琥珀色の戯言

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村上春樹『1Q84 BOOK 3』感想 ☆☆☆☆

『BOOK 1』『BOOK 2』の感想はこちらです。


1Q84 BOOK 3

1Q84 BOOK 3

内容紹介
1949年にジョージ・オーウェルは、近未来小説としての『1984』を刊行した。
そして2009年、『1Q84』は逆の方向から1984年を描いた近過去小説である。
そこに描かれているのは「こうであったかもしれない」世界なのだ。
私たちが生きている現在が、「そうではなかったかもしれない」世界であるのと、ちょうど同じように。


内容(「BOOK」データベースより)
そこは世界にただひとつの完結した場所だった。どこまでも孤立しながら、孤独に染まることのない場所だった。

ようやく『BOOK3』を読了。
正直、前半3分の2くらいまでは、物語がほとんど動かず、読んでいてすぐに眠くなってしまうことが何度か……
終盤は、さすがに面白くなってきて、一気読みしたんですけどね。

とりあえずネタばれにならない程度の感想としては、読み終えてとりあえずは安心し、満足しましたが、その一方で、ちょっと冷酷なんじゃないかなあ、と感じるところもありました。
そして、この長さのわりには「描ききれていない」のか、あるいは「あえて徹底的には描いていない」ところが多かったようにも思われます。
それでも、村上春樹作品としては、かなりきちんと「答えを提示している」作品なので、たぶん、『BOOK4』が出ることはないでしょう。


以下はネタバレ感想です。今回は「続編」ということもあり、ネタバレなしで書くのは困難と判断し、ネタバレ全開です。

ぜひ、『1Q84』を読んでから、この先をお読みください。
おそらく毀誉褒貶が激しい作品として後世には語り継がれると思うのですが、本好きにとって、これだけの話題性と「文学的な意味」みたいなものを併せ持つ本の出版にリアルタイムで立ちあえる機会はそんなにないはずなので。


それでは、ネタバレ感想をどうぞ。


『1』『2』の感想で挙げた、
1Q84』を「6つのこれまでの村上春樹作品との違い」について、『3』を読んで、あらためて再考してみました。

(1)「三人称小説」であること。

 今回目次を開いて驚いたのは、これまでの「青豆」「天吾」それぞれの視点に加えて、もう一人の人物の視点が加わっていたことでした。
「なぜこの人物だったのか?」というのは、「青豆と天吾を客観的にみることができる立場にあった」ということで納得はできるのですが、この人物に対する村上さんの扱いというか、この物語のなかでの役割が、僕にはちょっと腑に落ちないというか感じ悪かったというか。
 実は、僕にとっていちばん感情移入できたのは「語り手」のなかでは、この人物だったものですから。



(2)「父親」の登場

「なんでこんなにNHKにこだわっているんだろう? 翻訳者泣かせだろうし、海外の読者は「NHKの集金人」という職業を理解するのは、かなり難しいのではないだろうか?
僕はそんなふうに思っていました。
あと、「こんな集金人がいたら、さぞかし気持ち悪いだろうなあ」と。
でも、読み進めていって、天吾のお父さんが「棺の中でもNHKの集金人の制服を着ることを望み、それを受け入れざるをえなかった天吾」の場面を読んで、なんとなくわかったような気がしたのです。
エルサレム賞」でのスピーチで、村上さんがお父さんのことを語っておられたのを思い出さずにはいられませんでしたし。
あの「太平洋戦争」という時代に生き、一兵士として戦争に加わった「父親」、謹厳実直すぎる人物だった「父親」。
たぶんね、天吾は、父親を、赦したり、受け入れたりしたわけじゃないと思うのですよ。
これはけっして「和解の物語」ではない。
でも、天吾は、父親の生き方を、ひとりの人間どうしとして、「そういうふうにしか生きられなかった人間がいたことを、認めざるをえなかった」のです。
あの「NHKの制服」は、村上さんの父親世代の「軍服」の比喩だったのではないかと。
 


