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【読書感想】奇跡の歌:戦争と望郷とペギー葉山 ☆☆☆☆

奇跡の歌:戦争と望郷とペギー葉山

奇跡の歌:戦争と望郷とペギー葉山


Kindle版もあります。

奇跡の歌?戦争と望郷とペギー葉山?

奇跡の歌?戦争と望郷とペギー葉山?

内容紹介
望郷と鎮魂の歌が織りなす「奇跡」


2017年4月に急逝した戦後日本を代表する歌手・ペギー葉山
愛した人々に見守られ、彼女は代表曲『南国土佐を後にして』の「譜面」を胸に抱いて天へ召された。


彼女の人生を大きく左右することになった同曲のルーツは、戦争中に中国戦線の兵隊たちによってつくられた
『南国節』にさかのぼる。
元兵士が述懐する極限の戦場、生と死の狭間にいた若者たちが異国の地で故郷を忍び、
家族に思いを馳せながら歌い継いだ「望郷の歌」は、同時に仲間への「鎮魂歌」でもあった。


ペギーが、激戦に次ぐ激戦のさなかに生まれたこの歌に出会ったのは、偶然だったのか、それとも必然だったのか。
「死」の4か月前、ペギーが筆者に対して語った数々の述懐は、その謎を解き明かし、はからずも彼女の「遺言」となった。


自身もまた戦争に翻弄された少女時代を送ったペギーによって新たな「命」を吹き込まれた
『南国土佐を後にして』が国民的なヒットとなったことで、新しい曲が発見された。
そしてその曲が、東日本大震災の被災者たちを勇気づけ、大きな影響を与えていく。


戦地の若者が口ずさんだ歌の誕生から実に80年近くを経ても、多くの名もなき人々が共鳴し合う奇跡の物語は脈々と続いていた。
丹念な取材と構成で明かされる、忘れ去られていた日本人の優しき心とは――。


 このノンフィクションを読み終えて、僕は子供のころに読んだ、手塚治虫先生の『ブラックジャック』のある話を思い出しました。
 核実験の被害を受けた画家が、ブラックジャックの手術で新しい肉体に脳を移植し、核兵器の悲惨さを伝えるための絵を描くのですが、元気になった彼は、その絵を描けなくなってしまうのです。
 しかし、残った脳にも症状が出てくると、彼はまた絵を描きはじめ、絵の完成とともに息絶えました。
 「間に合いませんでしたね」と言われたブラックジャックは、「いや、彼は間に合いました」と答えたのです。
 戦争についての記憶がどんどん薄れていくことは自然なのだと思うし、戦争を知らずに生きてこられた僕は、生まれた時代に感謝すべきなのでしょう。
 でも、同じような悲劇を繰り返さないためには、戦争のことを語り継ぐ、ということは、重要なことなのだと思います。


 僕は『南国土佐を後にして』という歌も「聴いたことがある」程度ですし、戦争についても、父親から「おじいちゃんは、戦争に行って帰ってきたんだよ」という話を聞いたくらいなんですよね。
 日本が戦争をしていた時代も、戦後の食べ物がない時代も、知識として持ってはいても、実感はわかない。
 

 このノンフィクションを読み、ペギー葉山さんが昨年亡くなられたこと、亡くなられる何年か前に子供のころに疎開していた福島県いわき市で、素晴らしいコンサートを開いたこと、そして、数カ月前に、著者の取材に対して、自らの思いを語ってくれたことを知りました。
 ペギーさんは、まだまだ歌手として活躍できる人ではあったけれど、戦争や子供たちへの思いがこうして遺されたことを、「間に合った」と僕は感じたのです。


 このノンフィクションのなかでは、日中戦争で中国を転戦した高知県出身者を中心とした「鯨部隊」のことと、そこで飼われていた一頭の豹のことが紹介されています。
 地元の人たちに頼まれて、豹退治に行った先でみつけた、一頭の子豹は、人に慣れ、部隊のマスコットとしてかわいがられたのちに、人の縁で上野動物園に送られることになります。
 ところが、動物園にも戦争の影響が及び……


 『南国土佐を後にして』の元になった『南国節』は、そんな鯨部隊で、いつの間にか広まっていた歌だそうです。
 最初に誰がつくったのか、諸説あるようですが、はっきりとわかってはいない。
 軍歌以外は原則的に禁じられていた軍のなかで、多くの兵隊たちが愛し、口ずさんだ「望郷の歌」でした。


