琥珀色の戯言

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ダークナイト ライジング ☆☆☆☆☆



あらすじ: ジョーカーがゴッサム・シティーを襲撃するものの、ダークナイトが死闘を繰り広げ彼を撃破してから8年後。再びゴッサム・シティの破壊をもくろむベイン(トム・ハーディ)が現われ……。


参考リンク:『ダークナイト ライジング』公式サイト


2012年21本目の劇場鑑賞作品。
公開初週の火曜日の20時からのレイトショーだったのですが、お客さんは20人くらい。
まあ、こんなものかな、という感じです。
やっぱり日本では『スパイダーマン』以外のアメコミ映画は厳しいのかな……
それでも、観に来ていた人たちの会話からは、この作品への期待感は伝わってきました。


僕も、映画館で、この『ダークナイト ライジング』の予告を観てから、ずっと楽しみにしていたのです。
前作『ダークナイト』が、映画史に残る傑作であり、その続編、そして、今回の『バットマン』シリーズの完結編ということもあって。


今回はもうネタバレで書こうと思うので、以下は隠します。
ただ、これから観る人たちのために申し上げておきたいのは、この映画は、3時間近い長尺ながら、途中で時計を確認する必要がないほど没入できる作品だったということです。
ダークナイト』が気に入った人は、間違いなく楽しめると思います。
バットマン』なんて……という食わず嫌いの皆様は、前作『ダークナイト』を予習後にぜひ。
「おおかみこども」もいいですが、「こうもりおとこ」もたいしたものですよ!



では、ネタバレ感想をどうぞ。



本当にネタバレですよ!




冒頭でいきなりブルース・ウェインが引きこもりになっていたのには、ちょっと驚いてしまいました。
ダークナイト』でのジョーカーとの対決のダメージを考えると、そうなっても致し方ないような気もするのですけど、今回の敵・ベインがゴッサムシティで暴れているという話を聞いたとたんに、「新しい悪者、キターーーーー!」とばかりに大ハッスルして義足をつけ、バットマンスーツを着て警察と大立ち回り。
この場面を見ながら、僕はジョーカーが言っていた「悪がいるからこそ、善の存在意義があるのだ。だからお前は俺を殺せない」という言葉を思い出していました。
悪いヤツが出てくるのを待ってただろ、バットマン
社会にとっては「正義のヒーローなんて必要ないほうがいい」に決まっているのですが、当人にとっては、あれほどのカタルシスを得られる「ステージ」って、なかなか無いものなのかもしれませんね。
「あなたは死にいそいでいる」と忠告してくれるアルフレッドなのですが、「悪党がいないと引きこもりになって拗ね、悪党が出てくると生き生きとして危険なことをやりまくる」という主人に仕えるのはつらいだろうなあ……
今回は、アルフレッドの出番が少なかったのは、ちょっと寂しかった。
最後のほうに、ちゃんと「出番」はあるんですけどね。


「クリーンなエネルギー」として、核融合炉を秘密裏に開発していたブルースたちなのですが、それがベインたちに奪われて、あっという間に中性子爆弾に!
いやその設定にはさすがに無理があるだろ、しかも中性子爆弾をガンガンぶつけまくってるし……
冷静になって考えてみたら、マッチポンプというか、そんなもの作ったりしなければ、あるいは、あきらめて水に流してしまっていばよかったのに、ゴッサムシティにとっては迷惑千万な「クリーンエネルギー」だよなあ。


まあ、このへんのアバウトさも『バットマン』らしいのですが、この『ダークナイト ライジング』を観ていると、クリストファー・ノーラン監督の「板挟み感」が伝わってくるようです。
前半のシーンで、ブルース・ウェインはある女性と社交ダンスをするのですが、そこでブルースは「君、あんな発音していたら、貧乏人だとバレちゃうよ」というようなセリフをさりげなく口にするのです。
「発音」って、そんなに簡単に修正できるようなものじゃないのにね……
アレキサンダー』という映画で、コリン・ファレルの英語に訛りがあって(彼の英語は「労働者階級の発音」なのだそうです)「アレキサンダー大王らしくない」と批判されたという話があります。
僕などはそれを聞いて、「そもそもアレキサンダーは英語しゃべってないだろ……」と毒づきたくなったのですが、「階級差」みたいなのを気にする国も、まだまだあるんですね……


