Kindle版もあります。
近年、スポーツは賭けと一体化することで、経済規模を飛躍的に拡大させている。スポーツ過疎地帯だったラスベガスにはいまや米4大スポーツが集積しつつあり、F1レースも毎年開催されている。こうした趨勢は、「賭博罪」によって公営ギャンブル以外の賭博を禁じている日本も無縁ではいられない。2030年に大阪IRの開業を見込む日本は今、どうするべきなのか。世界の現状とこれからの課題を報告する。
「ギャンブルは悪」というイメージは、とくに日本では強いのです。
ギャンブル依存症になる危険性や裏社会にお金が流れていく、スポーツで八百長が蔓延し、公正な競技が行われなくなることなど、そのネガティブな面が主張されています。
とはいえ、うまく運用できれば「儲かる」「人を呼べる」のも事実で、日本でも、大阪をはじめとする地域で、統合型リゾート(Integrated Resort、略称:IR)の導入による経済や雇用の活性化を推進派と、「治安の悪化やギャンブル依存症患者の増加」を危惧する人たちのあいだで、長年議論が続けられています。
そもそも、スポーツの公正性を保つためには、お金を賭ける仕組みはリスクが大きく、不適切ではないのか?
僕もそう思うんですよ。でも、この本を読んでいると、世界の趨勢としては「スポーツベッティング(スポーツを対象にした賭博)の是非」を問う時代はすでに過去のもので、スポーツは、ベッティングも含めた「産業」となっていて、賭けの対象になること前提で、どうやって競技者の不正を防止し、公正性を保つか、という段階になっているのだな、と思い知らされます。
米国だけでなくヨーロッパ、アジア各国で続々とスポーツベッティングが合法化され、関連市場は年々拡大している。Grand View Reseachの調査によると、2022年のスポーツベッティングの市場規模は約836億5000万ドル(約12兆5475億円、1ドル150円で計算)に達した。米国では、2030年までに年平均成長率(CAGR)10%超で拡大していくことが予測されている。もしその予測が米国だけでなく他国も同じなら、2030年の市場規模は2022年の倍以上になる。
スマートフォン一つで、試合の勝敗から、試合中のプレーの細部に至るまで賭けの対象にすることができるスポーツベッティング。それは、スポーツの新たな楽しみ方を提供するものであることは間違いない。
お金を賭けるのが「新たな楽しみ方」なのか?と考えてしまうところはあるのだけれど、日本の競馬の隆盛は、JRA(日本中央競馬会)の多額の売上によるところが大きいし、世の中「ギャンブル」が好きな人は多いのです(僕もそのうちのひとりだと認めざるをえません)。お金が絡むと、スポーツを客観的にみる、純粋に応援する、というのは難しい面はあるのですが、運営側、競技者たちにとっても、「お金を稼げる」というのはやはり大きい。
著者によると、日本は、先進国の中で唯一、スポーツベッティングを非合法としている国なのだそうです。その一方で、違法なオンラインギャンブルへのアクセスは急増しています。
人間の「ギャンブルで興奮したい、一攫千金の夢をみたい」という欲望を消すのが難しいのであれば、そこに流れるお金を社会やその競技にとってプラスになるような仕組みにしたほうがいい、というのが現在の趨勢なのです。
とはいえ、いまの「一人一台スマートフォンを持っている時代」は、不正、八百長を防ぐのが以前よりさらに難しくもなっています。
トップクラスのボートレーサーの八百長が発覚した事件で、当のレーサーの「暴露本」を読んだことがあるのです。
中央競馬で若い騎手の「スマートフォン不正使用問題」が近年多く発覚していて、騎乗停止になった騎手も多いのですが、それに対して、「現代社会で、スマホの持ち込みくらい仕方がないのでは」という意見もけっこうあるんですよね。
でも、こういう「実例」を考えると、外部と通信できる状況なら、サインの出し方はいくらでもあるわけです。
競馬では、八百長をやっているかはさておき、「なんでこんな結果になるんだ……」という波乱の結果も少なくないから、なおさら「不正防止」を徹底する(徹底していることをアピールする)ことが求められます。
あらためて考えてみると、日本は公営ギャンブルやパチンコで人々は日常的に賭けているので、スポーツベッティングが違法だから、ギャンブルに厳しい国だとも言い難いのです。
これまでの僕の経験では、海外のほうがカジノなどの賭ける場所は限定されていて「非日常感」が強く、きっちりゾーニングされているという印象でした。
それも、インターネットやスマートフォンの普及によって、海外では大きく変わってきているのです。
そして、スポーツベッティングの普及と拡大は、競技そのものや競技者にも大きな影響(誘惑)をもたらしています。
