琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【映画感想】オリエント急行殺人事件 ☆☆☆☆

f:id:fujipon:20171212193955j:plain

トルコ発フランス行きの豪華寝台列車オリエント急行で、アメリカ人富豪のエドワード・ラチェット(ジョニー・デップ)が刺殺体で発見される。偶然列車に乗り合わせていた探偵のエルキュール・ポアロケネス・ブラナー)が、鉄道会社に頼まれ密室殺人事件の解明に挑む。乗客のゲアハルト・ハードマン教授(ウィレム・デフォー)やドラゴミロフ公爵夫人(ジュディ・デンチ)、宣教師のピラール・エストラバドス(ペネロペ・クルス)、キャロライン・ハバード(ミシェル・ファイファー)らに聞き取りを行うポアロだったが……。


www.foxmovies-jp.com


2017年の映画館での32作目。平日のレイトショーで観賞。
観客は、僕も含めて6人でした。


映画館で予告編を観て以来、けっこう楽しみにしていたんですよね、この映画。
「全員名優」のキャッチフレーズに、「全員悪人」の『アウトレイジ』かよ!とか、内心ツッコミを入れつつ。
アガサ・クリスティの代表作のひとつとして名高いこのミステリは、1934年に発表されて以来、何度も映像化されてきましたし、2015年のお正月には、三谷幸喜さんの脚本で、日本の名優を集めたキャストで「日本版」が放映されたのも記憶に新しいところです。
もともとかなり有名というか、「原作をちゃんと読んだことがある人は少なくても、トリックというかあらすじは多くの人が知っているミステリ」なのですが、三谷版のおかげで、日本でもこのケネス・ブラナー版も受け入れられやすくなったはず。


原作はそれなりの長さの作品であり、2時間足らずの上映時間で、どんなふうにまとめてくるのか、というのも、ちょっと楽しみにしていたんですよね。
登場人物の背景を丁寧に掘り下げていこうとすると、2時間では収まらないのは自明の理なので。


正直なところ、このケネス・ブラナー版は、「『オリエント急行殺人事件』って、何?」という人には、あまり向かないというか、名優たちがちょっとずつ見せ場をつくるための映画『オーシャンズ11』みたいに感じるのではないか、と思うんですよ。
ただ、それが不親切、というわけでもなくて、一から描いていたら、2時間に収まらないし、すでに原作を知っている観客にとっては、冗長に感じられるはずです。
というか、このケネス・ブラナー版も、僕は中盤、3回くらい寝落ちしました。寝不足だったということもあるにせよ、やっぱり、「知っている話」なので。
どちらかというと、オリエント急行って、こんな外観とか内装だったんだな、とか、客車のつくりが再現されているであろうことに注目していたのです。
1934年ということは、まだ比較的史料も残っているはずですし。


ミステリ作品としては、何も知らない観客が謎解きを楽しめるような材料を散りばめることは放棄しています(これは原作もそうなんですが)。
多くの観客は、この事件の「真相」をすでに知っていながら、今回は、解決までの過程をどう描いていくかを観ているんですよね。
有名武将のNHK大河ドラマ的なところはあるのです。
ロード・オブ・ザ・リング』のように、長尺×3部作が許されるのであれば、容疑者ひとりひとりを丁寧に描いていくことも可能でしょうけど、そういうわけにもいかないだろうし。
この作品に関しては、「初見でもわかるように」説明を増やして2時間半の映画にするよりは、説明不足になっても2時間にまとめたことは、たぶん正解だと思うんですよ。


今回の映像化で痛感したのは、これは、エルキュール・ポアロの逡巡を描いた作品なのだ、ということでした。

ポアロは、冒頭の事件を解決したあと、「私には、現実をありのままに見て、問題を解決する力があるのだ」と述べています。

僕はこれを聞いて、最近読んだ、『神童は大人になってどうなったのか』という本で紹介されていた、ラ・サール高校の神童の言葉を思い出していました。
ラ・サール高校のある先生が「どうしてそんな点がとれるのか」と竹内さんに訪ねたそうです。そのときの竹内さんの答え。

「そんなに難しいことじゃないです。余計な先入観をもたずに、問題にそのまま従えば解けます」


ああ、ポアロは、本当の「天才」なんだなあ。
この作品では、冒頭の卵の大きさへのこだわりや、「世界には善と悪しか存在しない」という曖昧さを許せない思考法など、ポアロって、アスペルガー症候群的な面が描かれています。
(なんでもすぐ病名を持ち出すのは問題があるでしょうし、僕は精神科医ではないので、医学的な「診断」をしているわけではないです。念のため)
ポアロには、雑音に惑わされずに真実を見抜く能力があるけれど、この事件でポアロは、「法律では手の届かない領域が、世の中にはあるのではないか」という難題を突きつけられるのです。


どんなにうまく取り繕っても、神とエルキュール・ポアロは騙せない。


僕は観ながら、ずっと考えていたんですよね。
ポアロにとって、もっともラクな選択肢は、「いやー、この事件は難しすぎて、私には解決できなかったなあ」って、みんなの前で匙を投げることだったと思うんですよ。
内心では真相がわかっていても。


しかしながら、ポアロは、やっぱり、解決せずにはいられなかった。
真実を追求せずにはいられなかったのです。
そして、解決してしまったことが、これまで「世の中には善と悪しかない」と考えていたポアロを苦しめます。
人間的な迷いを捨てて(あるいは持たずに生きて)きたポアロは、この事件を通じて、人間として生きることのもどかしさ、言い換えれば「人間らしさ」を身につけたのかもしれません。
たぶん、名探偵という仕事は、「推理マシーン」になってしまったほうが、ラクなのではないだろうか。
この「ポアロの中での、善と悪のゆらぎ」が、ポアロ最後の事件である『カーテン』につながっていくのか……


きわめて「2017年的」な人間だったにもかかわらず、1934年を生きていたエルキュール・ポアロを演じたケネス・ブラナーさんのポアロっぷりは、素晴らしかったと思います。
この事件についての「決断」をしたあとのポアロの佇まいには、僕もせつなくなってきたのです。
ポアロは「見える人」だったから、罪を背負うことになってしまった。
それにしても、今の時代でも生きづらそうな人なのに、「旅は日頃接しない人たちと触れ合うのが良いのです」なんて言われて、知らない人と相部屋にされるなんて、キツいよね、きっと。


トリックの独自性よりも、「善と悪の狭間にあるもの」を描いた映画であり、それは、1934年も2017年も、人間にとって普遍的な問題であり続けています。
それは、神という判断基準を持たない現代人には、よりいっそう、解決困難になっている。


僕にとっては、「自分はけっこう好きだけれど、他人には薦めにくい映画」のカテゴリーに入る作品でした。
それでも、ここまで読んできて、ちょっと気になった、という人は、騙されたと思って観ていただきたい。回し者みたいですけど。


fujipon.hatenablog.com
fujipon.hatenadiary.com

アクセスカウンター