琥珀色の戯言

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自分探しが止まらない ☆☆☆☆


自分探しが止まらない (ソフトバンク新書)

自分探しが止まらない (ソフトバンク新書)

内容紹介
自分探しの罠にはまらないための道を探る!
自己啓発や自己分析でかえって己を見失ってしまう若者や、自分を探しに世界へまで飛び出してしまう夢追い人など“自分探し”は日本中に蔓延している。
中田英寿から「あいのり」まで幅広い分野での自分探しを分析し、その実態を探り出す。

 著者の速水さんより少しだけ早く生まれている僕にとっては、非常に考えさせられる本でした。
 正直「こんなのに引っかかって搾取される若者たちはバカだなあ」と思いながら読み進めていったのですけど、読んでいくうちに、僕は自分も「慢性自分探し病患者」であることを自覚せずにはいられなかったんですよね。

 この本の内容というのは、この本のなかの一文で象徴されています。

 身も蓋もない言い方をするなら、自分探しの旅とは現実逃避のことだ。

 この本のなかでは、「自分を変える」あるいは「自分を探す」ための、「環境を変える」あるいは「自分の内面を変える」という2つの方法について触れられています。どちらかというとよりバカにされがちなのは前者のほうなのですが、僕は経験上、「内面を変えるより、環境を変えたほうが『生きやすくなる』場合がある」ということを知っています。
 極論だけど、「自己開発セミナーに通うくらいなら、インドに行ってみれば?」とも思うんですよ。


探すな決めろ - 書評 - 自分探しが止まらない(404 Blog Not Found(2/15))
この本に対する↑の書評の

仮に「自分探し」というものが「病」だとしても、それははしかや風疹のように若いうちに誰もがかかり、かかっておいて然るべき病なのだと思う。若いうちは「患者」本人も世間も自分探しをする者たちに対して寛容であるべきだ。

しかし、0x20歳、すなわち32歳あたりを過ぎても「自分が見つからない」人々は、無理矢理にでも自分を決めてしまった方がいい。「自分を決めた者」を、自分探しをしている人々が嗤うのは確かだが、嗤わせておけばいい。

自分がないものに嗤われても、本当は痛くも痒くもないのだから。

というところを読みながら、僕は自分のことを考えずにはいられませんでした。
僕は、「自分を決めて」いるのだろうか?と。
僕は医療を生業として10年以上になりますが、いまだに、「ここではないどこか」を求めている自分が悲しくなります。
いや、大学に入って、研修医になった頃は、「すごい医者になってやる!」って思ってたんですよ本当に。
でも、10年やっていると、自分の「限界」が見えてくるわけです。
この世界には、勉強や研究や人と接することが好きで好きでたまらない、という人がけっこうな数いて、彼らは、「データを出すために目の前の患者さんに対して治験の協力をお願いすること」を精力的に行うことができます。もちろん彼らだって、「未来の医療のためには必要なことだけれど、目の前のこの人にとっては、こうして協力することにあまりメリットはない(もちろん、デメリットというのも少し余計に血液を採取されるというくらいのものなのですが)ことはよく知っています。
それでも、積極的に「医者としての高みを目指す」と、彼らは「自分を決めて」いるのです。

僕はどうかというと、医者として自分が高いところにいけないというのを、こうしてブログを書いたりして、「どうだ、医者ブログで医療ネタ中心でもないのに、こんなに人を集められるヤツはそんなにいないだろ」という矮小化されたプライドで「埋めて」いるわけですよ。「自分の本来あるべきところ」「目指すべきところ」から外れてしまっていることを、「医者らしくない、こんな僕を見て!」というような的外れな自己顕示欲を発揮することで代償しているんですよね、つまり。
僕は「モテ自慢」とか「競争馬を所有している」とか「飲み屋街で顔である」「政治的な活動をしている」というような医者たちを、若い頃、ものすごく軽蔑していました。あるいは、「マイホーム主義で、休みの日は患者さんからの電話に出ない開業医」とかも。
しかしながら、僕も今、同じようなことをやっているのだと思います。
「医者らしくない医者」であることに、「自分の価値」を求めようとしている負け犬。
でも、こういう「自分探しの場」を捨てて、「普通(あるいはそれ以下)の医者」として目の前の仕事を淡々とこなして生きれば、本当に「幸せ」になれるのかどうか? それもあまり自信が持てなくて。


