琥珀色の戯言

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【読書感想】観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い ☆☆☆☆

内容(「BOOK」データベースより)
観応の擾乱は、征夷大将軍足利尊氏と、幕政を主導していた弟の直義との対立から起きた全国規模の内乱である。本書は、戦乱前夜の動きも踏まえて一三五〇年から五二年にかけての内乱を読み解く。一族、執事をも巻き込んだ争いは、日本の中世に何をもたらしたのか。その全貌を描き出す。


 「観応の擾乱」は、「かんのうのじょうらん」と読みます。
 僕はこの新書のタイトルで、足利尊氏・直義兄弟の争いが、そう呼ばれていることを知りました。
 僕の足利尊氏という人のイメージは、吉川英治の『私本太平記』に拠るところが大きいのです。
 『私本太平記』での尊氏は、周囲から期待されながらも優柔不断な、名門の当主であることに馴染めない、どこか茫洋とした人で、あまり争いも好まないのに、いつのまにか将軍にまでなってしまったような人でした。
 にもかかわらず、逆境に追い詰められると、それまでの優柔不断が嘘のように不思議な力を発揮して、九州まで落ち延びた際には奇跡的な勝利をあげて勢力を急速に回復しています。
 『私本太平記』では、遊女に産ませた自分の子供をなかなか認めず、ずっと邪険にしていたという尊氏の酷いところも描かれているのです(『私本太平記』の直冬母子のエピソードの多くはフィクションだと思われますが、庶子であった直冬に対する尊氏の徹頭徹尾冷たい様子は、この新書のなかでもしばしば触れられています)。『私本太平記』での足利尊氏という人は、よくも悪くも、人間くさくて、強さと弱さが入り混じっていて、魅力的なキャラクターなんですよね。

 
 まあでも、あれはフィクションだし……と思っていたのですが、この新書で後醍醐天皇没後に、尊氏が弟の足利直義と政務を分かち合っていたところからはじまる『観応の擾乱』の流れをみていくと、この兄弟は、お互いをものすごく憎んでいた、という感じではないんですよね。
 むしろ、兄弟で争いたくはないのだけれど、お互いに引くに引けなくなって戦っているようにも見えます。
 こういう「お互いにものすごく憎み合っているわけではないのだけれど、周囲の利害関係が入り乱れてしまったがために、身内が争わざるをえなくなってしまう」という状況は、『応仁の乱』にもあてはまるので、足利将軍家というのは、そういう運命というか、性質みたいなものを持っていたのかもしれません。


 著者は、冒頭で、この『観応の擾乱』をこうまとめています。

 観応の擾乱とは、室町幕府初代将軍足利尊氏とおよび執権高師直と、尊氏弟で幕政を主導していた足利直義が対立し、初期幕府が分裂して戦った全国規模の戦乱である。
 この内戦は、観応元年(1350)10月、尊氏が不仲であった実子足利直冬を討伐するために九州に向けて出陣した隙を突いて、直冬の叔父にして養父でもあった直義が京都を脱出したことからはじまるとされることが多い。一時は直義軍が圧勝し、翌観応二年二月、師直一族が摂津国武庫川辺で斬殺されたことで第一幕が閉じる。
 しかし尊氏・直義兄弟の講和はわずか五ヵ月で破綻し、同年七月末、直義が京都を脱出して北陸へ向かったことで第二幕がはじまる。今度は尊氏軍が勝利し、翌正平七年(北朝観応三、1352)二月に直義が鎌倉で死去したことで観応の擾乱終結する。


 最初は直義側が優勢で、有力な武将たちの多くも直義側につき、直義は高師直を粛清したのですが、第二幕では、尊氏側が自ら陣頭に立って「やる気」を見せたこともあり、尊氏側が勝利をおさめます。
 わずか1年半くらいの期間に、多くの武将たちが尊氏側、直義側を転々とすることになりました。
 これまで、幕政にあまり積極的に関わろうとせず、直義任せにしていた尊氏だったのですが(もともと、尊氏は野心家ではなく、直義に引きずられるようにして幕府をひらくことになった、とも言われています)、この観応の擾乱に際しては、人が変わったかのように「英雄の気概」を発揮するのです。
 逆に、直義のほうは、兄と戦うことに引け目を感じていたのか、前線にも出ず、流れに身を任せているような感じです。
 これまでは、直義が前線で戦い、政務を仕切っていて、尊氏はその直義に箔をつけている「象徴」的な存在だったのに。
 世の中には「危急存亡のときになると、力を発揮する人」って、たしかにいるんですよね。


