
少し先の未来。建築家の甲本音々とその夫で工務店の2代目社長を務める健介は、2年前に亡くした息子・翔の姿をしたヒューマノイドを迎え入れることになる。ヒューマノイドが到着した日、翔と同じ笑顔と声をした彼を音々が喜んで迎える一方で、健介は戸惑いを隠しきれず硬い表情を浮かべる。家族の時間は少しずつ動き出すが、やがて予期せぬ事態が起こり、夫婦が息子の死に対してそれぞれ抱えていた想いがあらわになっていく。
2026年9作目の劇場鑑賞。公開初週の平日のレイトショーで、観客は10人くらいでした。
是枝裕和監督作品で、2026年・第79回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品されており、主演は綾瀬はるかさんと千鳥の大悟さん。
話題性は十分、ではあるのですが、カンヌでは評価がいまひとつで、日本での劇場公開後も盛り上がらないというか、けっこう酷評が多いようです。
僕としては、こういう期待値と公開後の評価に落差がある作品にはかえって興味がわくんですよね。
何が受け入れられなかったのだろう?って。
落ち着いた「普段着」っぽい綾瀬はるかさん(というか、むしろこの映画では天然の明るさ成分抑え目、なのかもしれませんが)と、演じている、というより、ああ、千鳥の大悟だ、という「演技云々よりも存在感で納得させてくる」大悟さん。
ヒューマノイド役の、200人以上の中から選ばれたという桒木里夢さんの「人間とロボットのあいだ」という難しい存在に説得力を持たせる演技も、見ごたえがありました。
でも、最初の1時間くらい、「いま上映開始からどのくらい時間が経ったのだろう?」と気になっていたのです。
「面白い」というタイプの映画ではないのは重々承知しているのだけれど、この映画の予告編を観て、「こんな内容なんだろうな」と想像したとおりの物語が進んでいくことに、退屈してしまいました。
舞台設定が「ちょっと未来」となっているのですが、ドローンが荷物を運んできたり、綾瀬さんがセグウェイみたいな乗り物で移動していたりと、「未来っぽい小道具」がところどころに出てくるのだけれど、そういう小道具以外はあまりにも現代と同じで、これ「未来」なんだよね?と困惑してしまいます。
この映画を観ていて思いだしたのが、細田守監督の『未来のミライ』だったんですよ。
細田監督の「ネガティブ・ターニングポイント」になってしまったあの作品。
映画監督にとって「建築」を題材にするのは、危険な兆候なのかもしれません。
夫は工務店の社長、妻は建築家であれば、自分たちの「名刺代わり」としても、それなりに立派な家に住むのは当然だとは思うのですが、やっぱり、「いい家に住んでるなあ……」とか思ってしまいますし。
起承転結、すべてにおいて、「お約束」の範疇、という感じがして、中途半端にSFで、中途半端に親子や夫婦の愛憎が描かれていて、中途半端に哲学的で、落としどころもすっきりしない。
是枝監督って、ずっと、すっきりしないものをすっきりしないまま描く監督なので、それはそれで「らしい」作品ではあるのですが、『箱の中の羊』というタイトルを回収するために、2時間もこんな中途半端のかたまりで、ありきたりな展開の映画を観せられるのはコスパ悪いな、と現代の若者みたいなことを考えずにはいられませんでした。
個人的には、『星の王子さま』とか宮沢賢治とかの「引用」には、もうウンザリだよ、手垢つきすぎだよ、と言いたくなります。
思えば、『怪物』もそんな感じの映画で、「思わせぶりで、外国の映画祭で賞を狙ったような内容なのだけれど、観客の想像力に任せる、という名目で投げっぱなしの結末だと僕は思いました。
あらためて『怪物』の感想を読み返してみたのですが、この『箱の中の羊』は、『怪物』と同じ構造の映画なんですよね。
自分の見かたを変えれば、世界が変わる。
『怪物』に比べると、「子どもの喪失と、そこからの再生」というテーマは、身近に想像できるけれど現実的にはほとんど起こらない分だけ、そして、中途半端な「SF風味」があるだけ、うまく作品に感情移入できない。
きっかけがはっきりしないまま、ヒューマノイドが「自我」みたいなものに目覚めたり、あつかましい親族が出てきたり、大悟さんがヒューマノイドを「利用」しようとしたり、前半と後半、結末のテーマが一定していないと感じるし、悪者をつくらないためなのか、ご都合主義にもみえてしまう。
監督が「意外な展開」として書いているものが、「どこかで読んだような話」か、「突飛な展開すぎてついていけない」かの両極端に感じます。
土地の所有権とか、どうなっているんだあれ?
僕はずっと、「人間はいまだその仕組みが解明しきれていないだけの機械だ」と考えながら生きてきました。
けっこう長い間生きて、AIの進化を目の当たりにすると、人間だけが特別なのは、自分が人間だからに過ぎない、とも思っています。
人間は化学伝達物質によってけっこう簡単にコントロールされるし、もはや、いまのAIのクセ、みたいなものを熟知していなければ、ディスプレイの向こうにいるのが人間なのかAIなのか確実に判別できる人のほうが少ないはず。
少子化がそんなに問題ならば、もう、人間が「人間的」なロボットをつくり、そのロボットがロボットを再生産していく社会で良いのではないか。
もっとAIやロボットが精巧になって、人間と見分けがつかなくなったら、あえて「区別」する必要って、あるのだろうか?
この映画を観ていると、是枝監督は、僕と同じようにテクノロジーの進化をみてきて、同じようなことを考えているのではないか、と思うのです。
理不尽な婚活市場で踊らされて消耗するよりは、もう、接触できなくても想像上の「推し」やヒューマノイドが「俺の嫁」のほうが、幸せなんじゃない?
美術展などで、「国宝」の作品が展示してあったら、「おっ!」って思いますよね。
でも、そこに(レプリカ)って書いてあったら、どんなに精巧につくられたものでも、大部分の人はその作品への興味が8割くらい失われるのではないでしょうか。
もちろん僕もそうです。
3Dプリンターを使って、完璧に再現された『モナリザ』と「本物」を、われわれは見分けられるのか?
当時の画材などが現代では再現できないので、完璧には難しいかもしれませんが、素人には見分けがつかないレベルなら、いまでも可能だと思います。
見分けることができないにもかかわらず、ほとんどの人は「本物」というラベルがついているほうに、圧倒的に価値を見いだしてしまう。
「やっぱり本物はすごい!」って。
結局、人間は記憶と思い込みの生き物であり、それが「人間らしさ」なんですけどね。
「すべてを現時点からのゼロベースで考えよう」というアドラー心理学は、理屈としてはわかるのだけれど、実践するのはきわめて難しい。
すぐに忘れてくれるし、どんな罵詈雑言も引きずらないで接してくれるから、AIのほうが相談しやすい、という人間も増えています。僕もそうです。
人間のほうが、AIを「擬人化」して、「ありがとう助かった」とお礼を言ってしまいます。
人間は、自ら作り上げてきた、人間に似た存在を、一方的に利用すべきなのか、共存すべきなのか、排除、競争すべきなのか?
その問いに、AIは答えられない。
人間は、答えを探し続けなければならないし、それが最後の「人間にしかできないこと」なのかもしれませんね。








