琥珀色の戯言

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【読書感想】小説の言葉尻をとらえてみた ☆☆☆☆

小説の言葉尻をとらえてみた (光文社新書)

小説の言葉尻をとらえてみた (光文社新書)


Kindle版もあります。

小説の言葉尻をとらえてみた (光文社新書)

小説の言葉尻をとらえてみた (光文社新書)

内容(「BOOK」データベースより)
筋を追っていくだけが小説の楽しみ方ではない。そこで語られた日本語に注目すると、作者が必ずしも意図しない部分で、読者は、ことばの思いがけない面白さに気づくだろう。『三省堂国語辞典編集委員である著者のガイドによって、物語の世界を旅し、そこに隠れている珍しい日本語、興味深い日本語を「用例採集」してみよう。エンタメ、ホラー、時代物、ライトノベル…。「旅先」となる物語のジャンルはさまざまだ。それらの物語世界に暮らす登場人物や、語り手の何気ない一言を味わいながら、辞書編纂者の目で謎を見出し、解き明かしていく。ことば尻を捉えているようでありながら、次第に読者をことばの魅力の中へと引き込む、異色の小説探検。


 国語辞典編纂者の飯間浩明さんが、比較的最近(2004年以降)の小説のなかで使われている新しい単語や言い回し」について紹介・考察した本です。
 辞書編纂者の大事な仕事として、辞書に載せる言葉の使用例(用例)を集めるというのがあるのですが、小説というのは、その用例採集の主要な現場のひとつなのです。
 『桐島、部活やめるってよ』から、『オレたちバブル入行組』、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』まで、けっこう多彩な小説が取り上げられており、ブックガイドにもなっているんですよね、これ。
 僕は紹介されている15作品のうち、半分くらいしか読んでいませんが、いずれも「読んで損はしない傑作」揃いだったので、他の作品も、おそらく面白いのではないかと思います。


『風が強く吹いている』(三浦しをん著)の章より。

 新入りの走はボロアパートに驚きながらも、ここに住むことに決めたようです。清瀬とともに母屋の大家に挨拶に行こうと外に出たところで、飼い犬のニラがやって来ました。清瀬が紹介します。
「だれにでも愛想を振りまいちゃうバカ犬だけど、かわいいんだよ」
 おっ、と私は耳をそばだてました。こう言うと、読者の中にはぴんと来る人がいるかもしれません。「たしか『愛想を振りまく』は誤用ですよね」と。
 先回りして言っておくと、この表現は誤用ではありません。でも、誤りと主張する向きはあります。「振りまくのは『愛敬』であって、『愛想がいい』が本来の言い方なのだ」と。
 この「本来」というのはくせ者でしてね。調べてみると、たいした違いはないことが多いのです。


 著者は、1911年に徳富蘆花が使っていた例をはじめ、北原白秋山口瞳倉橋由美子など、100年以上にわたって、たくさんの有名作家が「愛想を振りまいてきた」例を集めています。

 意味的に、「愛敬は振りまけるが、愛想は振りまけない」ということもありません。愛敬(可愛らしさ)も愛想(人に感じよく見せる表情や態度)も、その人に備わったものです。それを周りに示すことを、比喩として「振りまく」と言っています。
 ではなぜ、「愛想を振りまく」が誤用とされたのか。一言で言えば、印象で断定されたんですね。かつて「愛想を振りまく」は、使用頻度が「愛敬を振りまく」より低かったのは事実です。でも、少数イコール誤りでないことは、先の「板の間」「板間」の例を考えれば分かります。


 辞書編纂者の「先入観にとらわれずに、実際に使われている事例を検証して確かめる姿勢」には圧倒されます。いまでは、コンピュータのおかげで、昔より特定の言葉が含まれる文章の検索は、はるかに簡単にはなったのだとしても、そこに疑問を抱かなければ、検証しようとは思わないわけですから。
 この本を読んでいると、「誤用だと思われたり、批判されていた言葉に、長い使用歴があったり、今、当たり前のように使っている言葉が、以前とは違った意味や言い回しになったりしていることに驚かされます。
 したり顔で、間違いを指摘しているほうが間違っている、というのはなんだか恥ずかしい。
 言葉は「変わっていくのが当たり前」であり、辞書編纂者というのは、間違いを声高に指摘するのではなく、「その変化を記録する人たち」なのです。