(3)わかりやすい「モデル」

 この作品には、オウム真理教エホバの証人などがモデルとなった団体が出てくるのですが、それが「ほのめかし」レベルではなくて、「さすがに実名で書いてはないけど、すぐにモデルが浮かんでくる」のです。
 でも、『BOOK3』では、「宗教とは何か、という問いかけ」は、『1』『2』に比べると、かなり薄まってきているように感じました。その一方で、物語としては、『BOOK3』は、かなり世界が小さくなってきているようにも思われます。
 ひとつだけ言えるのは、村上さんは、『BOOK3』では、「さきがけ」を、「主人公たちの仇成すもの」とは描いているけれど、「悪」だとはしていないことです。
 最後のほうの青豆の「祈りの言葉」の場面からは、「そういう宗教的な面も含めて、人格というのは構成されているのだし、そこだけを憎んでもしょうがないのではないか?」と考えているようにすら感じるのです。
 青豆の「聖性」というのは、ある種の「宗教的な背景」がなければ、生まれなかったもののような気もしますし。


(4)トラウマ文学?

 これも『1』『2』ほど、鼻につく感じはありませんでした。
 「小学校の頃の思い出」をこんなに引きずっているなんて、『リアルサウンド』かよ!とは、ちょっと思ったけど。



(5)ファッションや人物の描写がかなり詳細に

ファッションや人物描写は、今回はあまり印象なし。
風景描写は、相変わらずの素晴らしさでした。とくに、「月が2つに見える公園」の情景描写は、白眉だと思います。



(6)「愛」について

僕のなかでの「村上春樹作品における『愛』の描写」というのは、うまく言葉にしづらいのですが、「普通に人を愛する」という機能がインストールされていない人間を誰かが愛してしまう悲劇(『ノルウェイの森』の直子って、まさにそういう人ですよね)を描くことだと思っていたのです。

しかしながら、『1Q84』では、「愛すること」「求め、求められること」が「人間にとっての救い」として描かれているように感じます。

村上春樹という人は、"All you need is Love."という言葉を、本当に「信じられる」ようになったのだろうか?

これが『1』『2』のとき、この「『愛』について」で僕が書いたことなのですが、この『BOOK3』で僕にとって最も意外だったのは、天吾と青豆が「本当に再会できたこと」そして「元の世界に戻ることを選んだこと」だったんですよ。
いままでの村上春樹作品では、ここまできちんと、物語に対して「落とし前」をつけることはなかったと思うし、

青豆に近づいている、そう天吾は感じながら、暗い井戸のなかで目を閉じた。

というような終わりかたになるのではないか、と僕は内心予想していたんですよ。
あるいは、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のように、天吾が「青豆と再会できたから、元の世界には戻らない」という選択をするのではないかと。
ところが、今回の『1Q84』では、『1Q84の世界』を二人は脱出し、「お互いがいる場所なら、どんな世界でも生きぬいていく」と決意をします。
これはやっぱり、"All you need is Love."ですよねやっぱり。
まあ、僕自身は、「いまはそれでいいけど、そのうち、お互いのイビキがうるさいとか、足が臭いとか、日常生活がつまらないというような理由で、この二人でさえ『倦怠』を迎えて、『あっちの世界のほうが刺激的でよかった』なんて思う日が来るんじゃないかな」なんて不粋な想像をしたりもするんですけどね。本当にどうでもいいことですが。

セックス・シーンについては、『BOOK3』はとくに不快な感じはありませんでした。というか、ほとんど「してない」しね。
「天吾とふかえりが交わるシーン」が個人的に受け入れがたかっただけなのかもしれません。



いくつか気になった点など。
僕にとっていちばん「なんだかなあ……」と思ったのは、「牛河」の最期でした。
彼は確かに善人ではないだろうけど、ああいう人生を送り、ああいう死にかたをさせられるほどの「悪人」だったのだろうか?と考えずにはいられません。
僕は天吾や青豆のようにキチンとした人間じゃなくて、コンプレックスのかたまりだから、牛河という人間の「歪み」には共感できるし、彼の章はそんなに面白くはなかったけれど、あんな目には遭ってほしくなかった。
いや、あれはあれで、彼が新たなマザ(あるいはドウタ)として「再生」していくのだから、「滅亡」じゃないんだ、という読み方もできるのでしょうが、それはあくまでも「宗教的な救済」であって、牛河自身は、全く救われなかったのではないかと思うのです。
もちろん、小説の登場人物のすべてが救われなければならない、という決まりはないですし、「邪魔者」である彼の死に快哉を叫ぶ読者も多いのかもしれませんが……
あの場面は、読んでいて正直つらかった。そして、悲しかった。
僕は、青豆でも天吾でもなく、牛河だな、と思いながら読んでいたから。

