琥珀色の戯言

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【読書感想】帝国で読み解く近現代史 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

アメリカ、ロシア、中国の行動原理を理解するキーワード!

果たして「帝国」は悪なのか? そもそも「帝国」とはいかなる存在なのか? 皇帝がいない国でも「帝国主義」を標榜するとはどういうことか――
それぞれ中国史と英国史を専門に、東西の歴史に通ずる2人の研究者が、「帝国」をキーワードに世界の近現代史を捉え直す。今までになかった新しい視点による、近現代から現代までの歴史に流れを読み解く目を養える一冊。対談のため、充実した内容ながら全編にわたってわかりやすく読み進められる。


 1970年代に生まれ、高校生のときに田中芳樹先生の『銀河英雄伝説』の主人公、ヤン・ウェンリー提督に大いに影響を受けた僕としては、「ビバ、デモクラシー!」と叫びたくもなるのです。いや、正確には「若い頃は叫んでいました」。
 皇帝の家に生まれた、というだけで、帝位を受け継ぎ、民衆を支配するなんて、「不公平」だ!

 でも、50年以上生きて、歴史を学び、さまざまな国の興亡を見てきて、あるいは、一人の「そんなに偉くなれるほどの能力も野心もない一市民」として暮らしてきて、「優れた皇帝(あるいは専制政治)によるトップダウンの政体のほうが、衆愚政治に陥りやすい民主主義より社会が安定し、生活しやすいのではないか、とも感じるようになりました。
 前述のヤン提督も「専制政治の問題点は、常に優れた人物が皇帝になるとは限らず、民衆は政治の失敗を他人のせいにできることだ」と作中で述べており、それは確かにその通り、なのですが。


 この対談本の著者のひとり、岡本隆司先生は、「帝国」の世間的なイメージについて、こんな話をされています。

岡本隆司よく例に出すのですが、帝国というと映画の『スター・ウォーズ』をイメージする方も多いのではないかと思います。『スター・ウォーズ』の一連のシリーズの中で最初に制作されたエピソード4では、帝国に君臨する皇帝の圧政に対して、レイア姫が共和国の復興をめざして奮闘する姿が描かれていますよね。あの物語は、まさに多くの人が抱いている「帝国や皇帝は悪である」というイメージをトレースしたものです。そして私たちはそのイメージを用いて、今のロシアや中国がやっていることを「帝国的である」として嫌悪し、もしかしたら往時のローマ帝国などに着いても、そのイメージで見ている部分があるかもしれません。
 しかし「帝国=悪」というイメージが定着したのは、さほど昔のことではありません。また帝国が昔からそれほどまでに「悪」だったかというと、そんなこともないでしょう。私たちは、いつごろからなぜ帝国を悪の権化とみなすようになったのか。そのあたりについても、対談の中で追々明らかにしていきたいところです。


 帝国=銀河皇帝やダース・ヴェイダー!抵抗者を徹底的に弾圧し、逆らうものはデス・スターで星ごと抹殺!
 あるいは、剣闘士たちに殺し合いをさせて、「パンとサーカス」を民衆に提供する『グラディエイター』の皇帝!
 歴史上も、いわゆる「暴君」「暗愚な皇帝」のエピソードには事欠きません。
 その一方で、優れた皇帝のもとで、平和と繁栄を謳歌する民衆の描写も、歴史をたどっていくと、珍しくはないのです。
 そんなに悪いところばかりのシステムであれば、どこかで歴史から消えていてもおかしくないはず。


 対談者のもうひとり、君塚直隆先生は、「帝国」の定義について、スティーヴン・ハウというイギリスの研究者が書いた「帝国』(岩波新書)という本の中での定義を紹介しています。

君塚直隆:この中でハウは、帝国を次のように定義しています。「帝国とは、広大で、複合的で、複数のエスニック集団、もしくは複数の民衆を内包する政治単位であって、征服によってつくられるのが通例であり、支配する中央と、従属し、ときとして地理的にひどく離れた周縁とに分かれる」。


