琥珀色の戯言

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【読書感想】歴史探偵 忘れ残りの記 ☆☆☆☆

歴史探偵 忘れ残りの記 (文春新書 1299)

歴史探偵 忘れ残りの記 (文春新書 1299)


Kindle版もあります。

歴史探偵 忘れ残りの記 (文春新書)

歴史探偵 忘れ残りの記 (文春新書)

歴史のよもやま話から悪ガキ時代を描く自伝的エッセイまで。
2021年1月に亡くなった、半藤一利さんの最後の著作には「人生の愉しみ方」が詰まっている。

昭和史最良の語り部、半藤さんの遺した、昭和から現代まで!

第一章 昭和史おぼえ書き
第二章 悠々閑々たる文豪たち
第三章 うるわしの春夏秋冬
第四章 愛すべき小動物諸君
第五章 下町の悪ガキの船出
第六章 わが銀座おぼろげ史


 半藤一利さんが亡くなられたのは、2021年1月12日のことでした。
 もう90歳なのに、お元気で、「昭和」を語り続けておられるなあ、と思っていたので、この訃報には驚きました。

 この『歴史探偵 忘れ残りの記』は、半藤さんがさまざまなところに書いていた、本になっていないエッセイやコラムを集めたもので、結果的に半藤さんの遺作となったのです。この『忘れ残りの記』というタイトル、どこかで聞いたことがあったのですが、半藤さんが若い頃、『文藝春秋』の編集者として吉川英治さんを担当していて、そのときの吉川さんの連載のタイトルが『忘れ残りの記』だったそうです。

 35年くらい前、吉川英治さんの『三国志』にハマって、『新・平家物語』や『私本太平記』を高校の寮で読んでいたのを思い出します。そうか、あの頃はまだ「昭和」だったのだよなあ。
 1930年生まれの半藤さんは、若い頃に太平洋戦争を経験し、「軍国少年というわけではなかったが、アメリカ軍の戦車に爆弾を持って体当たりをする訓練を受けていた」と仰っておられます。
 あの戦争を当事者として語れる人も、だいぶ少なくなってきているなかで、半藤さんを喪ってしまったことは、とても残念です。
 でも、担当編集者が「亡くなられたとき、書斎の机には本書のゲラが置かれていた」と書いておられるのを読んで、「戦争の時代を経て90年を生き、平成の時代も過ごし、最後まで現役として自分の仕事を続けた半藤さんは、とても幸せな人だったのではないか」とも思うのです。


 この本を読んでいて感じるのは、半藤さんはユーモアもあったけれど、何よりも「教養人」だった、ということなんですよ。
 さまざまな言葉に関する知識や俳句、短歌、漢詩などが、何気なく出てくることに驚かされます。

 もちろん、担当編集者がサポートし、校正もされていたのでしょうけど、もうすぐ半世紀生きていることになる僕は、ふと口ずさむことができる短歌や俳句をほとんど持っていないのです。もっと若い人なら、なおさらではなかろうか。

 今の世の中であれば、いざとなったら、わからないことは手元のスマートフォンで検索すればいい。
 スマートフォンも「脳」の一部と言えるのかもしれません。
 でも、スマートフォンやアレクサは、聞かれたことに答えてくれるだけ、でもあるのです。

 詩人の三好達治の作に「雪」という傑作がある。
「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」
 たったこれだけの詩であるけれども、声をだして読んでいると、霊的ともいえる静寂につつまれて、どこからともなく瞑想的な、孤独感が湧き上がってくる。越後に住んでいたころ、雪がふる夜、なんどもこんな恐ろしく寂しい気持ちになった。いらいこの詩を好きな日本の詩の一つにしている。

 このあと、俳人の石原八束さん、詩人の吉本隆明さん、そして半藤さん自身の、この詩の解釈が語られているのです。


 こんな話も出てきます。

 言葉というものは、何気なく使っているけれども、相手のとりようによっては、こっちが考えてもみないような意味となっていることがある。先日もこんなことがあった。

 しゃぼん玉とんだ 
 屋根までとんだ
              (「しゃぼん玉」作詞・野口雨情/作曲・中山吾平)


