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琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

「死を選ぶ権利」について

参考リンク:安楽死法 ‐ 死を選ぶ権利 --- 駒沢 丈治:アゴラ−ライブドアブログ

病院で医師に見守られながら苦痛を伴わない安らかな死を得られるとしたら、わざわざ山手線に飛び込んだり、硫化水素を発生させたり、ビルの屋上から飛び降りようという人は少なくなるはずだ。本人にとってはもちろん、周囲の人たちや社会にとっても、そのほうが好ましい選択であると思う。

末期医療の現場においても、安楽死は意味を持つ。死が避けられない、ただ死を待つだけの患者を集中治療室に入れ優秀な医師のリソースを消費するのは、社会全体にとって大きな損失だ。高度な医療設備は回復が期待できる患者にこそ利用すべきであり、優秀な医師もまたその存在によって生死が分かれるギリギリの現場に投入してこそ意味がある。


この記事と、この記事に共感する人たちのコメントを読みました。
けっこう賛同する人が多くて、ちょっとびっくり。
安楽死」って、そんなに簡単なことなのだろうか?


「仕事を失い、家族も無く、貯金も無く、その上猛烈な苦痛を伴う不治の病に掛かってしまった50歳が自らの死を望んだとき、いったい誰に止められよう」


 個人的には、「猛烈な苦痛を伴う不治の病にかかってしまった人が、自らの意志で死を望んだとき」+家族も本人の意思に同意した際に「安楽死」という選択肢があってもよいのではないか、と思っています。
 でも、医療に携わる人間としては、「じゃあ、誰がその人を安楽死させるのか?」と考えると、僕はやりたくないなあ、と。
どんな状況であれ、「自分が誰かを殺した」ということに、良心の呵責を感じない人はいないでしょう。
重い犯罪をおかした死刑囚であれば、「社会正義のため」という大義があるとしても、実際に手をくだして「人を死に至らしめる」というのは、あまりにも重い行為です。
家族だって、よほど本人の苦しみに寄り添っていなければ、「じゃあ安楽死させてください」とはなかなか言えないでしょうし、本人がいくら希望をしていても、そのスイッチを押したことは、残された人たちにとっては、その後の人生の負担になるはずです。
僕は「安楽死も医者の仕事」だとは、あまり考えたくありませんし。


もしあなたの家族や友人が「安楽死」を望んだとして、あなたはその「死のスイッチ」を押してあげることができますか?


そもそも、いまの日本の緩和医療のレベルで言うと、「不治の病」であっても、「苦痛がひどくてしょうがない。死なせてほしい」という状態が長期間続くケースは、そんなに多くはないんですよね。
「死に瀕した患者さん」が荒い呼吸をしているのを見た家族が「もうラクにしてあげてください」と仰ることはあるのですが、積極的に「死んでしまう薬」を使わなくても、麻薬で苦痛は緩和できます。麻薬を使うことによって、呼吸が抑制されて、死が早まってしまう可能性はあるとしても、それはご家族にも了解していただいた上で。
そういう状態になれば、そんなに長いあいだ生きられるケースは少ないですし。


「死が避けられない、ただ死を待つだけの患者を集中治療室に入れ優秀な医師のリソースを消費するのは、社会全体にとって大きな損失だ」と考えていただけるのはありがたいのですが、これはまた少し別の話になります。
最近は、「ただ死を待つだけの患者」が、長期間集中治療室に入っているようなケースは、ほとんどありません。


僕が医者になってからの十数年で、「延命治療は望まない」という患者さんや家族が多数派になりました。
末期癌や改善の見込みがない慢性疾患の増悪の場合は、ほとんどの場合、延命治療が行われることはありません。
むしろ、医療側よりも社会のほうが「変化」してきている気がします。


「死を選ぶ権利」を、僕は否定はしません。いや、できません。
「死ぬな」というのが、「死にたい人」にとって、何かの救いになるのかと問われたら、あんまり自信もない。
極論すれば、「死ぬこと」は人間にとって「最後の権利」でもあるわけだし。


でも、残される人のことを考えれば、その権利の行使には、極力慎重であってほしいと思います。
傍からみれば「そりゃあ死にたくなるだろうな」と思うような状況の人の自殺でも、身近な人からみれば、一生残る心の傷になるのです。
飛び降り自殺したら、下を偶然歩いていた人に激突して死なせてしまった、というケースもあるし、線路に飛び込んだ人を目の当たりにしてしまったことが、大きなトラウマになってしまう人もいます。
「病院で医者に見守られての安らかな死」っていうけれど、治療のために一緒にやってきた人の死を看取る「責任」はあっても、「死ぬためにやってきた人に安らかな死を提供し、見守る」というのは、「僕たちの仕事じゃない」。
 
 前述したように、「病気の苦痛が理由での安楽死」に限定すれば、対象者は限られるでしょうから、ごくわずかな「それを自分の仕事だと考えている医師」だけで、ニーズは満たせるのではないかと思いますが……


 ちなみに「貧困」や「孤独」で死を望む人たちについて言及しなかったのは、それは「改善の見込みがある病」だと僕が考えているからです。
 そういう人たちを「電車に飛び込まれるよりマシだろ」ということで、社会が「処刑」するなんて、論外でしょう。

死が避けられない患者に対して使用する医療費も、家族にとっては意味があるかもしれないが、社会から見ればムダ以外の何ものでもない。


僕は、ネット上でこんなふうに便利に使われる「社会」って、いったい何なのだろう?といつも考えてしまいます。
「ただ、心臓を動かしておくためだけ」の過剰な延命治療は不必要だとしても、「死が避けられないから、医療費のムダだから、安楽死させてしまえ」って、自分の家族にも、同じことが言えるのだろうか?


この「死が避けられない患者」というのは、みんな、「誰かにとっての家族」です。
そしていつかは、あなたや、あなたの家族も「死が避けられない患者」になることでしょう。もちろん僕も。
そのとき、あなたは「社会から見ればムダだから、自分の親を積極的に安楽死させる」ことができますか?
「できる」と言い切れる人だけが、この意見に賛成する資格があります。


「社会」っていうのを「自分に関係のない誰か他の人」という言葉の代わりに使う人が、ネットには本当に多い。
 それって、結局は自分で自分の首を絞めることにしか、ならないんじゃないのかな。