1971年から1973年にかけて放送された石ノ森章太郎原作の「仮面ライダー」50周年プロジェクトとして、『シン・ゴジラ』などの庵野秀明が監督を務めた特撮アクション。仮面ライダーこと本郷猛を池松壮亮、ヒロインの緑川ルリ子を浜辺美波、仮面ライダー第2号こと一文字隼人を柄本佑が演じ、西野七瀬や塚本晋也、森山未來などが共演する。
2023年映画館での鑑賞5作目。
公開日(2023年3月17日)の夜に観ました。観客は30人くらい。
最初の戦闘シーンから、血がドバドバ流れていて、「何じゃこりゃ」と呆気にとられてしまいました。
「みんな、仮面ライダーの設定(主人公がショッカーにとらわれて改造人間にされたあと、脱出してショッカーと戦う)は知ってるよね?」という前提で、説明はかなり端折っていきなりショッカーの怪人(幹部)たちと次々に戦う、というRPGみたいな内容なんですよ。
ショッカーが何をやりたいのか、やりたかったのか、最後まで観てもあまりすっきりしなくて、なんだか「人類補完計画」みたいだなあ、とも思っていたのです。
浜辺美波さんのルリ子は、綾波レイっぽいし。
正直、大画面で観る浜辺さんの魅力で、僕にとってのこの映画はかなり評価が底上げされたのも事実です。
庵野秀明監督には、「全部『エヴァ』にしなくてもいいのに……」とは言いたくなるんですけどね。でもそれが作家性というものなのか。
ストーリーに関しては、ネタバレしないほうが面白いと思うので、極力書かないようにします(とはいえ、ここまでの記述で、根源的なところのネタバレになってはいるのですが)。
僕自身は、昭和の『仮面ライダー』を学校から帰ってきた夕方や夏休みの再放送で観ていた、という年代で、リアルタイムで夢中になっていたわけではありません。
平成以降の「イケメンライダー時代」は、子どもが観ていた『仮面ライダードライブ』を、内田理央さん、なんかいいなあ、と思いながら一緒に眺めていた程度で(僕はあまり感情を表に出さない人が好きなのです)、ほとんど観ていませんし。
この『シン・仮面ライダー』は、庵野秀明監督が「いまの自分だったら、初代の『仮面ライダー』の世界をどう描くか」に挑戦した作品なのでしょう。
序盤は、「こんなスプラッタ風の演出なのか、と驚き、登場人物のしゃべりのぎこちなさに違和感があったのですが(難しい専門用語みたいなのが多くて、浜辺さんセリフ覚えるので精いっぱいだったのかな、とも思っていました)、それが「昭和の特撮ヒーローものっぽいセリフ回し」を意図して演出されたものなのか、役者さんたちの演技力の限界なのか、判別困難ではあったのです。
観終えて考えてみると、前者ではないか、と推測しているのですが。そんなに下手な役者さんたちではないし、人間から遠い存在(オーグなど)ほど、「人間らしい」スムースな喋りをしているようにも感じたので。
何このひたすらもどかしくておどろおどろしい映画、と言いかけて、そういえば、昭和ライダーというのは、子ども心に「ライダーのカッコよさ」よりも、「人と人ならざるものを掛け合わせた『怪人』という存在の居心地の悪さと魅力」のほうが、ずっと心に引っかかる作品ではあったんですよね。ウルトラマンの怪獣よりも、ライダーの怪人たちには「ショッカー」などの「組織」に忠誠を誓い、人間ではない姿となって自己犠牲を強いられる、という悲哀がありました。
僕も子供心に、そういう怪人やショッカーという組織に「おどろおどろしい美しさ」みたいなものを感じてもいたのです。当時はそれを自覚してはいなかったけれど。
そんな江戸川乱歩っぽさ(もうちょっと最近でいえば、大槻ケンヂっぽさ)を、昭和の特撮が大好きな庵野秀明監督がお金と手間をかけて2020年代に映像化してみたら、この『シン・仮面ライダー』になったのです。
自分がゴモラやゼットンになるかも、という想像はできないけれど(ジャミラにはなるかもしれない、と当時は少し思いました)、ショッカーの怪人には、何かのきっかけで、なってしまうかもしれない。
この映画のなかでの「ショッカー」の目的は、「世界中の人々の幸福を実現する」ことなのです。