欧州賭博協会(EGBA)とH2 Gambling Capitalの共同調査によると、欧州のギャンブル市場は2024年にゲーム総収益(GGR)が1234億ユーロ(19兆円7400億円)にも達するという。この急速なギャンブル市場の拡大は、スポーツ界の経済構造を大きく変化させた。試合に勝つよりわざと負けた方が選手の手にする金が多くなることがあり得るのだ。
スポーツベッティング市場の拡大によって、プロスポーツのあり方そのものも変わりつつある。スポーツベッティングの世界では、何が賭けやすいかが競技そのものの価値や注目度よりも優先される。チーム競技は、複数選手の調子、監督の戦術、偶発的なプレーなど不確定要素が多く、オッズ設定やマーケティングにおいて扱いにくい存在である。いわゆる変数が多いのだ。
これに比べ、個人競技はより単純である。このため、テニス、ボクシング、ゴルフなどの個人競技が、チーム競技以上に賭けの対象として重宝されている。チーム競技は一大イベントや国際試合などで注目を集めるが、日常的なベッティングの稼ぎ頭は個人競技である。実際、Bet365やDraftKingsなどの主要ブックメーカーでは、テニスやボクシング、卓球、ゴルフなどの個人競技が定番の賭け先として扱われている。
スポーツベッティングにおける個人競技は、八百長や不正の温床となるリスクを常に孕んでいる。特に、テニスは選手の収入格差が激しい。なおかつグローバルに人気を誇るので、八百長や不正の温床になりやすい。
世界のトッププレイヤーとランキング外の選手との経済格差は極めて大きい。上位選手は賞金やスポンサー収入で億単位の収入を得るが、下部ツアーを回る選手は遠征費さえ捻出できないことも少なくない。こうした選手たちにとって、わずかな報酬の代償に試合結果を操作する誘惑は、あまりに身近だ。
卓球もスポーツベッティングの対象として人気があるそうです。
卓球ベッティングの転機となったのは、2020年のパンデミックである。主要なプロスポーツが相次いで中止・延期される中、ベッティング業界は生き残りをかけて「賭けられる対象」を血眼になって探した。その結果、ロシアやウクライナを中心に行われていた小規模な卓球トーナメントが突如として脚光を浴びることになった。
このとき、Bet365やDraftKingsなど主要オペレーターのライブ配信と連動したオッズ配信が急速に整備され、ユーザーはまるでeスポーツを観戦するかのような感覚で、数分ごとに流れが変わる卓球の試合に賭けるようになった。マイクロベッティングと呼ばれる秒単位の賭けは、テニスよりも店舗の速い卓球との親和性が高く、新たなスポーツベッティング市場を作り出した。しかし、この突発的な成長は同時にリスクも含んでいた。多く試合がセミプロやアマチュアレベルで行われ、透明性が不十分な大会が多かったからである。ロシア卓球協会やITTF(国際卓球連盟)非公認の試合で多額の金が動くようになり、不正操作や八百長の温床になる可能性が高まった。実際、2021年には複数の東欧卓球大会で不正疑惑が報道され、いくつかのブックメーカーは市場から一時撤退を余儀なくされた。
僕のスポーツベッティングのイメージは、サッカーのチャンピオンズリーグ決勝戦やボクシングの世界タイトルマッチで、贔屓のほう、あるいは勝ちそうなほうに、試合内容への期待とともに賭ける、というものだったのですが、この本を読むと、「賭けたい人、賭けさせたい人は、つねに賭けの対象になるスポーツを探していて、『ギャンブルとして面白いか、勝てそうか』を重視している」みたいです。
賭けの内容も、試合やレースの結果や得点差、というような試合全体に対するものだけではなく、何回表のピッチャーの最初の投球はストライクかボールか、テニスなら1セットで何回ダブルフォルトになるか、というような詳細なプレーが対象になることもあるのです。
「試合にわざと負けろ」と言われたら「さすがにそれは嫌」な選手でも、「回の最初に1球だけボール球を投げて」とか「一度だけダブルフォルトにして」くらいの八百長であれば、そのくらいなら大勢に影響ないだろう、と乗ってしまうかもしれません。
でも、一度協力してしまえば、手を切るのは難しくなってしまう。
正直、この本を読んでいると、スポーツの「公正性」とか「スポーツマンシップ」なんて、脆いものだよなあ、と考えずにはいられません。
ある程度「公正である」という前提があるからこそ、賭けの対象になるはずなのだけれど、大きなお金が動くようになると、結果を操作しようとする人たちが出てきやすくなり、公正さは失われていくのです。
