琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

人間失格 ☆☆☆


人間失格 (ぶんか社文庫)

人間失格 (ぶんか社文庫)

意外と好評(?)の「歴史的名作を読んでみる」シリーズ。
今年が生誕100年ということで(ちなみに誕生日は6月19日)、再ブームになっている太宰治の代表作のひとつです。
Wikipediaによると、

戦後の売り上げは新潮文庫だけでも累計600万部を突破しており夏目漱石の『こころ』と何十年にも渡り累計部数を争っている。

とのことですが、小畑健さんの表紙の集英社版が異例のベストセラー(1ヶ月間で7万5000部売れたそうです)になったのも記憶に新しいところ。

僕も中学か高校のときに一度読んだことがあるのですが、冒頭の

恥の多い生涯を送って来ました。

の一文と、ラストの

いまは自分には、幸も不幸もありません。
ただ、一さいは過ぎて行きます。

という文章くらいしか記憶になく、書店にぶんか社版の文庫が積んであるのを見かけて買ってきました。
表紙は前田敦子さんなのですが、うーん、この写真は、「ちょっと勘違いして掘北真希の真似をしている田舎の女子高生」みたいだ(ごめんなさい、でも嫌いじゃないんです)。

ほとんどまっさらな気持ちで読んでみた、この『人間失格』、正直言うと、「いま、2009年に『アラフォー』になった男が読むには、ちょっと辛い小説だな」という感じでした。
前半の、「自意識過剰な少年時代」は、すごく「ああ、これは僕の子供の頃と同じだ」と共感できるんですよ。
冒頭の停車場のブリッジに対する、「ただそれは停車場の構内を外国の遊技場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました」なんて独白には、思わず、「ああ、僕も同じようなことを考えていたなあ」と引き込まれますし、

 その頃の、家族たちと一緒にうつした写真などを見ると、他の者たちは皆まじめな顔をしているのに、自分ひとり、必ず奇妙に顔をゆがめて笑っているのです。これもまた、自分の幼く悲しい道化の一種でした。

という文章にも、「写真にうまく写れない自分」を思い出してしまいました。

でもなあ、率直なところ、「お前は、きっと、女に惚れられるよ」と予言された主人公が、東京に出てからの話には、ほとんど感情移入できないんですよね。
小谷野先生ではないですが、「非モテ」だった僕にとっては、「お酒に負けちゃうだけで、本当はいい人なんですよ」と主人公に次から次へと寄ってくる女性たちが、なんかすごくイヤになってしまいます。

「お酒に負けちゃうだけで、本当はいい人なんですよ」
(ただし、イケメンに限る!)

学生時代の僕であれば、主人公・葉蔵が東京に出たあとの物語にも、純粋さや身の置き場のなさ、露悪的な生き方に自分を重ね合わせることができたのかもしれませんが、いまの年齢になってしまうと、「結局、イケメンだったから、周りの女たちが面倒見てくれただけじゃないか。僕が同じことをやったら、誰にも構ってもらえずに野垂れ死にスーパーリーチだな」としか思えないんですよね。
仕事柄、たくさんの「迷惑なアルコール依存症患者たちの現実」を見てきたこともありますし。
カッコ悪い男は、「『人間失格』の登場人物としてさえも、失格!」なんだよなあ。
ああ、なんか書いてて腹立ってきたなあ。なんでこんなのに学生の頃は共感してたんだ僕は!

ただし、この作品、物語の本筋とは関係ない、葉蔵と堀木のやりとり(「喜劇名詞と悲劇名詞の話」は、有名ですよね)の洒脱さ(もちろん、現代人にとっては、そんなに「新鮮」ではないと思いますが……)などには、かなり唸らされます。
むしろ、「太宰治の小道具の使い方のうまさを読むための小説」なのかもしれません。

そして、ところどころに、心に刺さる文章も出てきます。

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」
 世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬るのは、あなたでしょう?)
 汝は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣、古狸性、妖婆性を知れ! などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、
「冷汗、冷汗」
 と言って笑っただけでした。
 けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。

ネットをやっていると、まさにこういう「世間」をふりかざす人たちにたくさん遭遇します。彼らは、「自分はそれを許さない」と言い切る自信がなくて、「世間」や「社会」や「常識」という「大きいけれど、目に見えない存在」持ち出して、他者を責めようとするのです。僕は、そういう人を見るたびに、「あなたにとっての『世間』って、どこからどこまでなの?具体的に説明できる?」って尋ねたくなるんですよ。たぶん、「そんなの説明できるようなもんじゃないだろ、世間は世間だ」って言われちゃうんだろうけど。「自分」=「世間」だと勝手に思い込んでいる人、あるいは、誰かを責めるために主語を大きくしている人は、ものすごくたくさんいます。「名無しさん」とか、ほとんどそう。
「世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?」
ブログをやっている人は、この言葉、覚えておくと気持ちがラクになりますよ。
太宰治の人生に対する世間の風当たりというのは、もし当時「2ちゃんねる」があれば、まちがいなく「太宰板」ができていたと思われるようなものだったので、そんななか、彼が見つけた「真実」は、すごく印象深かったです。
とはいえ、僕もこの葉蔵の人生を真似しようとは思いませんが。

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