岡本:ハウの定義に、まったくあてはまらない帝国もありますよ。大韓帝国とかね。広大で複合的ではありませんし、複数のエスニック集団や民族を内包もしていません。例外はあるにせよ、ローマ帝国などのすぐに私たちがイメージできるような代表的な帝国の特徴を最大公約数的にまとめると、そんな定義になるのかもしれませんが。


君塚:確かに岡本先生がおっしゃるように帝国は非常に多義的な概念であり、さまざまな意味で用いられてきました。ですからひと言でまとめようとすると、ハウのような茫漠とした定義しかできないということなのでしょうね。なおかつ定義にあてはまらない例外も出てきます。


 一般的には「帝国」には「皇帝」がいるものではありますが、岡本先生は、「一方で、『帝国主義』というときの帝国は、軍事的、政治的、経済的に他国や他地域を支配下に収めるために、対外進出に積極的な国のことをいいます。19世紀の末のフランスのように、皇帝はおらず、共和制を採用している国でも帝国主義的であることはあり得ます」とも仰っています。

 大英帝国ロシア帝国は「広大で複合的で複数の民族を内包している」という点ではハウの定義に合致しているけれど、その統治体制は全く異なったものである、という話も出てくるのです。


 「帝国」というのは、2020年代の日本では邪悪なイメージを持たれがちだけれど、かなりその定義は曖昧で幅広く、歴史上、「帝国という政体だったからこそ、多くの民族が共存共栄できた事例」も、たくさんあるのです。

 対談で主に語られているのは18世紀以降の近現代なのですが、著者たちは、もともとヨーロッパよりも東アジアのほうが、ずっと豊かだった、と述べています。米は小麦に比べて生産効率が高く、ヨーロッパは土壌が悪かった。だからこそ、ヨーロッパの人々は、生きていくために、技術の革新や機械化、社会制度の改革に積極的に取り組んでいかざるを得なかったのではないか、と。

君塚:そうした中で、18世紀半ば、イギリスで産業革命が起こります。この産業革命が、まさにその後のヨーロッパ社会や経済を変える分岐点となりました。ただしそれまで劣勢に立たされていたヨーロッパがアジアと肩を並べ、やがて大きく引き離すことができた理由は、産業革命だけではありません。産業革命の前後、ヨーロッパではイギリスを中心にほかにもいくつもの「革命」が起きました。ヨーロッパが飛躍的な成長を遂げることができたのは、そうしたさまざまな革命が重なり合った結果といえます。


(中略)


岡本:イギリスやその後のヨーロッパ諸国で起きた一連の革命を、我々は驚異の目でとらえなくてはいけません。これは当時のヨーロッパが科学技術の進展や市民社会の成立、近代的な政治・経済システムの整備などいくつもの条件をクリアできたから、起こすことができた奇跡です。アジアやその他の地域では到底あり得ないことでした。
 産業革命をはじめとした一連の革命を契機に、ヨーロッパとアジアの経済発展のスピードに圧倒的な差が生じます。またヨーロッパが市場を求めてアジアへの進出を強めたことにより、経済面だけではなく政治的にも軍事的にもアジアはヨーロッパの風下に立たされました。この圧倒的な差を目の当たりにしたとき、日本、そしてやや遅れて中国も、ヨーロッパ諸国のような近代国家の確立をめざすことになります。


 自らは「大国」である、という意識にとらわれすぎて現実を受け入れがたく、近代化が遅れた中国に比べて、日本では明治維新以降、短い期間で近代化を成し遂げたことを日本人は誇りがちです。
 しかしながら、そこには、日本が近代化に着手した1860年代から70年代の初めにかけて、イギリスは中国(清朝)とのアロー戦争や太平天国の鎮圧、インドでの大きな反乱への対処、ヨーロッパでは1853年にクリミア戦争が起こり、その後はフランスでナポレオン3世が即位して積極的な対外進出を進め、プロイセンではビスマルクが首相となりドイツ統一のための戦争が行われていくなど、ヨーロッパ諸国が日本を侵略する余裕がない時期に、うまく改革のタイミングが重なった、という幸運もあったのです。
 運も実力のうち、ということではあるのかもしれませんが。