それでも、経済効果が大きく、禁止しても違法ギャンブルが蔓延するだけ、と考えると、「反社会勢力にお金が流れるよりは、なるべく公正な競技が行われるように管理・運営された形で賭けを認め、その利益を競技全体の振興や社会福祉に使っていくべき、というのが世界の趨勢になっています。
著者は、IR(統合型リゾート)の価値を高める重要なピースとして、スポーツ観戦が重視されていることを紹介しています。
アメリカのラスベガスは、僕がはじめて訪れた25年くらい前は、カジノとショービジネスの街、という印象でした。
そのラスベガスも、近年は、アイスホッケー、バスケットボール、アメリカンフットボールというアメリカの四大スポーツのうち三つの本拠地となり、残る一つのメジャーリーグベースボールでも、アスレチックスの移転計画が進行中で、2028年にはラスベガスに新球場が完成するとのことです。ラスベガスではボクシングのビッグマッチが開催されることも多いですし、総合格闘技の大会やeスポーツも盛んになっています。世界最大の格闘ゲーム大会「EVO」も毎年夏にラスベガスで行われているのです。
カジノやショーだけでなく、スポーツでもラスベガスは「差別化」をはかっています。
アメリカでF1ブームが起こっている、というのを知って、「なぜいまさらアメリカでF1? Netflixのドキュメンタリーの効果?」と疑問だったのですが、こんな話も出てきます。
近年、世界のIR(統合型リゾート)が注目しているのがF1との連携である。モータースポーツの最高峰であるF1は、単なるレースイベントにとどまらず、都市の夜景、文化、経済を世界に発信する「動く都市広告」としての性格を強めている。
とりわけ象徴的なのがシンガポール・グランプリである。2008年にF1史上初の「ナイトレース」として開催されたこのレースは、高層ビル群やマリーナベイ・サンズを背景に、幻想的な夜景とともに世界中へ中継された。IRのすぐ隣で行われるこのレースは、カジノ、ショッピング、ライブ音楽、レース観戦を一体化した都市イベントへと昇華し、IRの魅力を「非ギャンブル層」にまで波及させる効果を持った。シンガポール・グランプリは年間25万人以上を動員し、その経済波及効果は2億シンガポールドルを超えるとされる。観光局・文化コミュニティ青年省・IR事業者が三位一体でレース開催に関与し、IRの社会的正当性を補強する公共イベントとして位置づけられている点も見逃せない。
一方、ラスベガス・グランプリは2023年に新たに開催されたばかりだが、こちらもMGM、ウィン、シーザーズといったIR事業者がスポンサーとして積極関与しており、レースコースそのものが「IRの中を走る」構造となっている。ラスベガス・ストリップ地区を封鎖し、カジノのネオンが輝く中をF1マシンが駆け抜ける光景は、「IRと都市空間の統合」の象徴的表現といえる。
興味深いのは、シンガポールが都市の持つ官民融合力を使ってIRとF1を組み合わせているのに対し、ラスベガスは娯楽都市の資本力と柔軟性でF1を取り込み、自らのブランド力を更新しているという点である。
市街地グランプリといえば、僕はモナコグランプリを思い出すのです。長年、あの贅沢な雰囲気に魅了されるのと同時に、オーバーテイクできる場所が少ないので予選のポジションでほぼ結果が決まりやすく、リスクも高いコースだよなあ、こういうのは「伝統」みたいなもので、年1回だから良いんだよな、と思っていました。
市街地コースなんて、街の人たちは不便だろうし、レーサーにとっては専用サーキットより危険だろうし。
シンガポールやラスベガスのグランプリをみると、もはや「競技としてのF1レース」よりも、「その都市のプロモーションとしての意義」がF1に求められてきており、だからこそのF1ブームなのだな、と痛感します。
モナコもそうなのですが、市街地をF1マシンが疾走するのは「絵になる」し、テレビ中継をみた人たちが、その街を知り、訪れるきっかけになるのです。
大阪や横浜では、IRでの「カジノによるギャンブル依存症の増加や治安の悪化への懸念」が争点になりがちなのですが、この本を読むと、世界各地にあるようなカジノをつくるだけでは、海外からの観光客を呼ぶのは難しいのではないか、という気がします。
ラスベガスやシンガポールは、すでに、カジノの限界に気づいていて、「その先」を考え、ギャンブルに興味がない人たちにも魅力を発信しているのだから。
客観的にみて、「ギャンブルで(人生トータルで)勝てるはずがない」ことはわかっているはずなのに、なんで賭けることがやめられないのだろうか。「公正であること」がこんなに難しく、賭けた時点で胴元に何割か持っていかれるのに。
人生は短いけれど、真面目に生き続けるには長すぎるのかもしれない、いや、単に束の間の興奮には抗えないだけなのかなあ。