あと、細かいことなんですが、村上さんはずっと「看護師」じゃなくて「看護婦」と書かれていました。
あれは、『1Q84』だから、「看護婦」のほうが時代的に正確、ということなのかな。


『モンキー・ビジネス』でのインタビューのなかでの、村上さんの言葉を繰り返します。

村上春樹:ここ数年、アメリカに行ってそのたびに感じるのは、一種のリアリティというものが、この現実世界からどんどん希薄になっていきつつあるということですね。9・11という事件を考えてみると、少数のテロリストが大型ジェットをダブル・ハイジャックして、ワールド・トレード・センターを二つともきれいに壊しちゃったわけです。でもあれくらいすぱっと決まってしまうことって、どう考えても現実にはあり得ないですよね。信じがたいことです。でもそれが実際に起こった。そういう意味ではなんというか、表現の良し悪しはともかく、奇跡に近いものがある。ニューヨークの真ん中で、人々の注視の中で、ああいう事件が起こり、何千人という人が現実に一度に死んで、そのせいで世界の仕組みや流れががらりと変わってしまった。でもね、やっぱりみんな、9・11の事件が本当にああいう形で起こったということを、まだうまく呑み込めてはいない。つまり腹の底までその実感が達していない。そういう気がしてならないんです。それがあまりに唐突に、あまりに見事に起きてしまったから。



――また、あの映像がきれいすぎましたからね。



村上:そうなんです。こういう言い方はまずいとは思うけど、ごく率直に言えば、超現実的なまでにクリアできれいです。ぼくが今のアメリカに行って、人々と話して感じるのは、われわれが生きている今の世界というのは、実は本当の世界ではないんじゃないかという、一種の喪失感――自分の立っている地面が前のようにソリッドではないんじゃないかという、リアリティの欠損なんですね。

 もし9・11が起こっていなかったら、今あるものとは全く違う世界が進行しているはずですよね。おそらくはもう少しましな、正気な世界が。そしてほとんどの人々にとってはそちらの世界の方がずっと自然なんですよ。ところが現実には9・11が起こって、世界はこんなふうになってしまって、そこでぼくらは実際にこうして生きているわけです。生きていかざるを得ないんです。言い換えれば、この今ある実際の世界の方が、架空の世界より、仮説の世界よりリアリティがないんですよ。言うならば、ぼくらは間違った世界の中で生きている。それはね、ぼくらの精神にとってすごく大きい意味を持つことだと思う。

僕は『BOOK3』を読み終えて、「結局、天吾と青豆は、僕たちの『1Q84年』に絶望して出て行ったんだな……」と悲しくなりました。
彼らは、「それでも、2人で『1Q84年』で生きていく」のではなく、「まちがった世界を否定する」ことを選んだ。
それは、こんな時代に生きている人間にとっては、絶望感をあおるというか、「ここは嘘の世界で、ちゃんとした世界があるはず、という安易な逃げ道を提示する」危険があるのではないかとも思います。
僕たちの人生には、たぶん、「本物の世界への入口」なんて存在しない。

でもね、実は、「出口」っていうのは、高速道路の片隅にあるんじゃなくて、青豆にとっての天吾、天吾にとっての青豆という「愛する人」そのものなのかもしれません。
「間違っている」のは、月が2つあることではなく、愛する人がいないこと。

ただ、「愛こそがすべて」って言いきれるほど僕は若くもないし、物事をシンプルに割り切れない。
正直、この『1Q84』という作品は、僕にとっては、「牛河、もうちょっとどうにかならなかったのか……」というのが最も印象に残りました。

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