劇中では、いわゆる「最大多数の最大幸福」ではなく、「この世界で、もっとも不幸な、底辺にあたる人々を救済する」ことを優先する、とされています。
彼らは「幸福のトリクルダウン」を信じないし、ショッカーの怪人たちは、それぞれの絶望を抱えています。
それに対して、庵野監督は「いま、目の前にある自分自身の幸せを五感で認識すること」の大切さと「他者を信じ、他者のために生きること」の尊さを描いているのです。
ただ、僕はこのメッセージが、観客に、とくに若い観客に届くかどうか疑問なのです。
僕は、「2時間の上映時間の映画だから仕方がないが、この人(あるいは怪人)たち、こんなにあっさり自分が抱えてきた怨念みたいなものを捨てられるなら、なんでここまで『こじらせて』きたんだ?」と思っていました。
こういう唐突な改心も「昭和の特撮らしさ」を狙ったものなのかもしれないけれど。
そりゃ、あなた(庵野監督)は、努力と研鑽の結果ではあるけれど、こうして成功して有名な漫画家と結婚し、自分が好きなアニメや特撮をお金をかけて撮れて、有名芸能人やファンにも尊敬されて、「頑張れば、信じればいいことあるよ」って観客に説教したくなるだろうけど、「俺たちはそうじゃない」んだ。
テレビで『新世紀エヴァンゲリオン』をつくっていたときの庵野秀明という人の飢餓感や観客との共犯関係は、もうここにはない。
いや、なくて当たり前なんですよ、あれだけの作品をつくってきて、立場も周囲の評価も変わって、年齢も重ねてきたのだから。むしろ、同じであるように振る舞うほうが気持ち悪い。
『エヴァンゲリオン』に関しては、これまでの長い歴史の積み重ねがあったからこそ、『シン・エヴァンゲリオン』での大団円を僕も受け入れられたのです。
もうそろそろ、シンジやゲンドウ、レイを「解放」してあげてもいいよね、僕が生きているあいだに決着がついてよかった、と。
その一方で、テレビ版の最後の2話や旧劇場版のラストの「居心地の悪さ」が、『シン・エヴァ』のトゥルーエンドに至らなかった「バッドエンド」のように解釈されてしまうのが、残念でもあるのです。あの時代は、アスカの「気持ち悪い」が、たしかに「時代の最適解」だったと思うから。それは、普遍的なものではなくて、当時は僕も庵野監督もまだ若かったから、なのかもしれないけれど。
『シン・ゴジラ』や『シン・ウルトラマン』は、ゴジラやウルトラマンという神々しいキャラクターを美しく描いた、それだけで、魅力的な作品でした。
「仮面ライダー」は、バイク(サイクロン号)やライダーのマスク、ライダーキック、怪人のフォルム、浜辺美波さんなど、見どころはたくさんありますし、これでもか、というくらい初代『仮面ライダー』の音楽で僕のようなオールド特撮ファンの耳を楽しませてくれます(庵野監督は、作中での音楽の使い方が本当に上手い。とくに旧作ファンへの目配りがすごい)。
とはいえ、ゴジラやウルトラマンのような、一目でわかるキービジュアルはないし、「昭和ライダー」の泥臭さ、怪奇性を意識しているのは伝わってくるけれど、「僕にはわかるけど、みんなはどうかな……」という気はします。まあ、こういうのって、案外みんな同じように「自分はわかるけど……」って感じているのかもしれませんが。
考えてみると、庵野監督の作品って、「掛け値なしのハッピーエンド」ってあまり記憶にありませんし。
なんだかすっきりしないけれど、このすっきりしないところも含めて『仮面ライダー』なんだよな、と割り切れるかどうかで、評価が分かれる作品だと思います。
僕はけっこう好きだけど、他人には薦めづらい。
「庵野秀明は、2020年代に『仮面ライダー』をどう解釈し、どう描くのか」
それに興味を持てる人であれば、楽しめるのではないでしょうか。
「こんなの『仮面ライダー』じゃない!」と思いながら観ていたけれど、終わってみると、「そういえば、『仮面ライダー』って、こういうのだったよな」と妙に納得してしまう、そんな作品でした。
昭和の『仮面ライダー』を知らない人がこれを観たら、どう感じるのだろうか。