琥珀色の戯言

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【読書感想】限界地方政治 ~民主主義崩壊を読み解く6つの視点~ ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

なぜ「無法者」が議員になってしまうのか?
なぜ選挙が「デタラメ」にハックされてしまうのか?

近年、日本各地の地方自治体で、
・学歴詐称や倫理問題を抱えた首長
・ヘイトスピーチやデマを平然と垂れ流す議員
・陰謀論や排外主義を主張して当選してしまう議員

が見受けられる。

かつて「泡沫候補」と呼ばれたユニークな候補は、もうその「面白さ」を失い、単に民主主義を破壊する存在になりつつある。

これらは単なる「人物の資質」の問題ではない。
人口減少、産業空洞化、外国人労働への依存、環境問題、文化摩擦、情報環境の劣化といった地方が抱える構造的問題が、
倫理なき政治家や分断を煽る勢力にとって“利用しやすい土壌”になっているのではないか?

本書は、地方議会・地方選挙の現場に赴き、その様子をつぶさに報じてきた6人の視点で、「なぜ地方から民主主義が壊れているのか」を多角的に検証した書籍である


「悪名は無名に勝る」とは言いますが、芸能人のスキャンダルを暴露して有名になった「ガーシー」こと東谷義和氏が参議院選挙で当選したり(結局、国会には一度も出席しなかったわけですが)、「迷惑系YouTuber」のへずまりゅう氏が奈良市議会議員になったりしているのをみると、「民主主義の崩壊、あるいは限界」を感じるのです。

そういうのは、現在にはじまったことではなく、田中角栄さんが汚職で裁判を受け、病気でずっと自宅で療養しているあいだも、ずっと地元からの圧倒的な支持で国会議員であり続けていたのを思い出します。

さすがに、国会議員を選ぶ国政選挙となると、あまりにもひどい候補は選ばれない……と言いたいところではありますが、前述のガーシー氏の当選や参政党の躍進をみると、トランプ大統領をさんざんネタにしている日本も、やっていることはあんまり変わらないのです。

彼らは映画『ジョーカー』のような、不満をもつ民衆に革命家として暴力とともに支持されたわけではなく、選挙という「正しい民主主義の手続き」を経て地方の首長や議員になっています。

これは、6人の地方政治に詳しいジャーナリストや評論家たちが、「地方政治の現在」について、伊東市の田久保眞紀前市長や大阪維新の会、パワハラの報道で辞職したものの、知事選挙で再選された斎藤元彦・兵庫県知事などの取材をもとに論じている新書なのです。

傍からみれば「なんでこんな人が当選して、国や地域を動かす要職につくのか?」と疑問になるのですが、自分の周囲で「政治家」になりたがる優秀な人物って、すぐに思い浮かびますか?
あるいは、政治には不満だらけだとしても、自分が政治をやる立場になる気がありますか?

政治家って、どうやったらなれるのか、よくわからない職業ではありますよね。
少なくとも、それで定期収入を得るためには、選挙で当選する必要がある。
逆にいえば、「どんなに優秀だろうが、立派な政策を掲げていようが、選挙で負けたらどうしようもない」のです。

この本の第4章で、「選挙ウォッチャーちだい」さんは、「NHKから国民を守る党(以下、N国党)」の立花孝志氏による「意識革命」について、こう書いておられます。

 政治家とは、我々の命や暮らしを守るために働く者であるはずだ。
 何らかのプロである必要もなければ、特別に高学歴である必要もない。昨日まで無職のひきこもりだった人間が、明日から市議会議員になってもいいだろう。ただし、それには絶対的な条件がある。
 それは、その街のために、その街で暮らす人々のために、どうするべきかを真剣に考え、行動することである。
 しかし、N国党の立花が破壊したものは「政治家たるもの、市民のために働くべし」という大前提である。政治家になってしまえば、別に市民のために働く必要はなく、ただ議会に出席することだけを満たし、議員報酬という「給料」をもらえばいいという発想だ。議会で発言をしなくても、ただ決められた時間に椅子に座っているだけで、年間1000万円近い給料がもらえるビッグチャンス。これほどおいしい仕事はないと喧伝した。
 
