琥珀色の戯言

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【読書感想】アファーマティブ・アクション-平等への切り札か、逆差別か ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

積極的差別是正措置」と訳されるアファーマティブ・アクション。入試や雇用・昇進に際して人種やジェンダーを考慮する実験的で論争的な取り組みだ。1960年代、公民権運動後のアメリカで構造的な人種差別を解消する取り組みとして導入されたが、「逆差別」「優遇措置」との批判が高まる。21世紀には多様性の推進策として復権するも、連邦最高裁は2023年に違憲判決を下した――。役目を終えたのか。平等のために何をすべきか。アメリカの試行錯誤の歴史をたどり考える。


 もう20年以上前になるのですが、アメリカで開催された学会に出席する(というか、勉強のために連れて行ってもらった)機会がありました。
 留学中の先輩に案内してもらって、現地の大学病院を見学させてもらったのですが、そこで「この病院の外来に出る医者は、人種によって担当する枠が割り当てられている」という話を聞きました。
 当時の僕は、アメリカの人種間の平等への意識の高さに驚くとともに、それだと、同じ科でも、マイノリティ出身の腕が劣る医者が、外来の枠を得ることになってしまい、それは、患者さんにとってはデメリットになるのではないか?と疑問に感じた記憶があるのです。

アファーマティブ・アクション」という言葉を聞いたことがあるだろうか。差別のない社会、平等な社会を実現するための取り組みの一つとして、近年では高校教科書でも取り上げられている。アファーマティブ・アクションとは、人種、民族、ジェンダー、階級、障害などの理由によって、不利な立場にいる人びとを支援する「積極的な措置(Affrmative action)を指している。世界各国で、国家政策から企業・学校レベルでの取り組みまで、さまざまな施策が行われている。


(中略)


 アファーマティブ・アクションは「差別のない社会」を追求する取り組みの一つである。たとえば、さまざまな人種が共存するアメリカ合衆国では、人種にもとづくアファーマティブ・アクションとして、次のようなものが知られている。


(1)政府の公共事業を請け負う建設業者に、伝統的に白人が多かった技能職の分野で黒人を雇用するための数値目標を提出させ、目標の達成を求める。

(2)医科大学院の入学者選抜で、定員のうちの一定数を非白人の志願者を入学させるための特別枠として設定する。

(3)難関大学の入学者選抜の際に、高校の成績、統一テストの成績、出身地域、親の所得、学歴などとあわせて志願者の人種を考慮する。


 高度な技能職、医師や法律家になるための専門職教育、難関エリート大学への進学など、過去には白人が独占していた分野では、黒人などの人種マイノリティの進出を支援するための措置が導入された。その支援の幅としては、あらかじめ枠や数値を設定するものから、選抜時に部分的に考慮されるものまでさまざまだ。ただ、これらに共通しているのは、人種による「異なる扱い」が受け入れられていることだ。なぜ、「平等な扱い」を追求する時代に、このような「異なる扱い」が受け入れられているのか。


 この本、アメリカでの「アファーマティブ・アクション」の歴史、アメリカでは「人種間の差別や格差」を是正するために、どのような試みが行われ、人々の意識はどう変わってきたのか、が紹介されています。

「移民の国」であるアメリカは、差別意識と「差別を無くそう」という意識が、長年せめぎ合っている国なのです。
 アファーマティブ・アクションは、1960年代に世界に先んじてアメリカで始められました。
 当時、黒人などの人種マイノリティは、長年の差別の影響で、貧困や環境要因から、大学に進学したり、高度な技能職についたりするのは「現実的に困難」な状況にあったのです。

 1964年に公民権法が成立し、法的な差別や隔離は解消されましたが、そこで、アメリカの人々は、法的な差別がなくなったからといって、現実社会での「差別的な状況」や「格差」がすぐに消えるわけではない、という問題に直面します。
 
 1964年の公民権法制定後、人々の期待に反して、大都市部で黒人と警察との軋轢から大規模な住民反乱に発展する事態が多発し、1965年にロサンゼルスのワッツ地区で起こった騒乱では34名が死亡しています。
 このような事態に対して、アメリ連邦政府は「市民的騒擾についての全米委員会(カーナー委員会)を設置し、カーナー委員会では、大都市中心部の人種ゲットーでの警察との摩擦、失業、住宅問題、教育レベルの低さ、地方政治の機能不全などが指摘されました。

 カーナー委員会が見出した課題を、ブラック・パワー運動の指導者ストークリー・カーマイケルと政治学者のチャールズ・V・ハミルトンは、制度的人種主義(institutional racism)の問題であると論じた。二人の著書『ブラック・パワー』(1967年)のなかで、次のように述べている。

 白人テロリストが黒人教会を爆破し、5人の黒人の子どもを殺したことは、個人的人権主義による行為といえる。この社会のほとんどの人びとは、この行為を遺憾に感じることだろう。しかし、同じアラバマ州バーミンガムの町で、毎年500人の黒人の赤ん坊が、適切な食事、シェルター、医療施設の欠如で死んでいる。さらに数千の人びとが、黒人コミュニティにおける貧困と差別ゆえに、身体的、精神的、知的に傷つけられている。これは、制度的人種主義が機能することで生じることだ。


