- 作者: 佐藤優
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2017/06/13
- メディア: 新書
- この商品を含むブログ (2件) を見る
Kindle版もあります。
- 作者: 佐藤 優
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2017/06/13
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログを見る
内容紹介
筋金入りのキリスト教徒であり神学を専門とする著者は、「悪」の研究を通じて、大混乱時代の現代を生き抜く知恵が習得できると説く。「いかに悪に陥らないようにするか」「もし、人の悪意に苦しめられたらどうするか」。聖書や神学書などを基に指南する。
「悪」とは何か?
簡単なようで、なかなか難しい問いではありますよね、これ。
この新書では、この問いに対する、佐藤さんなりの「答え」が書かれています。
神学部を卒業し、プロテスタントのキリスト教徒である佐藤優さんの「悪についての解釈」には、宗教的な背景があるのですが、これを読んでいると、「宗教的な背景」あるいは「強い政治的な信念」などを持たないと、「世の中に絶対的な悪を見いだし、それと闘う」のは難しいのではないか、という気もしてくるのです。
佐藤さんは、1945年に九州大学医学部で行われた米兵捕虜の生体解剖実験を例にあげています。
B29に搭乗して負傷した米兵捕虜の肺の損傷を診察するためと称して、日本人医師たちが生きたまま捕虜の右肺を全摘するなどして死亡させた事件です。その後、ノンフィクション作家の上坂冬子氏や、九州大学医学部の東野利夫博士らが本としてまとめたり、この事件とモデルにした『海と毒薬』(遠藤周作)という小説が書かれたりもしています。
このとき、米兵捕虜が大量出血し衰弱したので、輸血代わりに、海水から作られた代用血液と日本人医師たちが注入したところ、捕虜は死んでしまった。この場合、少なくとも、捕虜の生命を救うことが目的で行った手術ではなく、「どれだけ出血すれば人間が死ぬか」を確かめる人体実験だったため、この行為は悪と言えます。
しかし、角度を変えてこの事件を見ると別の様相も浮かび上がってきます。
すなわち、米兵捕虜との関係において人体実験は悪かもしれませんが、戦況の悪化により前線で負傷した日本兵を治療しようにも輸血用の血液がないため、捕虜に海水を注入する実験によって代用血液として使えるかどうかを見きわめる目的であったとすれば、この行為は許されるのではないか。つまり、我々の同胞の命を救うことがその先にある目的であったならば、この人体実験は善である。こういう説明が成り立つかもしれません。
広島・長崎への原爆投下に対しても、アメリカ側からみれば、「原爆のおかげで、日本の降伏が早まり、結果的に戦争の犠牲者は減った」とも言えるのです。
少なくとも、あのまま日本での「本土決戦」をやるより、アメリカ兵の死傷者を減らしたことは間違いないでしょう。
ごく一部の快楽殺人犯を除けば、人間というのは、「自分、あるいは自分が想定している社会にとって善いと思うことをやっている」のです。
それが、多くの他者からみれば「悪事」であっても。
『悪魔の系譜』の冒頭、(ジェフリー・バートン・)ラッセルは、「悪は抽象的なものではなく、現実的で具体的なものだ」と切り出します。ここはきわめて重要です。すなわち、悪霊とか悪意といったものは目に見えるものではありませんが、しかしそれは漠然たる観念でも抽象的な存在でもなく、れっきとした実体をともなう現実的な存在であるというのです。
悪は直接的に体験され、直観によって理解される。娘が殴られ、老人が襲われ、子供が犯される一方、テロリストは飛行中のジェット機を爆破し、偉大な国家は一般市民の居住地に爆弾を投下する。個人的にも社会的にも狂気にとらわれていない者なら、こうした行為に対して、すぐさま正当な怒りをつのらせるだろう.赤ん坊が打ちすえられるのを目にして、倫理観につらつら思いをはせたりはしない。もっとも根本的なレヴェルにおいて、悪は抽象的なものではないのだ。現実的かつ具体的なものにほかならない。 (『悪魔の系譜』、12ページ)