 と、歌ってきかせたら、近所の小学校低学年のお茶っぴいが問うた。
「しゃぼん玉が割れないで飛べるようなやわらかい風なのに、どうしておうちの屋根が飛んだの、おかしいわ」
 なるほど、しゃぼん玉が屋根の高さまで飛んでいった、とあっさり考えてきたが、「屋根までが」と主語の置きようのいかんによっては、お茶っぴいの疑問が正しいことになる。


 半藤さんは、こういうときに「文脈を読め」みたいな不粋なことは言わずに、いろんな人の解釈を楽しんでいるのです。
 「余裕」がある人だったのだなあ。

 『文藝春秋』の編集部で働いていたときの「銀座」の思い出話も、読んでいると、「なぜ、多くの人たちが『銀座』という場所にこんなに憧れや愛着を持っているのか、が伝わってくるのです。
、僕自身は、地方育ち、地方暮らしで、ほとんど銀座には縁がなく、これまでは、たまに行くことがあっても、「案外狭いな」というくらいの感情しか抱かなかったのだけれど。

 勝鬨橋ができてすぐの週末に、みんなで橋が上がるのを見に行った話も出てきて、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』にも勝鬨橋が描かれていたのを思い出しました。『こち亀』の作者の秋本治さんも、半藤さんの著作を読んでいたのだろうか。

 『文藝春秋』に入社してすぐの頃、何も仕事がなくて、同期入社の人たちと社内でボーッとしていたら、「別冊文藝春秋」の編集長に「この中で、酒が飲めるヤツがいるか」と声をかけてきたそうです。

「僕は相当に強いです」
 編集長が「それじゃ、キミにするか」と手招きすると、「桐生の坂口安吾のところに行って、小説の原稿をもらってきてくれ。すでに頼んであるので行けばすぐくれると思うから、すぐに出かけてくれ」。
 心の中でしめた、これで仕事らしい仕事ができると欣喜雀躍した。午後の混雑する銀座通りの人波をかき分けるようにして、家には「これから桐生へ行くから今夜遅くなる」と円楽して、ほんとうに勇躍して桐生に向かったのである。
 ところが、である。突然の来訪者を快く迎えてくれたのはいいが、坂口安吾さんは、
「エッ、文春の原稿? 約束した覚えなんかないなあ」といいだすではないか。びっくりしたわたくしは、言葉もでずに立ちすくんだ。すると、夫人の三千代さんがやさしい声で、
「でき上がるまでここにお泊まりになられるといいわ」
 といってくれた。命ぜられてすぐ往復の電車賃だけをもって社を飛び出してきたから嚢中はカラ、近所の旅館に泊まって待機するだけの余裕はないのである。でも、せいぜい一晩であろうからと楽観して、それではとご厄介になることにした。
 業界用語で、原稿をとるため作家をホテルなどに閉じこめることをカンヅメという。
 この場合はわたくしが逆かンヅメになったわけである。しかも、ノホホンと一週間にもおよぶ逆カンヅメとなったのであるから、いま思い返してもこっ恥ずかしくなる。
 でも、この一週間、毎晩酒をグイグイ飲みながら(安吾さんは冷や酒、わたくしは燗酒)安吾大先生の天衣無縫、奔放不覊の名講義をいろいろジカに聞いた。ちょうど安吾さんは『信長』を書き上げた直後で、歴史づいていたのであろう。話は古代史にはじまって戦後日本までの歴史。生涯にあれほど輝いた、値千金の夜はなかったと思う。


 ちなみに、この一週間のあいだに、雑誌は校了となって原稿は間に合わず、半藤さんの家族も心配して編集部に問い合わせてきたそうです。
 半藤さんは採用取り消しも覚悟していましたが、怒られはしたものの、クビにはなりませんでした。
 今から考えたら、「ゆるい」というか、のんびりした時代ではありますよね。
 半藤さんの文章を読むと、いい時代だったのだな、と羨ましくなってくるのです。
 
 昭和も遠くなりにけり。


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