 政治家の仕事は、いわゆる「サブスク型」の給与体系だ。一生懸命仕事をしてみたところで、その先に出世があるわけではない。会社であれば、働けば働くほど社内で認められ、課長になったり部長になったりして、役職に応じて給料も上がるかもしれない。しかし、市議はどこまで行っても市議であり、議長や副議長といった役職は仕事ぶりで決まるのではなく、議会会派の力関係によって決まる。だから、働けば働くほど割に合わない仕事であり、働かなければ働かないほど「おいしい仕事」と解釈される。

 昨今、大阪維新の会に代表されるように「身を切る改革」と称し、議員の給料をカットする傾向が強まっているが、働けば働くほど割に合わないのに給料をカットすると言っているのだから、最初から「働く気がない」と宣言しているようなものだ。しかし、多くの人は、議員がどんな仕事をしているかを知らないし、当選した議員がちゃんと働いているのかどうかも知らない。ただなんとなく漠然と給料が高そうなイメージだけがある。
 本当は国会議員でさえ高い給料だとは言えない。いろいろな手当などを含めて高所得であるような印象を与えられているが、実際は上場企業で働くサラリーマンのほうが実質賃金は高い。それでも日本人のメンタルは「議員の給料が高いのだから自分たちの給料も上げてくれ」ではなく、「自分たちの給料が安いのだから議員の給料も安くあるべき」であり、自分の給料を上げることを望むのではなく、他人の給料を下げることを望んでしまう。だから、「私たちの賃金を上げよう」と主張する日本共産党や社民党は人気がなくて、「自分の給料を自分から減らします」と主張する日本維新の会には人気があるのだ。
 こうしたメンタルになってしまうのは、国民が政治家に対し、「働きもしないのに高い給料をもらっている」と感じているからだろう。それなら「次の選挙で落とす」と言えばいいのに、自分たちで働かない政治家を生み出して「働かない政治家ばっかりだ」と嘆いている。
 そんな世の中に、反社会的カルト集団「NHKから国民を守る党」は堂々と入り込んできた。立花孝志がやったこと。それは、最初から「仕事をしない」と宣言する者を議員にすることだ。


共産党や社民党の不人気は、これが理由ではないとは思うのですが、僕も「議員を減らせ」「議員報酬を下げろ」という政治家の主張を聞くたびに、「ちゃんと働いてくれるんだったら、もっと給料は高くてもいいし、議員の数だって増やしてもいいくらいじゃない?」と思うのです。

東京は人口が集中していることもあり、狭い地域に議員がたくさんいるイメージがあるかもしれませんが、僕が住んでいるような九州の人口が少ない県で「同じ県のなかでも産業構造も住民の意識もかなり違うのに「県全体で1議席か2議席」なんていうのは、地域の多様性をカバーしきれないと感じます。

学校で優秀な成績をおさめている人は、大企業や外資系に就職したり、法律や医療の専門家になったり、研究者になったりすることが多く、「政治家」というのは、「ちょっと変わった人、あるいは、人生で名誉を求める段階になった人の仕事」というのが率直な印象です。

僕にも政治に関わっている知り合いは何人かいるのですが、良くも悪くも「いろんな人がいる」のですよね。
「俺は議員だぞ」って威張り散らすような人もいれば、地域のために身を粉にして働いている人もいる。

年収1000万円というのは「真面目に議員として働こうと思う人」、あるいは「大企業から引く手あまたな優秀な人」にとっては、けっして「すごい高給」ではないし、選挙があるからずっと身分が保証されるわけでもない。

でも、某氏のような「迷惑系YouTuber」にとっては、十分すぎる高給だし、動画のネタにはなるし、願ったり叶ったりの仕事です。

選挙に当選しなければ議員にはなれないけれど、当選してしまえば、誰でも(正確には失格事項にあてはまらないかぎり)議員になれる。

ちゃんとやろうとすれば割に合わないし、きついことだらけだけれど、開き直って「給料泥棒」に徹すれば、「ブルシット・ジョブ」のできあがり。

もちろん、そう簡単に選挙で当選はしないはずなのですが、ずっと選挙に出続けているうちに知名度が上がり、ネットで注目されると面白がって投票する人も出てくるのです。
地方選挙では、そのくらいの「底上げ」で、当選してしまうことも少なからずある。
失うものがないほど、何度も「挑戦」しやすい(あまりに投票数が少ないと供託金没収、というペナルティはあるけれど)。


