- 作者:健, 柳澤
- 発売日: 2020/02/27
- メディア: 単行本
Kindle版もあります。
内容紹介
『1984年のUWF』の続編にして、『1976年のアントニオ猪木』の最終章!タイガーマスクに憧れプロレスを志した少年―-。アマレスを学び、プロレスラーになった桜庭和志は、サブミッションレスリングに夢中になり、総合格闘技の世界へ。そしでPRIDEの主役となり、UFCのレジェンドであるホイス・グレイシーと107分の死闘の末、伝説となった。桜庭が、“リアルファイトのタイガーマスク”になったのである。桜庭の生き様を追いながら、グレイシー柔術とは何か、MMAとは何か、格闘技とは何か、UWFとは何か、プロレスとは何かに迫る。
取材は、桜庭への幾度にも及ぶインタビューだけでなく、石井和義やホイラー・グレイシー、ホイス・グレイシーにも行った。著者は、自ら柔術教室にも通い、そのなんたるかを学んだ。まさに体当たりのこの作品は、著者の真骨頂でありひとつのシリーズの大きな締めくくりでもある。
柳澤健さんの『〇〇年の××』シリーズは、第一作目の『1976年のアントニオ猪木』から、全作読んできました。それまでのプロレスに関する本は、レスラーの自伝か、プロレス業界の記者・編集者によって書かれたものが多く、良く言えば虚実が入り混じる面白さがあり、悪く言えば、書かれていることが本当なのかどうかよくわからないものが多かったのです。
そんななか、柳澤さんは、大勢の関係者に取材をして、事実を多角的に積み上げるというやりかたで、新しい形の「プロレス・ノンフィクション」をつくってきました。
近作に関しては、さすがにもうネタが尽きたのかな、と思うところもあったのですが、今回の『2000年の桜庭和志』というタイトルに、「ああ、そういえばまだ、桜庭が残っていたなあ」と思ったのです。
僕は、「テレビで中継されるようになってからの総合格闘技ブーム」で桜庭和志を知り、試合を観るようになったのですが、僕にとっての桜庭は、ヴァンダレイ・シウバに打ちのめされ、リベンジを期待されながらもそれが叶わないまま、いつのまにか姿を見なくなってしまった人でした。
総合格闘技に出場したプロレスラーたちが次々に惨敗していくなかで、ひとり気を吐き、「プロレスは強いんです!」と叫んだ桜庭選手は、この本でも多くのページが割かれている、ホイス・グレイシーとの107分にもわたる激闘で、「グレイシー・ハンター」として、「日本で最も有名な総合格闘家」となったのです。
でも、ホイス戦の時点で30歳だった桜庭は、ホイス戦以降、自分よりも体重が重い選手たちばかりとの闘いによるダメージの蓄積と、年齢とともに疲労が抜けにくくなった身体と向き合っていかなければなりませんでした。
桜庭和志、という格闘家は、自らのピークの状態でのホイス戦で多くの人に知られることになったのですが、観客にとっての「新たなヒーロー」が誕生したときには、すでにその力は下降線をたどり始めていたのです。「真剣勝負をする」というのが、いかに身体と精神を削っていくことなのか、と考えずにはいられません。
桜庭選手がPRIDE以前に参戦していた『キングダム』でのリアルファイト(この本によると、キングダムでの桜庭選手の試合のうち、勝ち負けがあらかじめ決められていない真剣勝負は2試合だけだったそうです)でのエピソード。
1997年7月29日に代々木第二体育館で行われたキングダム旗揚げ第3戦。
桜庭と(オーランド・)ウィットの試合は第4試合に組まれた。
桜庭にとってウィットとの試合は、結末の決められていないリアルファイトではあったものの、だからといって秒殺してしまえばいいというものでもなかった。
自分たちは、観客が支払うチケット代金のお陰で生活している。だからこそ、常に観客を満足させる試合をしなくてはならない。ガチである以上は勝ちたいが、プロフェッショナルとして、つまらない試合はできない。白熱した試合をファンに見てもらいたい。
そんなプロレスラーならではの責任感を、桜庭は現在まで強く持ち続けている。
鮮やかに極まるかに見えた桜庭の腕ひしぎ十字固めがずっぽぬけてしまったのは、レガースとシューズを着用していたからだ。緩むこともずれることもあるレガースは、キックの衝撃をやわらげるためには役立つが、関節技には邪魔でしかない。
ロープ際で、桜庭がウィットからマウントポジションを奪った。だが、エプロンにウィットの頭部が出ていて殴りづらい。ルール上、ウィットが目の前にあるロープをつかめばロープブレイクだが、つかまらなければ試合続行である。