 ここで、カーマイケルとハミルトンは、「5人の子ども」を爆殺するという人種的憎悪にもとづく暴力だけでなく、「毎年500人の子ども」を死にいたらしめる制度的な欠如や「数千の人びと」を苦しめる貧困と差別もまた、人種主義の問題であるとしている。二人が制度的人権主義という問題に見出したのは、センセーショナルな差別的暴力だけでなく、数百、数千の黒人の苦難に対して、一般の人びとが「その状況を知らないかのようにふるまう」ことを可能にしてしまう社会のあり方であった。


 アメリカでは、半世紀以上も前から「法的な平等」を定めるだけでは、長い間に積み重ねられた格差は解消できない、という議論がなされてきたのです。
 そこで、大学の入学枠や高度な専門職の採用に「人種を考慮」することをはじめとした「アファーマティブ・アクション」が拡大していくことになりました。

 この運動は、政府にとっても「教育機関や企業に要請する」だけで、予算を使わなくても済んだのです。
 人種的な格差を解消するため、補助金などの経済援助をメインにするよりも、政府にとっては都合が良い面もありました。

 その「差別や格差を解消する」という理念は人種に関わらず、過半数アメリカ人に受け入れられていたのだけれど、「人種を考慮されて、自分より成績が下の人が志望大学や希望した仕事に合格する」という状況になった当事者になると話は別です。

 「納得がいかない、これは『逆差別』ではないのか?」「法のもとでの平等」を定めている合衆国憲法違反ではないのか?」という訴訟が1970年代後半には、多数起こされました。
 歴史的な差別や格差を解消する、という理念は理解できても、自分がそれで不利を受ける立場になると、「なぜ自分たちが、その過去の人たちが積み重ねてきた歴史のツケを払わされるんだ?」と思いますよね、それは。

 特定の人種への「優遇措置」が「逆差別」として批判され、継続していくのが難しくなっていくなかで、アメリカの教育機関や企業は、依然として存在する人種間の格差是正のための試みを継続するための新たな考え方を打ち出していきます。
 それが「多様性」だったのです。

 
 1996年にミシガン大学アナーバー校の法科大学院の入学試験で不合格になった白人女性が「人種を選抜時に考慮する」という大学の選抜方式を「憲法に反している」「逆差別ではないのか」と裁判所に訴えました。

 多様性が大学教育にもたらす影響については、1988年までプリンストン大学の総長を務めてきたウィリアム・G・ボウエンによる専門家報告が提出された。ボウエンは、高等教育における多様性の擁護者として知られた経済学者で、バッキ判決におけるパウエル判事の意見のなかで、多様性の効果についての意見が引用された人物であった。また、ミシガン大学のような難関大学の入試においては、志願者の「入学する権利」よりも、多様な学生が学ぶ環境を用意するという大学側の使命と義務を尊重すべきであると主張した。
 そして、ボウエンは、難関大学の大学生6万人を対象とした調査から、「多様性は、マジョリティとマイノリティ両方のすべての学生にとって利益をもたらす」と結論づけた。彼は、大学教育の質は、個人として優れた指標を持つ学生を集めるだけでなく、多様性に満ちた環境が優れた学生集団にさらなるプラスの効果をもたらすことで、より高まると考えていた。その考えにもとづき、多様な学生集団を作るという大学の使命のために人種やエスニシティを入学者選抜の基準の一つとすることを擁護した。ボウエンの報告は、ゼネラル・モーターズ社やコカ・コーラ社などの大企業のトップが、多様な社員が作り出す職場が革新的なビジネスに不可欠であると発言していることも強調した。教育でもビジネスでも、多様性の実現こそが、成功を左右する要因とされた。


 アメリカの21世紀は、「多様性の時代」と言えるかもしれません。
 マイノリティを「優遇」する、というのではなく、教育機関や企業を「より優れた集団にするための必要条件」として、「多様性」が重視され、その結果として「人種や文化的な背景を考慮する」ことが合理的とされたのです。
 倫理の時代から、「実益」を打ち出すことで、実質的な「優遇措置」は生き延びることになりました。


 「差別」とか「平等」について、絶対的な正解は、現実社会には、たぶん存在しない。
 それでも、差別や格差をなくすための「方便」として、「多様性」という概念が利用されていた面もあるのです。
 
 アメリカでは、移民の増加や人種における出生率の違い、さまざまな人種間の婚姻などで、白人は数十年後には多数派ではなくなると予測されています。
 そして、人口の比率の変化や経済力・教育環境の変化にともなって、一部のエリート校を除いては、在校生の人種による数的格差は消失してきているのです。
 大学側も、激しい競争にさらされており、人種で入学者を選り好みできる時代ではない、ということなのでしょう。
 
 「成績が劣っているのにマイノリティ枠で入学できたと思われて屈辱だから、マイノリティ枠なんて制度はやめてほしい」と主張する対象人種の人も出てきています。

 収入や学歴での「格差」がなくなったわけではないけれど、これまでのさまざまな試行錯誤と人口動態の変化で、アメリカは「以前よりは平等に近い社会」になった、とは言えそうです。
 
 アファーマティブ・アクションアメリカの「人種差別」是正への苦闘の歴史が一冊で概観できるとともに、僕が思っていた「実力を棚上げして人種だけで優遇してしまう」という制度ではなく、ずっと慎重に運用され、議論され続けてきた制度だということが理解できました。
 同時に、酷い事件や混乱も多いけれど、「それでも社会を良くしていくために前に進む」というアメリカという国の熱量の高さも感じずにはいられませんでした。


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