内の問題について、Twitterでフォロワーに判定してもらおうとする人のことを考えていたのです。「いいね!」がたくさんついたとか、肯定的な返信が多かった、ということで自分の意見と立場を肯定しようとするのだけれど、そういうやり方は、身近な人との関係においては、あまり得策ではないような気がします。
 だって、「ネットではみんなこう言っている」って見せられても、「その前に、直接オレに言えよ……」と思うだろうから。
 Twitterは、「社会」のように錯覚してしまう「世間」ではなかろうか。
 
 道徳とか正義とかを誰かが決めてくれる時代ではないのだけれど、だからこそ、それをみんなが持てあましてしまって、「信じたいものを信じる」「自分が常に勝ち組にいられるように振る舞う」人が増えていると僕は感じています。
 
 太平洋戦争前の「ふつうの日本人」は、「そうやって、自分が多数派で、正しい側でいようとした」結果、アメリカとの戦争に突き進んでいったのではなかろうか。

 鴻上さんと佐藤さんがずっと言い続けていることの繰り返し、の対談ではありますが、新型コロナ禍で、「同調圧力の長所」も認めずにはいられない状況下で読むと、これまでとは違う複雑な気分になるのです。

 個人にとっての正義や権利と、公共の福祉や安全が衝突したとき、人は、どう行動するべきなのか?
「自己犠牲」は美しくみえるけれど、それを「強制」されるような「同調圧力」が、自分にのしかかってくるとしても、その圧力に唯々諾々と従うしかないのか?


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