 著者は「観応の擾乱」を登場人物のエピソードではなく、実際に起こったことや社会システムの変化を通じて書いています。
 読んでいて、あまりに大勢の武将が登場し、彼らが両陣営を行ったり来たりすることや、個々の人物の「物語」がほとんど描かれていないことで、けっこう読みにくく感じたところもありました。
 壮大な戦絵巻、みたいなものを期待して読むと、肩透かしを食らうと思います。
 でも、時代の流れというものや人間、とくに足利尊氏という人の不思議さが、伝わってくるんですよね、これを読むと。


 多くの武将が高師直につき、続いて直義に味方し、そして尊氏・義詮を支持する、という変節をみせたのは、結局のところ、彼らには「自分の働きに応じた『恩賞』がもらえていない」という不満があったのではないか、と著者は指摘しています。
 そして、より迅速に、武士に対して有利な報酬が与えられるシステムをつくっていった側(あるいは、つくっていくだろうと期待された側)が、勢力を伸ばしていくことになりました。
 

 ここで問題となるのは、当時直義が行っていた政治が必ずしも武士の利益とはなっていなかった点である。直義が寺社本所勢力の権益を擁護し、基本的に武士の台頭を抑圧していなかったことは、本書でもすでに触れたとおりである。
 しかし直義の政策は、処務沙汰という彼が行使していた権限によるところが大きい。彼が尊氏-師直に代わって恩賞充行や守護職補任を行えば、尊氏たちより上手に利益を分配してくれるに違いない。当時直義を支持した武将たちは、このように期待したのではないだろうか。
 だが直義が、彼らの期待を見事に裏切ったことはすでに述べたとおりである。彼は尊氏から恩賞充行権を取り上げることさえしなかった。南朝との講和交渉を除き、そのあまりに無気力で消極的な態度に、直義を支持した武将たちの多くは失望し、彼の許を去っていったと考えられる。義詮が直義を異常に嫌った事情も大きいと思うが、根本的には彼の無気力が最大の敗因だったのである。
 直義のやる気のなさは、40歳をすぎて授かった実子如意王が陣中で夭折したことも大きいが、最大の原因はやはり血を分けた兄である尊氏と戦いたくなかったからであるに違いない。
 逆に尊氏は、擾乱以前は基本的に消極的であった。正平の一統の節でも触れたが、彼はもともと後醍醐天皇と戦いたくなかったのだが、直義に強引に引っぱられて幕府を樹立した経緯がある。それもあって、幕府発足後も政務の大半を直義に譲り、介入しない原則を採っていたのである。
 だが擾乱勃発後の尊氏は、急に積極的になって気力がみなぎっている。特に武蔵野合戦のあたりは、政治家としても武将としても以前とはまるで別人である。
 これはやはり、嫡子義詮に将軍職を継承させたいとする想いが核心に存在したのであろう。両者の勝敗を分けた最大の原因は、きわめて単純であるが結局は気概の差だったのである。


 直義側には、その気になれば、尊氏を亡き者にするタイミングは、何度もあったようです。
 しかしながら、直義は、それを選ばなかった。
 著者は、鎌倉で亡くなった直義の「毒殺説」には疑義を呈しているのですが、「観応の擾乱」で、それまでとお互いが入れ替わるように、尊氏は積極的に、直義は消極的になってしまった、というのは、タイミングだったのか、「子孫への継承を期待できるかどうか」の違いだったのか。


 著者は、この観応の擾乱室町幕府に遺したものとして、「諸政策の恩賞化」という言葉を使っています。

 幕府に奉公して忠節を尽くせば、必ず何らかの形でその努力に報いる。それは武士だけではなく、寺社や公家に対しても同じである。


 骨肉の争いを経て得た教訓は「人を動かすには、その働きにみあった報酬が必要だ」というものだったのです。
 きわめて単純で、そんなの当たり前じゃないか、と言いたくなる話なのだけれど、これをなるべく多くの人が納得できるような形で行うのは、本当に難しいことなのですね。


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応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

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