ラッセルが「悪が人格化したものが悪魔である」とあえて踏み込んだ定義をしているのは、先ほども触れたように、今までの神学や哲学、道徳や倫理学で扱われる悪はあまりに抽象的で、悪をリアルなものとして論じるには不十分であったという反省に立っているからです。
なぜ、私たちが悪魔について論じるのか、その答えのひとつがここにあります。
つまり、「悪は人間によって行われる」ということです。裏返せば、猫が隣家のカナリヤを捕まえて食べるのは悪ではありません。猫には善悪の判断ができないからです。残酷かもしれないけれど、それは悪ではない。しかし人間が動物を虐待して殺すというのは、神によって人間が委任された範囲を超える場合なら明らかな悪になる。キリスト教ではそう考えます。とくに一神教の世界観においては、悪魔は迷信ではなく、現実に存在するものである。この点をぜひ押さえておいてください。
佐藤優さんが紹介しているラッセルの悪の定義は、(1)悪は現実的で具体的である、(2)悪は人間によって行われる、という二点なのです。
僕などは「善悪」を相対的に、概念として判断しようとして、何がなんだかわからなくなってしまいがちなのですが、むしろ直観的に「これは悪いことだ」とその場で判断し、憤ってしまうようなことが「悪」だということなんですね。
脊髄反射的に善悪を判断するというのは、けっして間違いではなくて、そのほうが「キリスト教的な正しさ」に近いのかな、と思いました。
この本のなかで興味深かったのは、こんな話でした。
さらに興味深いのは、「自殺願望の強い人間」をテロの実行犯としてリクルートするのは過激組織の中でいま主流になっているという点です。
自殺する気のない人間に命を捨てる決意をさせるのは、大変な労力と手間がかかります。けれども自殺願望のある人間ならその手間が一気に省けますから、「どうせ死ぬなら自爆テロで死ぬほうが大義を果たせる」などと心理操作を行えば、自爆テロリストをつくり出すことは難しくはないのです。
だから、いま注意すべきは、テロ組織のメンター(宗教的指導者)と精神科医やカウンセラーの結びつきであるとガノル教授は言います。彼らを味方にして、自殺願望者に関する情報を入手するのです。フランスのインテリジェンス機関によると、テロを行う恐れがある、ブラックリストに載せた常時監視対象者は約1万6000人いるといいます。
そのうち、37%がキリスト教からの改宗者だったので、テロ対策で注目すべきは、キリスト教からイスラム教に改宗した“青い目”のテロリストである。世の中に対する不満が改宗の理由になっているとガノル教授は指摘します。
メンターと精神科医やカウンセラーが自殺願望者の説得に当たれば、テロ要員として過激化させるのは時間の問題で、ガノル教授によると一カ月程度で可能だそうです。ですから、東京オリンピックを控えている日本でも注意を呼び掛けるべきだといいます。
「テロリスト」に仕立てられた自殺願望者を見つけるポイントは、ネットにあるといいます。こういう人間は、自爆テロを決行する当日か数日前、「自分は大義に殉じる」という書き込みを必ずするのだそうです。「ひっそり死にたくはない」「自分が命をかけたというあかしを残したい」という独特の自我を利用して、その種の書き込みを探知する特別な検索エンジンを開発し、探知までの時間を短縮させることが重要だというのです。
いまの自爆テロは、「宗教的な動機から」ではなく、もともと「自殺したい」と絶望している人間に「どうせ死ぬのなら、大義に殉じて、意味のある死にかたをしたほうがいいよ」と刷り込むことによって生まれているのです。
もちろん、全部がそうではないんでしょうけど、最近日本で起こっているさまざまな「死にたい人たちが起こした、無差別殺傷事件」のことを考えると、合点がいく話です。
敬虔な信者に自爆テロをやらせるより、死にたい人に「動機」を後付けしたほうが、効率が良いのです。
効率よく自爆テロなんてやってほしくはないけれど。
信仰を持たない僕には、ちょっと難しいというか、ピンと来ないところも多いのですが、キリスト教徒は(というか、佐藤優さんは)「悪」について、こんなふうに考えているのか、ということがわかる新書です。