 僕は、フリーターに「されてしまう」若者たちは、かわいそうだけどある意味、幸せなんじゃないかとも思うのです。

「私が文章書きになれたのは、”夢”を持ち続けていたからではない」(活字中毒R。(2008/2/5))
↑で、唐沢俊一さんは「夢の弊害」を語っておられますが、もし、唐沢さんが大学時代に「夢」を捨て、薬剤師になっていれば、彼はずっとこんなふうに思いながら生きてきたはずです。
「ああ、あのとき、どうして俺は『文章で身を立てる』という夢を諦めてしまったのだろうか?」

残念ながら、人生にはセーブポイントはないので、僕たちはビアンカとフローラのいずれかとしか結婚できません(一度別れて再婚する、という裏技もなくはないけど)。そして、ビアンカと結婚してみなければ、それが「正解」だったのかどうかって、わかんないんですよね。ビアンカは不感症かもしれないし、フローラだって極度のファザコンかもしれない。あるいは、ビアンカと結婚することによって、フローラが「理想化」されてしまう場合もあるでしょう。
結局、世の中には「やってみないとわからないこと」ばかりで、成功者は若者に「とにかくやってみろ!」と言い、失敗者(あるいは後悔している人)は、若者に「身の程を知れ!」と言う。それを聞いた僕は、前者に「お前は成功したからな」と反感を抱き、後者に「お前が失敗したからって、俺の可能性を狭めるんじゃねえよ」と毒づく。
たぶん、「それでも自分探しをする」あるいは「しない」というのが正しいわけじゃなくて、「自分探し」をするほうが、よっぽど覚悟が必要なんだということを知っとけ、という話なのではないかと僕は思います。
結果的に、そういう「覚悟」を持てず、「とりあえず勉強してお金がもらえて、人の役に立ちそうな仕事を」ってことでこういう人生を選んだ僕は、今でも「他の可能性」について考えることもあるのですが、正直、「こうして(あまり人から馬鹿にされないような)仕事があって、それなりにお金も稼げて、憂鬱だ才能の墓場だなんて言っていられる立場」は、ものすごく「幸せ」ではあると思います。こうして「自分探し」ができるほどの余裕もあるんだからさ。
もっと「夢」的な職業を目指していたら、かなりの高確率でドロ沼にハマっていただろうし。
ただ、それでも「もっと良い選択肢があったのではないか?」という思いは捨て切れないのです。本当に、往生際が悪い。
10代の頃、自分が「人と違うのではないか」「周囲より劣っているのではないか?」という恐怖にさいなまれていたはずなのに、いざ「普通の大人」になってしまうと、今度は、その「普通さ」が悔しくて悲しくてしょうがないんです。

この本では「若者の自分探し」が主に語られているのですが、「オトナの自分探し」っていうのは、もっと悲惨なんだよね実際。
風疹・麻疹と同じで、「大人になってからかかると重症化する」。
「不倫は文化だ」「ちょいワルオヤジ」「熟年離婚」「灰になるまで女」と居直る大人たちの末路は、「とりかえしがつかない」ものになる可能性が高いし、若者が「苦痛」を「自分探しのための試練」だと受け入れがちな一方で、大人っていうのは、「快楽」=「自分らしく生きること」だと考えがちなんですよ。
こういうのがどんどんメディアから「推奨」されていくのだけれど、もちろん、老後の責任なんて誰も取ってはくれません。

おそらく、人間というのはそれなりに豊かで時間を持て余すと「自分探し」をしたくなる生き物なのではないかな、と思います。そして、それを止める唯一の方法は、「余裕がないこと」そして「(戦争などの)大きな力で、人生に対して自分の意志が反映される可能性がなくなること」くらいなのかもしれません。

そもそも、ブログなんて、まさに「自分探し」そのものなんだよなあ。
ネットのあちこちで、いろんな人が、「俺が俺が」「私は私は」って叫んでいて、誰かが認めてくれるのを待っている。
にもかかわらず、みんな「自分のこと」で一杯一杯で、誰も「お前がお前が」「あなたがあなたが」なんて言ってくれない。

でも、「自分探し」すら許されなくなったら、「普通の人間」は、どうやってこの退屈な人生を過ごしていけばいいんだろう?



P.S. いつものことながら、「本の感想」になってなくてすみません。

P.S.2
この『自分探しが止まらない』には、「では、どうすればいいのか?」という答えは書かれていませんので、僕なりに、その答えを出すヒントになりそうな本を挙げておきます。「らしくなさ」にアイデンティティを求めがちだった僕への自戒もこめて。


疲れすぎて眠れぬ夜のために (角川文庫)

疲れすぎて眠れぬ夜のために (角川文庫)

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