「貧乏人の発音」なんていう言葉を罪悪感なしに口にしてしまう、「上流階級」のいやらしさ。
そして、後半で、「搾取している連中を吊るせ!」と叫び、「人民裁判」を熱狂的に行っていく「労働者階級」の粗暴さ。
この映画を「階級闘争の映画」にしてしまってはいけないのかもしれないけれど……


結局、階級を超えた多くの「弱い人たちの善意」が積み重なって、ゴッサムシティの「解放軍」は立ち上がっていくのですが、この街、ベインたちがいなくなったあと、いろんな「反動」が出るだろうなあ、なんて考えずにはいられません。
クリストファー・ノーラン監督は、『ダークナイト』では、けっこう「一般市民や犯罪者の『善意』」にこだわっていたと思うのですが、今回はむしろ、「ひとたび誰かを『敵』だとみなしたときの、彼らの怒涛のような悪意」を容赦なく描いています。


個人的には、ベインがあんなことをして市民を煽った理由がよくわかりませんでした。
ジョーカーみたいな「理由なき無差別犯」ではなくて、「ゴッサムシティの浄化」という目的のためならば、すぐに爆弾を使ってしまえばよかったのに……
「どちらにせよ、爆発させるつもりだった」ならばなおさら。


あと、ブルースの「修行シーン」は、「おお、ジョジョの第2部!」とか、「村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』だ!」とか思ってしまいました。
最後、バットマンが「復活」してからの流れはもう、ジャパニメーションの「王道」!
でも、『ダークナイト』で、「完全なる善が完全なる悪を滅ぼす」という「正義のヒーロー」ではなくて、清濁併せのむ「調停者」となったはずのバットマンが、また「正義のヒーロー」に戻ってしまったように見えたことに、ちょっと意外な感じもしたのです。
それって、「原点回帰」なのか、それとも、「退化」なのか?


リーマンショック以降の世の中の流れをみていると、「搾取される側」の怒りや憤りは、どんどん増していくばかりです。
それはもちろん、アメリカでも同じことですし、あちらは日本以上に「格差」が顕在化している社会です。
クリストファー・ノーラン監督は、「もう、調停者がバランスを取れるような時代でもなくなってしまっているのだから、とにかく、子どもたちに『未来への希望』を見せてあげられるようなヒーロー(あるいは殉教者)が必要なのかもしれない」と考えたのでしょうか?


僕はこの映画のクライマックスで、バットマンがある若者に贈った言葉を聞いて、ちょっとウルウルしてしまったのです。

 ヒーローはどこにでもいる。
 目の前の子どもの肩に上着をかけてやり、「世界は終わらないよ」と優しく励ましてあげる。
 そういう男こそが、ヒーローなんだ。


バットマンは死んだ。
でも、バットマンは、命をかけて、みんなに希望を与えてくれた。
そして、これからは「ヒーローに助けてもらう」のではなくて、「あなたがヒーローとして、目の前の人を助けてあげる」順番がめぐってきたのだ。


バットマンは、ありきたりの「正義のヒーロー」に戻ってしまったのだろうか?とさきほど書きましたが、たぶん、そうではないのです。
もう、「調停者」としてのヒーローでも、うまく時代に適応できない。
最後に残された方法は、「みんなが、バットマンになる」こと。
バットマンは、いなくなることによって、「正義のアイコン」としての永遠の命を得たのです。


うーん、もしかしたら、バットマンは「神」になったのかもしれないなあ……


最後になりますが、僕は、この映画でのゴッサムシティの夜景が、なんだかとても好きでした。
素晴らしい映画を、ありがとう。
悲しい事件が起こってしまったけれど、この映画のおかげで少しだけ「ヒーローになる力」をもらえた人間も、少なくともここにひとりいることを伝えて、僕の感想を終わりにします。

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