琥珀色の戯言

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【読書感想】脳が壊れた ☆☆☆☆

脳が壊れた (新潮新書)

脳が壊れた (新潮新書)


Kindle版もあります。

脳が壊れた(新潮新書)

脳が壊れた(新潮新書)

内容紹介
41歳の時、突然の脳梗塞に襲われたルポライター。一命は取り留め、見た目は「普通」の人と同じにまで回復した。けれども外からは見えない障害の上に、次々怪現象に見舞われる。トイレの個室に老紳士が出現。会話相手の目が見られない。感情が爆発して何を見ても号泣。一体、脳で何が起きているのか? 持ち前の探求心で、自身の身体を取材して見えてきた意外な事実とは? 前代未聞、深刻なのに笑える感動の闘病記。


 2015年の初夏、41歳の若さで脳梗塞を発症した鈴木大介さん。
 この新書は、鈴木さんが「病気の当事者」として、その症状や考えたこと、「高次脳機能障害とは、どういうものなのかを記録したものです。

 高次脳障害とは、脳梗塞=脳の血管に血の塊が詰まって脳細胞が損傷することで起こる障害の一群で、手足など身体の麻痺とは別に様々な問題が起きてくることを言います。
 例えば記憶障害・注意障害・遂行機能障害認知障害等々。こうした一連の神経心理学的障害は、脳卒中脳梗塞脳出血を含めて言う)のみならず、事故による脳の外傷などでも残る後遺症なのだそうです。
 しかし、この高次脳障害は、身体の麻痺などのように一見して分かるものではないために「見えない障害」「見えづらい障害」等とも言われ、本人にも周囲の家族にも、医師にすらなかなかその障害の実態が分かりづらいという側面をもっています。
 本人に病識がなかったり周囲に予備知識がない場合は、障害の有無そのものに気付かずに、ただ行動が異様に見えてしまうだけという事もあります。
「なんか性格変わったね」で済まされてしまうことに。


 この高次脳機能障害というのは、周囲からは理解しづらいところがあるのです。
 「麻痺が残らなくてよかったね」なんて楽観的な気分でいると、なんだか性格が変わってイライラするようになったとか、物忘れが激しくなったとか。
 「見えづらい」だけに、周囲にとってももどかしく感じられることが多いんですよね。
 そして、本人も自覚症状に乏しいことが多く、「なんで体調が悪いわけでもないのに、病院にいなきゃいけないんだ」とか「どうして周囲から『変わった』とか言われてしまうのか」と混乱してしまうのです。

 僕の場合、まさにこの軽度の高次脳(自らに病識あり)だったのですが、病後半年のリハビリを経ても、かなりの長期間にわたって軽い注意欠陥やパニック、それらの複合的な結果としての「話しづらさ」という障害が残ってしまいました。


 この病気になった鈴木さんは、自分がこれまで取材してきた経験と照らし合わせて、ある発見をするのです。

 あれ? この不自由になってしまった僕と同じような人を、僕は前に何度も見たことがあるぞ?
 それはうつ病発達障害をはじめとして、パニック障害適応障害などの精神疾患・情緒障害方面、薬物依存や認知症等々を抱えた人たち、僕がこれまでの取材で会ってきた多くの「困窮者たち」の顔が、脳裏に浮かびました。
 なるほど、原因が脳梗塞だろうと何だろうと、結果として「脳が壊れた」(機能を阻害された)状態になっているならば、出てくる障害や当事者感覚には多くの共通性や類似性があるようなのです。


 鈴木さんは厳しいリハビリのなかで、「これは、人間が子供時代にいろんなことができるようになるまでのプロセスの再体験ではないか」と感じたそうです。
 そして、自身がこれまで接してきた「問題児」たちが、「脳の機能障害」だったとしたら、「リハビリによる機能改善」が可能だったのではないか、と考えるようになりました。

 僕はこれまでの取材活動の中で、「環境的発達不全」と言えるような少年少女らに多く会ってきた。たとえば、過度のネグレクトや虐待家庭から逃亡して未成年で自立生活を送る売春少女、窃盗少年の中には、フォークやスプーンをグーの手で鷲掴みに握って食事をする子たちが少なからずいた。
 彼らはその生い立ちの中で、「箸を使うという右手の発達トレーニング」すら与えられなかった者たちだった。
 また、同じく極端な機能不全家庭の出身者では、アスペルガー症候群知的障害を伴わない自閉症スペクトラム)を疑うような、コミュニケーションや他者の気持ちへの理解を極端に苦手としたり、言語の延長線上に暴力があるような子たちも多くみてきた。
 だが僕は、彼らのすべてが先天的な発達障害者ではないことを知っていr。長期間にわたる取材や個人的な付き合いの中で、彼らもまた様々な人と出会い、恋をし、(裏とはいえ)社会の中に入って学んでいく中で、そのパーソナリティや能力が急速に「発達し」「一般化」していくのを見てきた。