膠着が続いたために、スタンドから再開され、ウィットの左ミドルをキャッチした桜庭が、前田日明が使うキャプチュードのようにウィットを後ろに投げた。
理由はふたつある。ひとつは見せ場を作りたいから。もうひとつは、ロープエスケープを避けるために、リング中央にウィットの身体を持っていこうとしたのだ。
桜庭の頭の中には常に、観客を楽しませることと試合に勝つことの両方が入っている。
結局、桜庭はリング中央でウィットからマウントポジションを奪い、6分01秒、チョークスリーパーを極めて勝利した。
桜庭選手が、ストロングマシンのマスクをかぶって入場してきたり、総合格闘技の試合中に、ローリング・ソバットやモンゴリアンチョップを使ってみせて大喝采をあびていたのを思い出します。
桜庭和志というファイターは、リアルファイトで「勝つ」だけではなくて、「観客を満足させる試合」をすることを自らに課している「プロ」であり続けたのです。
2002年8月28日に、国立競技場に9万人をこえる観客を集めた行われた『Dynamite! SUMMER NIGHT FEVER in 国立』のメインイベントで、桜庭はミルコ・クロコップと対戦しました。
広い国立競技場の中央に置かれたリングで、桜庭は自分よりも7歳若く、25㎏も重く、従ってパワーでも遥かに上回る相手と互角に戦ったが、ガードポジションをとったミルコの長い足でペダラーダを食らい、眼窩底骨折によるTKO負けを喫してしまう。
ヴァンダレイ(・シウバ)とミルコ以外に桜庭和志がPRIDEで戦った主な相手の年齢と体重は以下の通りだ。・クイントン”ランペイジ”ジャクソン(23歳、115㎏)
・ケビン・ランデルマン(32歳、93㎏)
・アントニオ・ホジェリオ・ノゲイラ(27歳、93㎏)
・ヒカルド・アローナ(26歳、93㎏)自分よりも遥かに若く、遥かに重い相手と次々に試合を組まれたということだ。異常なマッチメイクとしか言いようがない。
93㎏が多いのは、2001年11月からPRIDEミドル級王座が新設され、体重のリミットが93㎏に設定されたからだ。桜庭和志のベスト体重は85㎏。「90㎏以下なら誰とでも戦う」とずっと言い続けてきた。にもかかわらず、DSEはミドル級のリミットを85㎏でも90㎏でもなく、わざわざ93㎏に設定した。しかも前日計量で。ランデルマンやアローナの体重は、試合当日には間違いなく100㎏前後に戻っていたはずだ。桜庭は常に15㎏以上重い相手と戦い続けたのである。
ヴァンダレイ・シウバには3度続けて敗れ、最後の試合では失神KO負けを食らった。
ホジェリオやアローナにも敗れた。
体格差の大きい相手の打撃によって、桜庭は大きなダメージを受けた。試合会場から病院に直行するケースも珍しくなかった。
それでもランペイジやランデルマンからタップを奪ったのはさすがだ。
結局のところ、PRIDEを運営していたDSE(Dream Stage Entertainment)は、まず興行ありきで、格闘技における体重差の影響を過小評価しており、桜庭が自分より大きな相手に勝つことを期待してマッチメイクをしていたのではないか、と著者は指摘しています。
試合時間やルールがすぐに変わってしまう(桜庭対ホイスの「伝説」は、決着がつくまでやる、という異常なルールだったからこそ生まれた、というのも事実なのですが)、という「競技」としてはあまりにも杜撰な運営がなされてもいたのです。
ただし、そういう「いいかげんさ」が、「何が起こるかわからない面白さ」にもつながっていて、「お客さんを楽しませること」を自らに課していた桜庭選手は、そういう状況も受け入れて、闘っていたようにもみえるのです。
さすがに、秋山選手の「クリームでヌルヌル事件」は、腹に据えかねたみたいですけど。
そんな秋山選手が、無期限資格停止から、1年も経たないうちに「復帰」してくるのが「興行」の世界でもあるんですよね。
「IQレスラー」と呼ばれ、大酒を飲むこともあれば、タバコも吸っていた桜庭和志。
リアルファイトの世界で、「観客を満足させること」にこだわり続けた男。
桜庭さんは、プロレスラーとしては、ものすごく異質な存在であるのと同時に、もっとも「プロレス的な精神を持った人」だったような気がします。
ちなみに、この本のなかでは、最近の桜庭さんの活動も紹介されているのですが、僕はそれを読んで、「とりあえず幸せそうでよかった」と嬉しくなりました。