選挙関係の著書も多いフリーライターの畠山理仁さんは、地方選挙の現実について、こんな事例を紹介しています。

 国政選挙であれば、数万票、数十万票という票が動く。しかし地方選挙、とおくに町村議会議員選挙や市議会議員選挙では、数百票で当選することも珍しくない。
 2019年4月21日に行われた埼玉県三芳町町議会議員選挙では、定数15に対して16人が立候補した。最下位当選者の得票は342票。落選者との差はわずか42票だった。

 この選挙で注目を集めたのが、落選した桑原宏明候補が掲示した「自」「民」「党」と大きく書かれた選挙ポスターである。
 一見すると「自民党」の公認候補のように見える。しかし、よく見ると違う。
「自立を支援する町づくり」
「民意を町政へ」
「党や議員との連携」
 この3つのキャッチコピーの頭文字を赤い四角で囲んで強調し、白抜き文字にして並べていた。よく見ると3つの赤い四角の間には隙間があり、つながっていない。桑原は無所属で、自民党公認候補でも推薦候補でもなかった。
 しかし、有権者からすれば、「自民党」の候補と誤認しかねない紛らわしさだった。
 当然、自民党側は問題視した。ただちに桑原候補に連絡を取り、厳重に抗議した。三芳町内の自民党員にも周知徹底を図った。
 だが、町議選の選挙期間はわずか5日間しかない。選挙期間中にポスターが修正されることなく投票日を迎えた。結果的に桑原候補は落選したものの、あと一歩で当選するところまで迫った。
 地方選挙では、この「あと数十票」が大きな意味を持つ。逆に言えば、限られた支持層を固めるだけでも当選圏内に届いてしまう。

 実際、2023年4月の統一地方選後半戦では、125町村選と373町村議選のうち、233の選挙が無投票。町村長選では半数を超える70町村、町村議選では定数の30.3%にあたる1250人が無投票で当選した。
 無投票選挙では、有権者は「選ぶ」という行為そのものができない。担い手不足は、選挙と有権者の距離をさらに広げ、地方民主主義の土台そのものを揺るがしているのだ。
 地方政治が「荒れて見える」背景には、候補者だけでなく、制度の脆弱さや有権者との距離の広がりも横たわっている。
 そして、その変化をどう受け止めるのかもまた、有権者一人ひとりに問われている。


有権者の「誤認」を狙ったかのような選挙ポスターというのもすごいですよね。近年は、政策のアピールよりも、とにかく目立つポスターを掲示する候補者も出てきています。

とくに地方議会では、議員にそれなりの力がある一方で、議員になりたがる人がいないし、新しい人が政策でまともに勝負するのは、地元の人脈や支持基盤が固められていて難しい。
この定員ギリギリ、という状況をみると、「ラクに稼げて社会的地位がある(ようにみえる)仕事」だと割り切って選挙に出るというのは、その人自身の人生逆転ゲームとしては、十分「アリ」なんじゃないかと感じます。

高所の鉄骨を命がけで渡るより、よっぽど勝ち目がありそう。
(まあ、『カイジ』はマンガなんですけどね)


著述家の菅野完さんは、兵庫県知事選挙での斎藤元彦知事の再選に対して、こう述べています。

 何度も何度も繰り返しておこう。
 民主主義は壊れてなどいない。暴走さえしていない。むしろ近年、日本では、民主主義はより純粋な民主主義になろうとしている。
 それを誰よりも自覚しているのが、ほかならぬ斎藤元彦だ。


「思い込み」や「今のままではダメだという危機感」「妬み嫉み」「面白いものがみたい、という欲求」
「民意」には、そんな「賢人からすればバカバカしく思うもの」が多分に含まれていて、それが反映されるのは「民主主義の正常運転」なのです。

大きな戦争や新型コロナのような危機の時代になれば、人は「他者のため」「みんなのため」になることに譲歩するけれど、「好きにしていい」「どうせ自分の現状は変わらない」のならば、「清き一票」を面白そうなほうに行使するのも「民意」なんですよね。

民主主義は、いまのシステムの選挙によって代表者を決め、政治を委ねることは、本当に正しいのか?
そもそも、人間の集団というのは、「正しい判断」ができるのか?
「正しい」とは何なのか?


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  • 山内 和彦
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