 鈴木さんの著書を読んでいると、「よくぞここまで」と感心してしまうほど、「他者との付き合いが下手」な取材対象者に向き合い、寄り添い続けているんですよね。
 それが仕事なのかもしれないけれど、鈴木さんの「困った人」への接し方には、「仕事」のレベルを遥かに越えた「熱さ」があるのです。
 それは、さまざまな問題を抱えていた妻・千夏さんとの関係についても言えるんですよね。

 確かに妻は家事が得意なタイプの女性ではない。なにをするにしても手際が悪いのはお義母さんからの遺伝で、お義母さんは食卓に盛りつけた揚げ物を出してから「あらお味噌汁がないわ」とか「ご飯がちょっと足りないから少し炊き足すわね」と言っては台所でバタバタやり出すタイプ(とはいえ圧倒的活動量があるので家事は結構完璧)。
 要するに物事に優先順位を付けるのが苦手で、妻の場合はこれに病的な注意欠陥が加わり、何か作業をしている間に他に目につく物があると、そちらに関心が移ってしまい、いつまでたっても当初の作業が完遂しない。
 たとえば食事ひとつ取っても、テレビで面白い番組があれば、その番組が終わってからようやく本格的に箸が動き出す。面倒を見ている庭の猫が来訪すれば、食事を放り出して餌やりに出てしまう。
 そんなこんなで、ヘタをすると一食に一時間以上、僕はと言えば、妻が食事を食べ終わらなければいつまでたっても食卓が片付かないし、次の食事を何時に作ればいいのかも決まらず、あああ、書いているだけで血圧が上がってきた。


 かなりせっかちで、いつも動いていなければ気が済まず、効率を重視する鈴木さんが、こんな正反対のキャラクターの相手とどうして結婚してしまったのだろう、とも思うのですが、足して2で割るとちょうどいい、というくらいのほうが、案外なんとかなるものなのかもしれませんね。
 病気になってから、ときに衝突したりしながらも、鈴木さんを支えてきたのは千夏さんだったのです。
 ところが、そんな千夏さんにも、大きな病が襲いかかり……


 こうやって「他者の物語」として読むと、もう「感動」ばかりになってしまうのですが、そんな美しい面ばかりではなく、鈴木さんは自らの「負の面」も振り返り、書いておられます。

 妻の手際の悪さや注意欠陥も病的だが、よくよく考えれば僕の性格の方がよほど病的なのだ。
 僕は若い頃に飯屋の厨房でバイトをしていた経験から、食事を作る際にはタイマー三つを駆使して、米が炊きあがって蒸らしが終わった瞬間に全てのおかずがテーブルに並ぶようにしなければ気が済まない。
 全てができたて、一番美味しい状態で食卓に。熱いものは熱く、冷たいものは冷たく。しかも米は炊飯ジャーではなく、土鍋で炊くことで更に手間を増やしている。


 鈴木さんのようなやりかたは、お客に商品として売るための炊事であれば「このくらいはやってほしいこと」なのかもしれません。
 しかしながら、これを家での三度の食事に適用されると、周囲はむしろ息苦しさを感じるのではないでしょうか。
 そこまでやらなくてもいいよ、って言いたくなりますよね。
 食べる側にも、プレッシャーがかかってしまうし。
 世の中に「完璧な人」なんていなくて、みんなそれぞれ弱点や欠陥がある。
 それを問題視して追いつめるのか、「できること」をお互いが持ちよって、支え合うのか。
 後者のほうが「あるべき姿」であることは、頭では理解できる。
 でも、現実問題として、「なんでこんな簡単なことができないんだ!」と苛立ってしまうことは、けっして少なくありません。
 むしろ、親しい人や身近な人だからこそ、「できないこと」が気になり、責めてしまうこともあるのです。


 正直、鈴木さんの生きかたは、あまりにも他者に「深入り」していて、僕には同じことは怖くてできないだろう、とも思うんですよ。
 鈴木さんだって、「仕事」と結びついているからこそ、できる面もあるのではなかろうか。
 でも、これを読んでいると、僕も、もう少し、他人に、そして自分自身にも寛容になった方が良いのではないか、と考えずにはいられなかったのです。
 もしかしたら、「あまりにも完璧でありすぎることを求める脳」のほうが、壊れているのかもしれません。


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