 ヨーロッパでは、どんどん発展していく生産力で生まれた製品はヨーロッパ内では飽和してしまい、それを売るために、自国の市民生活を豊かにしていくために、他国を侵略し、植民地をつくる必要があった、という面もあるのです。
 少なくとも、「邪悪な皇帝が、個人的な野心のために、世界征服をすすめていく」というようなシンプルな話ではありませんでした。


 岡本先生は、現在の中国についても語っておられます。

岡本:中国は、1949年の建国以来ブレていません。やっていることはしばしばブレましたが、「ひとつの中国」の実現を至上命題としてやってきたことについては、ずっとブレていない。もし中国が以前と比べて変質したように見えるとするならば、それは中国が変わったからではなく、アメリカや日本の側の中国に対する見方が変わったからでしかありません。
 例えば21世紀に入り、中国の経済成長スピードが急上昇を始めたころ、アメリカは中国のことを好意的な目で見ていました。経済の発展が民主化にもつながっていくだろうと考えたからです。日本人の中にも、そうした見解を述べていた知識人が多くいました。
 しかし中国は、市場経済は導入しても民主主義を取り入れることはないであろうことは、アメリカも日本も、1989年の天安門事件の結果を見ればあらかじめわかっていたはずのことでした。中国共産党にとって、政府と異なる主義主張を持つ組織や人物は、「ひとつの中国」の実現を阻む存在であるわけですから、けっして認めるわけにはいきません。
 もちろん現実には中国は多民族国家です。漢民族にしても、国家よりも中間的なコミュニティのほうに帰属意識を抱いています。また香港や台湾のように、中央とは異なる政治制度や価値観を育んできた地域もあります。ですから中国は、どこもかしこも「ひとつの中国」に収まりきらないものばかりなのですが、バラバラであるからこそ政府は「ひとつの中国」にまとめあげるために強権的にならざるを得ず、民主主義を受け入れる余地はないのです。ちなみに中国は国民国家の形成を志向してはいますが、それは西欧や日本と違って国民主権を認めるようなものではありません。中国がめざしているのは、主権は共産党にあり、そのもとに国民がひとつにまとまっているかたちの国民国家です。
 アメリカや日本は、こうした中国の国家としての特性を踏まえずに、自分たちの価値判断のモノサシで「経済が発展すれば民主化するのではないか」と勝手に期待し、勝手に失望し、今では中国への態度を硬化させているわけです。


 僕も、「中国も経済発展して人々が豊かになれば、『民主的に』なるはずだ」と、ずっと思っていたのです。
 しかしながら、中国はGDP世界2位の「経済大国」になっても、「民主化」していく気配はなさそうです。
 あんなに人口が多くて広く、地域差も大きい国を「ひとつにまとめる」ためには、「民主化」を指向していては難しい、ということなのでしょう。
 近年では、むしろ民主国家のほうが、「右傾化」や「混乱が続き、まとまらない政治」に悩んでいるようにすら見えます。

 もちろん、『スター・ウォーズ』の銀河帝国のような、「悪の帝国」は論外なのですが、「同じ皇帝を戴き、その帝国の枠組みのなかに入ってしまえば、民族紛争とか近隣との小競り合いから解放される」のであれば、「帝国の一部になる」というのは、合理的な面も少なからずあるのです。

 個人的には、「だからといって、今さら民主主義を見限ろうとは思えない」のですが、それはこれまで僕が生きてきた世界や経験による刷り込みの影響が大きくて、これからの時代を生きていく若い人たちは、別の観点で世界を見ていくのでしょうね。


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