 それが、昭和33年(1958年)にNHK高知放送局の開局記念番組で、ペギー葉山さんに歌われることになったきっかけは、声楽家を目指していたこともある、ひとりのプロデューサーの熱意でした。
 当時歌われていた『南国土佐を後にして』を地元の歌として聞いたプロデューサーは、これを「女性の歌」として、ジャズ歌手・ペギー葉山さんに歌わせる、というアイディアを思いつくのですが、ペギーさんは「自分のイメージとは違う」と、着物の女性歌手がコブシをきかせて歌っていた曲を拒絶するのです。

『南国土佐を後にして』を歌うか、歌わないか。
 NHKプロデューサーの妻城良夫とペギー葉山との攻防は、歴史に残るものとなっていく。
 専門の音楽プロデューサーから見て「この曲はこの歌い手に」と考えるのは最も大切な仕事のひとつであり、一方の歌い手から見れば、自分のイメージが変わってしまうような曲目や演出は、どうしても避けてもらわなければならない。プロであれば、それは譲れぬ一線である。
 いうまでもなく、お互いが確信をもった「攻防」の場合は、決着がむつかしい。こうなると、最後は、執念が勝るほうに軍配が上がるのは世の常である。
 妻城には、「それがペギー葉山自信のためになる」という揺るぎない自信があった。さらに、最後には、彼女が、自分の言っていることを理解してくれると信じていた。

 
 妻城は、ペギーに歌ってもらうために、さまざまな工夫をおこなった。
 最も大きかったのは、『南国土佐を後にして』の「歌詞を変える」ことである。


 もともと、軍隊で歌われていた「男の歌」を「女の歌」へ。
 そのおかげで、多くの人に受け入れやすくなったのと同時に、「もとはこんな歌じゃなかった」という批判も、軍隊で歌った人のなかから出てきたそうです。
 

 なかなか歌うことを了承してくれないペギーさんに、妻城プロデューサーは、こんなことまでしたのだとか。

 妻城の執念はすさまじく、トイレに行ったペギーを待ち伏せしてまで説得をつづけた。そして、最後は、本番が終わったあとのアトラクションでいいから、地元の人にこの歌を歌ってあげてほしい、という頼み方までしたのである。


 当時50歳近くだった妻城プロデューサーが、25歳のペギーさんのトイレ帰りに待ち伏せ、なんて、今の感覚では「ストーカー案件」ですよね。
 そこまでやって、アトラクションで歌うことを了承してもらい、半ばだまし討ちのようにして、本番でもペギーさんに『南国土佐を後にして』を歌わせたのです。


 こうして世に出た、ペギー葉山さんの『南国土佐を後にして』は、放送直後から大評判となり、渋るペギーさんを説き伏せてレコードが発売されると、「発売からおよそ1年で100万枚を突破する戦後最大のヒット曲」となりました。
 ペギーさんにとっては「無理に歌わされた、自分には合わないはずの曲」が、こんなに売れてしまったのです。
 当時は、ジャズの仕事に集中しようとしても、『南国土佐』絡みの話ばかりで、ペギーさんとしては、かなり不本意でもあったそうです。


 この『南国土佐を後にして』がきっかけにロサンゼルスで歌うことになり、そこから独力で足を延ばしたブロードウェイで出会ったミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』で、ペギーさんは『ドレミの歌』に出会い、日本語に自ら翻訳し、これが大ヒットになりました。
 大部分の日本人が知っていて、いまの子どもたちも歌える『ドレミの歌』は、ペギー葉山さんが輸入したものだったんですね。
 この本を読むまで、僕は全く知りませんでした。


 2012年、高知のはりまや橋の近くの公園につくられた『南国土佐を後にして』の歌碑の除幕式で、ペギー葉山さんは観衆に語りかけています。

「高知へ帰って来るとね、皆さんが”おかえりなさい”と言ってくださるんです。私には、日本の国のどこに行っても”おかえりなさい”と言ってくださるところは、ほかにはないんです。高知はね、飛行場に着くと、もう、お会いしたことがないような方が”おかえり”と言ってくださるの。そして、帰るときは”今度、いつ来る?”って……。そういう人と人との触れ合いができる、唯一の場所が高知なんです。皆さま、本当にありがとうございます」


 ストーカーのようなプロデューサーに無理やり歌わされたのが縁で、高知は、ペギーさんの「ふるさと」になったのですから、縁というのは不思議なものですね。
 『南国土佐を後にして』が軍隊で歌われていたことどころか、この曲名も知らない人も多いのではないでしょうか。
 そういう若い人にこそ、ペギーさんや多くの旧日本兵たちの「遺言」を読んでみてもらいたい、僕は、そう思うのです。


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