琥珀色の戯言

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ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち ☆☆☆☆


ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

内容(「MARC」データベースより)
浜崎あゆみNANA、郊外型ショッピングモール、携帯メール…。彼女たちの物語はどこから生まれたのか? コミュニケーションという地獄を生きる少女たちの文化と生態を、ケータイ小説から読み解く。

 最近ずっと「ケータイ小説が売れた原因を分析した本」を見かけては手にとっているのですが、この『ケータイ小説的。』というのは、そのなかでもかなり興味深い一冊でした。ほとんどの「ケータイ小説論」が、ケータイ小説を「社会現象」として、あるいは、「ケータイ小説に書かれている内容は事実か?いまの高校生は、本当にこれを『リアル』だと感じているのか?」ということを分析しているのに対して、この『ケータイ小説的。』は、愚直なまでに、「ケータイ小説」とは、どういう性格の「文章」なのか?と、「文体、構文的な分析」を加えているんですよね。「文学」とはかけ離れた場所にあるはずの「ケータイ小説」に「文学的アプローチ」で迫ることによって、「現代の若者が好むタイプの文章」が浮き彫りにされているのです。
 この本のなかでは、浜崎あゆみが「ケータイ小説」に大きな影響を与え、彼女の歌詞がしばしば小説内で引用、紹介されていることが触れられているのですが、「浜崎あゆみが書く歌詞の抽象性」に言及されているところでは、まさに、なるほど!と頷いてしまいました。
 そういえば、最近の浜崎さんに関する話題って、「突発性難聴」とか「姉と慕ったひとの死」とか、まさに「ケータイ小説的」なものが多いですよね。もちろん僕はそれがフィクションであると言うつもりはありませんが、そういうエピソードがこれだけ表に出てくるというのは、浜崎あゆみというアーティストが「ケータイ小説的」なプロモーションの上に成り立っているのではないかと思われます。

 そして、「ケータイ小説」の「現代文学の流れとは全く無関係に突然あらわれたように思われる、実体験風の若い男女の物語」の源流と『ティーンズロード』の投稿欄に求めたところは、まさに慧眼というか、読みながら「なるほどなあ」と感心してしまいました。
 本田透さんが『なぜケータイ小説は売れるのか』で書かれていた、「典型的なケータイ小説」の「7つの大罪」(売春(援助交際)、レイプ、妊娠、薬物、不治の病、自殺、真実の愛)のルーツは、ケータイとともにあらわれたわけではなく、『ティーンズロード』などの「体験談コーナー」に、そのプロトタイプがあったわけです。
 おそらく、最初はみんな「実体験」を書いていたのでしょうが、その「実体験」に対して「感動した」「がんばって!」などの反響がみられるようになると、投稿者たちは、どんどん「実体験に創作部分を加え」、そして、「実体験風のフィクション」に物語を「進化」させていったのでしょう。

 以前、『なぜケータイ小説は売れるのか』を紹介したときに、Amazonのこんなレビューをとりあげました。

19 人中、11人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
いつもの人たち, 2008/2/19
By こるくた - レビューをすべて見る


私自身、この本で話題になっている層に該当するようですが
『少女達は資本主義の消費的な価値観に絶望し愛を求めた』とか
ケータイ小説読者は小説と現実の区別がついていない』だとか
少女達はこう考えてるんですよ、という風に
決め付けて語ってますが、かなりピントがズレてるような。

携帯電話ならいつも持ってますし、単純なプロットの
ケータイ小説は暇つぶしに丁度いいんです。
サイトに自作をアップするのも、いつものメールの延長で、
手軽に、紋切り型の物語を書いて遊んでる子がほとんどです。

私の学校の友人も、利用してるネットのコミュニティでも
美嘉やYoshiの小説を真に受けている子はほとんどいません。
いるとしても、小さな子供やごく一部の子たちだけで
本を買う大多数の子は、漫画感覚で短時間で読める、ありきたりで
コテコテのパターンを、あえて楽しんでいるだけです。

当事者達に会って調査したりすれば、わかりそうなことなのに
メディアの一方的な情報と憶測だけで『若者文化』を語って
『偏ったイメージ』をひろげる、こういう無神経な人の
行いを見ると、正直悲しくなります。

この人も、『女の流行』に便乗して
それに『おじさん好みの都合のいい決め付け』をして
事情に疎い人達からお金を巻き上げる、いつもの人
なんだろうなぁと思ました。
本の中では、やたらと自分のことをアピールしてるし。

