Kindle版もあります。
武器はチェロ。
潜入先は音楽教室。
傷を抱えた美しき潜入調査員の孤独な闘いが今、始まる。
『金木犀とメテオラ』で注目の新鋭が、想像を超えた感動へ読者を誘う、心震える"スパイ×音楽"小説!少年時代、チェロ教室の帰りにある事件に遭遇し、以来、深海の悪夢に苛まれながら生きてきた橘。
ある日、上司の塩坪から呼び出され、音楽教室への潜入調査を命じられる。
目的は著作権法の演奏権を侵害している証拠をつかむこと。
橘は身分を偽り、チェロ講師・浅葉のもとに通い始める。
師と仲間との出会いが、奏でる歓びが、橘の凍っていた心を溶かしだすが、法廷に立つ時間が迫り......
『2023年本屋大賞』ノミネート作。
僕は以前、『本屋大賞』の候補になった作品を全部読んで、自分なりに順位をつける、というのをやっていたのですが、最近は、同じ人の同じような作品や「王様のブランチで推薦されそうな本」「書店員さんに推されている作家」ばかりが候補作になっている気がして、もう「全部読み」はやめてしまったのです。「ふだん、自分では手に取らないような作家や作品を無理やりにでも読んで、守備範囲を広げてみよう」という企画だったのですが、僕の年齢的にも、読めるキャパシティ的にも、読みたいものを読めばいいか、と思うようになってきたので。
この『ラブカは静かに弓を持つ』は、2023年の候補作のなかで、僕が読んでみたいと思った何作かのひとつでした。
僕は「音楽小説」とか「音楽マンガ」が好きなのです。
小学5年生で転校するまで、「男がピアノとか習うのかよ」と同級生に言われながら、僕自身も嫌々ピアノ教室に通っていました。
もちろん、プロのピアニストを目指すとか、そういうレベルではなくて、「教養としての音楽教室」みたいなもので、1970年代の、少し豊かになり「1億総中流」と言われた日本は、子どもにピアノを習わせるのがブームになった時代でもあったのです。
なんで「男の子」なのに、こんなことやっているんだろう、と疑問を抱きつつも、ピアノという楽器の音の響きと、うまく弾けたときの快感、ちょっとオトナのお姉さんだった先生が、けっこう気に入っていたのかもしれません。
今から思うと、もう少し真面目に、もうちょっと長く、ショパンの曲とかが人前で弾けるくらいの腕前になっておけば、多少はモテたのではなかろうか、と後悔してもいます。
でも、ピアノ教室で「最低限の音楽の(演奏や楽譜の読みかたの)基礎知識」を学べたことは、その後の僕の人生を豊かにしてくれたのではないか、とも思っています。
この本を読んで、僕も「大人の趣味として」何か楽器をやってみようかな、できればピアノがいいな、とも考えているのです。
音楽を題材にした小説やマンガというのはけっこうたくさんあって、小説としては恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』や宮下奈都さんの『羊と鋼の森』、藤谷治さんの『船に乗れ!』、マンガでは二ノ宮知子さんの『のだめカンタービレ』に一色まことさんの『ピアノの森』など、ちょっと思い出そうとしただけでも、また読み返したくなる作品がたくさんあります。
「音楽小説」を読むたびに思うのは、「なぜ、音楽の話を文章で読むのって、こんなに心地よいのだろう」ということなのです。
それなら、本当に素晴らしい音楽を「聴けばいい」のではないか。
でも、僕は「音楽を聴く」よりも「音楽に関する小説を聴く」ほうが好きなんですよね、なぜか。
優れた音楽小説は、実際には存在しないような音楽を、読み手の心に響かせる。
前置きが長くなってしまいましたが(前置きが長かったり、脱線したりしているときは、大概、感想を書く本について、あまり言うことがないとき、でもあります)、この『ラブカは静かに弓を持つ』、僕はけっこう好きでした。
音楽(チェロ)が題材、というのと、あまり色恋沙汰に向かわずに、人と人との「ささやかな信頼関係」みたいなものが軸になっていること、そして、音楽についての描写が印象的なこと。
浅葉のチェロは、頭の中の高いところでよく響く。
「じゃあ橘さんの中では俺の音はそれよりも高いところで鳴っているってわけだ。それは光栄だな。どれくらいの位置で鳴ってるように聴こえる?」
「高い時と深い時がある気がしますけど、この曲だったら時計塔くらい」
「銀座?」
「ロンドン」
それは買い被りすぎだろ、とまた浅葉が噴き出した。
「嬉しいけど、俺じゃさすがにビッグ・ベンまでは届かないだろうし、橘さんの音の響きが地上1.5メートルっていうのもちょっと卑下しすぎでしょ。もっとちゃんと、いい感じに響いてると思うけどな」
主人公の性格や役割もあってか、人と人との距離感が急に近くなることもないし、馴れ馴れしくなることもない。
でも、「チェロ」という楽器を通じて、彼らは繋がっている。
正直、主人公をはじめ、「ただしイケメンに限る」だよな、と嫌味のひとつも言いたくはなるんですよ。
背が高くて、チェロが弾けて、陰があるイケメンとか反則だろ、と。
この小説の主人公は、やっぱり、格好良いのが自然だし、浅葉先生との関係は、BL(ボーイズラブ)的でもあります。
冷静に考えると、20代後半の男性どうしの関係が、こんなに自然な空気感を生み出すことはほとんどないと思うのだけれど、「音楽」が媒介になると、それも自然に感じてしまうのだよなあ。
「音楽教室での練習目的での楽曲使用に、著作権は適用されるべきなのか?」
ネットで話題になっていたのを見て、僕は「いくらなんでも、それは強欲すぎない?『営利目的』の範疇に入るかもしれないけれど、音楽の裾野を広げる、という意味でも、そこは無償供与で良いのでは」と思っていました。
でも、「そんなものすごい金額ではないし、著作権者はそれで生活をして作品をつくっているのだから、音楽教室もそれで利益を得ているのだから、払えばいいじゃないか」と言われてみると、反論しがたくもありますね。
有名な「音楽家」と「純粋な観客」の間にいる人たちのことを、想像するきっかけにもなる作品だと思います。何よりも、読んでいてとても心地よい小説でした。
優しく響くけれど、けっして、押しつけがましくはない。まるでチェロの音色のような。