琥珀色の戯言

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独立国家のつくりかた ☆☆☆


独立国家のつくりかた (講談社現代新書)

独立国家のつくりかた (講談社現代新書)

内容説明
現政府に文句があるなら、勝手につくっちゃえばいい! 東日本大震災後に熊本に新政府を設立し、初代内閣総理大臣に就任した男が明かす、いまを生きのびるための技術とは? 何も壊す必要などない。ただ、あらゆる常識を根底から疑い、歩きかたを変えてみる。視点を変えてみる。そして、思考しつづける。それだけで世界はまったく別の相貌を見せ始める。ここには希望しかない!


この新書を読みながら、僕はずっとイライラしていたのです。
「そんなふうに自由に生きられたら、苦労しないんだよ!」って。
「お金を使わない生活」っていうけれど、所詮、みんなの「おこぼれ」にあずかっているだけじゃないか、って。


でも、そういうのは、ある意味、「既成の概念を打ち破れない、保守的な人間」である僕自身への苛立ちでもあるのです。
この本に書かれているような生活は、「やろうと思えば、たぶん、今からだってできないことはない」のに。


著者は、早稲田大学建築学科4年のときに、ある「家」と出会います。

 僕もその時は、彼らのことをただのホームレスだと思いこんでいた。でも何か気になった。僕が大学で学んでいるのも建築ならば、これらも建築であるはずだ。でも、それはあまりにも小さく、か弱い建築に見えた。可能性があるようには思えない。むしろ、どうにかして彼らを支援する必要があると思った。
 そんな時、僕は一軒の家と出会った。一見、普通のブルーシートハウス。でも屋根に不思議なものが載っている。なんと小型のソーラーパネルだ。今までにないハイテクな家だったので思わずノックした。
 家の中に入ったら、畳一枚分ぐらいの小さな家。しかも、オール電化! 寸法を測ったら、間口が900ミリぴったりだった。とても丁寧なつくりをしている。
 僕はこれだと思った。今まで見てきた建築の中で、一番自分が思っているものに近かった。都市を自然と捉え、東京の自然素材(ゴミ)をもちろん0円で転用し、自分の体に合わせて、自分の手で家を建てている。自分の体、生活にぴったりと合っているので、購入したり借りたりすることでしか手に入れることができない現代の家とは、家そのものの在り方が違う。
 それがホームレスを呼ばれている人の家だったのだ。
 話を聞くと、これはまぎれもなく「ホーム」だと理解した。同時に、僕は自分自身を、ただ家を借りているだけの借り暮らしのホームレスだと思った。
 でも彼の家はとても小さい。とても人間の住む場所じゃないだろうと思えるくらい狭い。畳一枚より40センチ長いだけの空間。狭くて大変じゃないですかと聞くと、彼はこう言った。
「いや、この家は寝室にすぎないから」
 僕は意味がわからなかった。すると、彼は説明を始めた。
 晴れていれば、隣の隅田公園で本を読んだり、拾ってきた中学校の音楽の教科書を見ながらギターを弾いたりできる。トイレも水道も公園にあって使い放題。風呂は一週間に一度、近くの銭湯に行く。食事はスーパーマーケットの掃除をしたついでに肉や野菜をもらえる。だから、家は寝室ぐらいの大きさで十分だ――。
 話を聞くたびに、僕の目から鱗が落ちていった。その後、ずっと僕が言語化していくことになる思考の萌芽がそこにはあった。
 彼にとって、公園は居間とトイレと水場を兼ねたもの。図書館は本棚であり、スーパーは冷蔵庫みたいなもの。そして家が寝室。
 それを僕は「一つ屋根の下の都市」と名付けた。


一般的には「ホームレスの小さくて狭い家(というか居場所)だとみられているものも、考え方を変えれば、こんなふうに魅力的になる。
それが、著者のその後の活動の大きなきっかけだったそうです。
「ちゃんと共同体として集まって助け合えば、0円でも生活できるのではないか?」
「家を自分のものにする」ためだけに、35年ローンを組んで、やりたくない仕事を続けるような人生が、幸せなのか?」
著者は「3万円でつくれるモバイルハウス」を提案しています。
本気で考えれば、3万円で家が持てる(家に移動用の車をつけておけば、「不動産」として扱われないので、駐車場に停めたりしておけばいいらしいです。それを受け入れてくれるかどうかは、駐車場のオーナーの考え方にもよるみたいですけど)


先日、イギリスで「カネなし生活」を実践した人の本『ぼくはお金を使わずに生きることにした』を読みました。
この本の著者もまた、「カネなし生活」のためには、「他者との助け合いが必要不可欠」だと述べていたのです。


そういえば、『2ちゃんねる』のひろゆきさんも、「いつでもご飯を食べさせてくれたり、泊めてくれるような友人がいれば、自分がお金持ちである必要なんて無い」というようなことを、以前、対談で仰っていました。
逆に言えば、よっぽどの大金持ちでもないかぎり、天災に遭ったり、重病になったり、犯罪の標的にされたりしたら、「自分ひとりで貯め込んだくらいのお金では、太刀打ちできない」ところはあるんですよね。


他者との「信頼関係」こそ、最大の財産である、と。


ただ、僕としては、そういう「信頼関係にあふれた生活の煩わしさ」を想像してしまうのです。
「お金を使わない生活」には、「考えること」が大事なのだと著者は繰り返し主張していますが、お金というのは、ある意味「面倒なことを避けるための道具」でもあるんですよね。
お金の便利さを否定するというのは、「物々交換の際に、自分が欲しいものと相手が欲しいものが一致しないと取り引きができなかった時代」に逆戻りすることになるのではないかなあ。

 僕の場合、自分の体を動かすガソリンを、お金にしていない。お金なんかなくても動けるような車体にしている。
 どういうことかというと、僕は今、妻と娘と三人家族なのだが、お金のために生きないので、もしかすると所持金が0円になる可能性もある。その時は、堂々と河川敷に行って、0円ハウスを建ててそこで路上生活を家族とすることを決めている。妻もその覚悟でいる。だから、お金が0円になったって気にしないのだ。そうすると、福島の子どもを50人呼びたいからといってなけなしの150万円をポンと払うことができる。
 お金がなくても行動できるような体に設計している。燃料はお金ではなく、ひたすら社会実現をしようとする態度である。だから、永遠に枯渇しない。実現したら社会が変わるということだ。その時は、きれいさっぱり仕事を終えて、次の世代の人間を育てるように人生を変えていこうと思っている。
 だから、自らの使命を達成するまでは永遠に止まることのない楽しいドライブを続けているようなものだ。

「そういう生き方」もあるのだなあ、と感心しつつも、そういう「理想主義」を揶揄したい、という暗い欲望も、僕の心にはわいてくるのです。
みんなが「0円生活」をしようとしたら、地球は、日本はいまの人口を支えきれるわけがないだろう、と。
でも、「そういう生き方」も、やろうと思えばできる社会というのは、そうでない社会よりも「豊か」ではありますよね。


正直、僕自身は、反発しまくりながら読みました。
でも、だからこそ、「こういう考え方もあるのだ」ということに感動もしたのです。
僕たちが縛られていると思い込んでいる鎖は、意外と、ちょっと身をよじるだけでほどけてしまうものなのかもしれません。
「自由」や「自立」に居心地のよさを感じられる人ばかりではないだろうけど……



参考リンク:『ぼくはお金を使わずに生きることにした』感想(琥珀色の戯言)

ぼくはお金を使わずに生きることにした

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