ネット上で発言力のない層(何を書いても叩かれにくい層)
を狙って、都合のいい、見下した決め付けをするだけなら
お願いですから、放っておいてくださいと
どうしても言いたいです。

『なぜケータイ小説は売れるのか』に、でなく
「君達は単純な馬鹿だけど恋愛によって救われようと
してるんだよねぇ」と優越感をもって口出ししてくる
知ったかぶった、偏見まみれのイタい人の生態に、
興味がある人は楽しめるかもしれません。

 これを書いた人が、本当に「この本で話題になっている層」に該当するのかどうか、ある種の意図を持った人の「なりすまし」の可能性も否定はできないのですけど、【サイトに自作をアップするのも、いつものメールの延長で、手軽に、紋切り型の物語を書いて遊んでる子がほとんどです。】というのは、「事実」ではないかと思うのです。要するに『恋空』というのは、『ティーンズロード』(と言われても僕はちょっとピンとこないのですが、まあ、『ファンロード』とか『ジャンプ放送局』の読者投稿欄でもいいんじゃないかな、あるいは、『オールナイトニッポン』のハガキ職人とか)の常連投稿者たちが、「もっとウケる物語を!」と競い合っていくなかで生まれた、ひとつの「完成形」なのではないかと。
 ですから、「ケータイ小説」という名前そのものが本当は誤解であって、作者たちは「小説」を書いているというよりは、「ネタ」を投稿しているつもりなのかもしれません。
 「文学作品」を読んだ人たちが書く「小説」とは、ルーツも読ませようと想定している相手も違うのですから、「文学側」が「こんなの小説じゃねえ!」って拒絶反応を示すのは当然である気もします。まあ、小説というのが、あまり「型」にハマってしまうのも面白くないとは思いますけど。

 ゼロ年代以降の郊外化には、宮台(真治)が1990年代に指摘したような、一方的に解体される共同体という構図とはまた違った姿が見られるようになっている。
 逆に、新しい形で共同体が発生していると説くのは、社会学者の土井隆義だ。土井は、「近年の若者たちの間では、地元から遠く離れた高校や大学に進学しても、あるいは就職したあとでも、小学校や中学校までの地元つながりがそのまま保たれる傾向がある」という。つまり、一度なくなりかけた、「地元つながり」が再構成されているというのだ。しかし、これは単にかつてのような「近所づきあい」が復活してきたという話ではない。地元つながり志向が復活している理由とは、最近の若者に見られる「生得的な属性への思い入れの強さ」と携帯メールが、「地元つながりを維持」していく装置として機能しているからだという。
 つまり、携帯電話の普及が、郊外化という現代の兆候に変化を与えているのだ。大きな流れで言えば、宮台が指摘するように「大きな物語」が消滅し、共同体は解体され、郊外は流動化するという流れは否定できないものであるだろう。しかし、一方で新しい「地元つながり」が維持され、再生産されるベクトルも生まれているのだ。
 ケータイ小説の舞台となる郊外や、登場人物のメンタリティとは、本章で取り上げたような「地元つながり」を形作っている「『東京に行かない』感覚」「『電車に乗らない』感覚」と深く結びついている。さらに、ケータイ小説の文化的背景、つまり、彼女たちが「自分語り」をするために借用した言葉たちである、浜崎あゆみ、『ホットロード』『ティーンズロード』も、同じライン上に並べることができるだろう。これらのを結ぶキーワードとは、ずばり「再ヤンキー化」「ヤンキーの聖地回復(レコンキスタ)」である。

 携帯電話が出現したときには、「ものすごく便利なツール」だと僕も考えていたのですが、最近は、「携帯電話を持っていることが当然であり、いつでも連絡がとれるのが当然であることのストレス」みたいなものを強く感じています。「地元つながり」が再構成されるというのは良い面もあるのでしょうが、いつまでたっても、どこまで行っても断ち切れない「生得的な属性という鎖」の存在を感じてしまうのも事実なんですよね。「東京に出てリセット」することもできない時代というのは、けっこう「生きづらい」のかもしれません。
 それこそ、「ケータイ小説でも読んで現実逃避しないとやってられない」くらいに。

 「ケータイ小説」、そして、「携帯というツールが変えた世界の風景」に興味がある人には、ぜひおすすめしたい本です。

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