- 作者: 黒田基樹
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2006/09
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内容(「BOOK」データベースより)
武田、上杉、北条…数々の群雄が割拠し、しのぎを削った戦国時代。飢饉と戦争で疲弊した百姓は、社会的危機には公然と「世直し」を求めた。生き延びるために、ときに大名の戦争に参加し、また、隣村との境界争いなどにも武具を携えて参集した。いっぽう大名は、百姓に礼を尽くした施策を講じて領国の安定を図った。庶民の視点から乱世期の権力構造と社会システムをとらえなおす。
「大名」というのは、農民たちを「生かさず殺さず」、搾り取れるだけ搾り取るのが当然だと考えていた「絶対的な支配者」だと僕は思っていたのですが、この新書を読んで、だいぶそのイメージが変わりました。
戦国時代というのは、飢饉と戦争が日常化していた時代であり、人々にとっては生存すらが困難な、過酷な時代であった。人々の目的は、まさに生存すること、そのことにあった。そこで人々の生存のための仕組みであったのが、村であった。村こそ、民衆の社会主体としての発現形態であった。そしてその村々を構成していたのが百姓であった。
15世紀後半の応仁の乱〜1590年の豊臣秀吉の天下統一までの時代を「百姓」の立場からみると、慢性的な飢餓状態で、ギリギリの生活を余儀なくされており、土地や、水などの権利をめぐっての、村と村レベルの争いも頻繁に怒っていたことが、この新書では紹介されています。
長年の戦乱で土地は荒廃し、戦争に伴う略奪が日常茶飯事。
ギリギリの生活なのに、他国から侵略され、略奪されては飢え死に確実ですから、「強い国」「略奪する側の国」でいることは、百姓たちにとっても「生き延びるための必要条件」だったのですね。
実際、武田家は、信玄が当主だった時代には、本拠地の甲斐を戦場にすることはなく、常に他国を「侵略」していたのです。
武田信玄が、父・信虎を追放したクーデターの「背景」について、著者は、このように述べています。
信玄のクーデターは、世論から大きな支持を得ていた。むしろ、世論の求めによって行われた、といったほうがいい。深刻な飢餓状況のなか、信虎は有効な打開策をこうじていない、と判断され、人々は「世直し」の実現を強く求めた。そうした世論をうけて、信玄はクーデターを断行した。いや、せざるをえなかったのだろう。そうしなければ、甲斐国主としての武田氏の地位そのものも危ぶまれることになる、という判断があったに違いない。大名としての武田氏の存続のためには、そうした世論を真摯に受けとめなければならなかった。信玄は、輿論の要求に応えるために、クーデターを起こし、実力で代替わりをおこなった。そして代替わりによる、「世直し」のための対策を大々的に行ったのだろう。それが、人々をして、救世主のような扱いをさせることになったのだろう。
こうしてみてくると、戦国大名の地位というのが、思いのほか、当時の社会状況から大きな影響をうけていたことがわかる。これは、これまでの私たちが抱いていた戦国大名のイメージとは、かなりかけ離れている。しかし、それが実態であった。戦国大名という、領国で最高の地位ですら、領国の人々の意向を無視しては、存在することができなかった。
この新書で書かれているのは、いわゆる「戦国時代」が主で、秀吉の天下統一以降の詳細には触れられていません。
おそらく、国内での「内乱」がほとんど起こらなくなった時代では、大名の百姓たちへの接しかたも変わっていったのではないかと思うのですが、それ以前、天下が定まらなかった時代には「百姓ひとりひとりの意思」が尊重されることはなくても、「総体としての、百姓たち、村々全体の『世論』」みたいなものが、大名の政策決定にもかなり大きな影響を持っていたようです。
百姓たち、村々の支持を失っては、大名家も「家」を存続していくことが難しい。
武田信玄による父親の追放劇は、「親子の不仲」だけで成立したわけではなく、「信虎の失政への不信任」への武田家の自主的な「トップ交代劇」だったのですね。
著者は、この新書のなかで、当時の戦国大名のなかで、かなり多くの資料が遺されている北条家を中心に「戦国大名と領民たちの関係」を紹介しています。
武田家に従軍した足軽たちは、討ち取った敵兵から、刀以下の武器・防具類を奪い、それを身にまとって良い格好になり、さらに馬や女性などを略奪して、財産を殖やした。そうして本国甲斐だけでなく、支配下の国々の領民まで、みんなが豊かになった。しかもしれによって領国内は平穏が保たれていたという。
現代を生きている僕からすると「戦争に明け暮れている時代なんて、領民たちは経済的にも人的資源でも消耗しきっていたのだろうなあ」と感じてしまうのですが、実際は「勝ってくれれば、そのおかげで(その大名の領国内は)潤っていた」ということのようです。
そういう奪い合いの時代だと、国全体としての生産力は、どんどん下がっていくしかないのですが、その時代で飢えている人たちは「まずは今を生き延びること」でしょうしね。
また、この新書では、当時の「村」についても、かなり詳細に考察されています。
村同士の、武力をともなった争いは、当時の支配者からも「合戦」と表現された。「合戦」は、決して領主レベルだけのものではなかった。このことから中世というのは、領主から民衆までの多様な階層で、いたるところで合戦が繰り広げられていた時代であった。合戦は、蒙った損害や名誉を回復するために行われた。損害は、「当」「不足」などと称され、それを回復することは「相当」と称された。それは具体的には、報復行動を意味した。やられたらやり返す、目には目を歯には歯を、であった。
合戦では、必ずといっていいくらい、死者が出た。そもそも中世の人々は、日常的に武器を所持していた。
戦争となれば、何よりも戦力がものを言う。それはたいてい、軍勢数によった。そのため村は、戦争にあたって他の村に援軍を求めた。こうした加勢を「合力」といっている。紛争する双方で、加勢を求めあったから、村同士の争いは、たちまち村々同士への争いへと拡大していく。
戦国時代には、好戦的な大名に搾取され、戦争に巻き込まれる、平和主義の百姓たち、というわかりやすい構図ではなく、百姓たちも生き延びるために隣村と自主的に「合戦」をしていたのです。
むしろ、大名たちは、百姓同士の争いを「仲裁」する役割も担っていたのです。
もちろん、大名もそれなりの費用を要求していたのですが、公正な裁判を行って領民の支持を得るために、無料で訴え出られる「目安箱」を設置した大名も出てきました。
大名は、高圧的、一方的に領民を「支配」していたわけではないのです。
少なくとも、戦国時代までは。
今回はkindle版で読んだのですが、紙の新書が上梓されたのは2006年。
歴史学の世界でも、この8年くらいのあいだに、新しい知見が得られている可能性もあるのかもしれませんが、「戦国大名と領民の関係」について、新たな視点を提供してくれる、歴史好きにはたまらない一冊だと思います。