 石田衣良さんの『チッチと子』の章より。

 耕平の作品の水準はかなり高いものです。今回の作品も十分に文学賞の価値があると、編集者の大久保高志は考えています。
 神楽坂のカフェで、赤字の入った校正刷りを受け取った彼は、耕平に対して深々と頭を下げます。
「青田さん、ご苦労さまでございました。よいご本をいただいて感謝しております」
 おや、いくらブレイク未満の人とはいえ、作家に向かって「ご苦労さま」なんて言っていいのかな――と、疑問に思った読者もいるのではないでしょうか。
 というのも、最近のビジネスマナーの教室などでは、
「『ご苦労さま』は目下に使います。目上には『お疲れさま』と言いましょう」
 などと教育しているからです。大久保はマナー研修を受けなかったのか。
 いえ、実は、彼のことば遣いこそが適切です。作家が粒々辛苦して紡ぎ出した作品。それは苦労の成果としか言えないものです。その営為は「お疲れさま」と表現してもいいけれど、苦労をねぎらう感じは弱くなります。この場合は、「ご苦労さまでございました」が最も状況にふさわしい表現です。


 歴史的にも、江戸時代の本などでは、家来が主君に対して「ご苦労千万」と言っているそうです。「ご苦労さま」は、ごく最近まで、一般庶民が普通に交わす挨拶だったのです。

 敬語とは不思議なもので、十分に敬意の足りている表現でも、「もっと丁寧に言わないと失礼ではないか」と言う人が必ず現れ、元の表現が忌避されるようになります。「ご苦労さま」は、まさに今、そうした一種の風評被害に遭っている表現です。
 編集者が作家に「ご苦労!」「ご苦労さん!」などと言えば、これはもちろん失礼です。でも、大久保のように「ご苦労さまでございました」と丁寧に述べれば、礼儀正しい気持ちが伝わります。


 たしかに「ご苦労さまでございました」なら、むしろ心がこもっているように感じられます。 
 ただ、こういうのって、本来の意味とか歴史はさておき、相手がどう受け止めるか、というのが大事なので、「目上に『ご苦労さまでした』なのか?」と不機嫌になる人もいそうな気はします。
 そう思うと、使うにはちょっと勇気がいるかな……
 一から説明するよりは、「おつかれさまです」のほうが無難かな、と思ってしまうのです。


 平野敬一郎さんの『マチネの終わりに』の章では、「真逆」という言葉が採りあげられています。

「真逆」ということばは新しく、広まったのは21世紀になってからです。私が最初に目にした例は週刊誌の記事でした。

(地元の地名である)開運とも幸いとも真逆の罪を犯した少年は、宵闇せまるそれらの通りを全速力で逃走した(『AERA』2000年8月14・21日号)


 この「真逆」が読めませんでした。「しんぎゃく」か「まさか」か……。「まぎゃく」で間違いないと分かったのは、実に一年後、テレビの漫才で発音を聞いたときでした。
 現在でも、このことばに抵抗感を覚える人はいます。自社セミナーの講師が「真逆」を使うので、注意を与えている、という人の話も聞きました。
 ただ、「真逆」は、普及しはじめてわずか十数年とは思えないほど、しっかり定着していることも確かです。
 昔の時代を扱った朝ドラにも、ごく普通に出てきます。


 あまりにも日常的に使われるようになったからなのか、ずっと昔からあった言葉のような気がする「真逆」なのですが、あらためて検討してみると、広まったのはけっこう最近なんですね。
 言葉に対する感覚というのは、その人が置かれている状況によって差があるのだけれど、みんな、自分の感覚こそが「標準」だと思いがちなのです。

 ブックガイドとしても楽しめる、なかなか興味深い一冊でした。
 それぞれの作家が好んで使う言い回し、なんていうのもあるんですよね。


辞書を編む (光文社新書)

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