琥珀色の戯言

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【映画感想】すずめの戸締まり ☆☆☆☆


あらすじ
九州の静かな町で生活している17歳の岩戸鈴芽は、”扉”を探しているという青年、宗像草太に出会う。草太の後を追って山中の廃虚にたどり着いた鈴芽は、そこにあった古い扉に手を伸ばす。やがて、日本各地で扉が開き始めるが、それらの扉は向こう側から災いをもたらすのだという。鈴芽は、災いの元となる扉を閉めるために旅立つ。


suzume-tojimari-movie.jp


 2022年20作目。
 公開から1週間経った週末の夜に観ました。
 ネットでも『すずめの戸締まり』がシネコンのスクリーンを占拠している!という話題が出ていましたが、夕方から夜にかけては30分間隔で上映されていて、観客は50人くらいでした。

なんだかよくわからない、というか、支離滅裂、荒唐無稽で説明不足、すずめは、あまりにも「いい子」すぎてリアリティもない。芥川賞の選考委員には「人間が描けていない」とか言われそう……

でも、観終えて僕は、思ったのです。
「ああ、なんだかとても良いものを観せてもらった」

本当に、何なんでしょうねこれ。
もし、まったく同じストーリーを実写映画にしていたら、たぶん「B級ファンタジー映画マニアしか喜ばない作品」になっていたような気がするんですよ。これはあまりにも精緻に描かれたアニメーションの「絵の力」なのか、実写で「人間を描く」映画に、もう観客としての僕が疲れ果ててしまったのか。


 この映画を観ていて、以前、内田樹先生が村上春樹さんの作品について書かれていた文章を思い出したのです。


fujipon.hatenadiary.com

 家事は「シジフォス」の苦悩に似ている。どれほど掃除しても、毎日のようにゴミは溜まってゆく。洗濯しても洗濯しても洗濯物は増える。私ひとりの家でさえ、そこに秩序を維持するためには絶えざる家事行動が必要である。少しでも怠ると、家の中はたちまちカオスの淵へ接近する。だからシジフォスが山の上から転落してくる岩をまた押し上げるように、廊下の隅にたまってゆくほこりをときどき掻き出さなければならない。
 洗面所の床を磨きながら、「センチネル」ということばを思い出す。 
 人間的世界がカオスの淵に呑み込まれないように、崖っぷちに立って毎日数センチずつじりじりと押し戻す仕事。
 家事には「そういう感じ」がする。とくに達成感があるわけでもないし、賃金も払われないし、社会的敬意も向けられない。けれども、誰かが黙ってこの「雪かき仕事」をしていないと、人間的秩序は崩落してしまう。
 ホールデン・コールフィールド少年は妹のフィービーに「好きなこと」を問われて、自分がやりたいたったひとつの仕事についてこう語る。

 だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方へ走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。 (J.D.サリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライ』、村上春樹訳、白水社、2003年、287ページ)


 高校生のときにはじめてこの箇所を読んだとき、私は意味が全然分からなかった。
 何だよ、その「クレイジーな崖っぷち」っていうのはさ。
 でも、それから大きくなって、愛したり、憎んだり、ものを壊したり、作ったり、出会ったり、別れたり、いろいろなことをしてきたら、いくつかわかったこともある。 
 「キャッチャー」仕事をする人間がこの世界には絶対必要だ、ということもその一つだ。
 「キャッチャー」はけっこう切ない仕事である。
 「子どもたちしかいない世界」だからこそ必要な仕事なんだけれど、当の子どもたちには「キャッチャー」の仕事の意味なんかわからない。崖っぷちで「キャッチ」されても、たぶん、ほとんどの子どもたちは「ありがとう」さえ言わないだろう。
 感謝もされず、対価も支払われない。でも、そういう「センチネル(歩哨)」の仕事は誰かが担わなくてはならない。
 世の中には、「誰かがやらなければならないのなら、私がやる」というふうに考える人と、「誰かがやらなくてはならいんだから、誰かがやるだろう」というふうに考える人の二種類がいる。
 「キャッチャー」は第一の種類の人間が引き受ける仕事である。ときどき、「あ、オレがやります」と手を挙げてくれる人がいれば、人間的秩序はそこそこ保たれる。
 そういう人が必ずいたので、人間世界の秩序はこれまでも保たれてきたし、これからもそういう人は必ずいるだろうから、人間世界の秩序は引き続き保たれるはずである。
 でも、自分の努力にはつねに正当な評価や代償や栄誉が与えられるべきだと思っている人間は「キャッチャー」や「センチネル」の仕事には向かない。適性を論じる以前に、彼らは世の中には「そんな仕事」が存在するということさえ想像できないからである。
 家事はとても、とてもたいせつな仕事だ。
 家事を毎日きちきちとしている人間には、「シジフォス」(@アルベール・カミュ)や「キャッチャー」(@J.D.サリンジャー)や「雪かき」(@村上春樹)や「女性的なるもの」(@エマニュエル・レヴィナス)が「家事をする人」の人類学的な使命の通じるものだということが直感的にわかるはずである。

 霊的成長というものがあるとしたら、それは「私がいなくても、みんな大丈夫。だって、もう『つないで』おいたから」というかたちをとるんじゃないかと思います。
 村上春樹の小説にはときどき「配電盤」が出てきます。
 例えば、『1973年のピンボール』。

 「配電盤?」
 「なあに、それ?」
 「電話の回線を司る機械だよ。」
 わからない、と二人は言った。そこで僕は残りの説明を工事人に引き渡した。
 「ん……、つまりね、電話の回線が何本もそこに集まっているわけです。なんていうかね、お母さん犬が1匹いてね、その下に仔犬が何匹もいるわけですよ。ほら、わかるでしょ?」
 「?」
 「わかんないわ。」
 「ええ……、それでそのお母さん犬が仔犬たちを養ってるわけです。……お母さん犬が死ぬと仔犬たちも死ぬ。だもんで、お母さんが死にかけるとあたしたちが新しいお母さんに取替えにやってくるわけなんです。」
 「素敵ね。」
 「すごい。」
 僕も感心した。  (『1973年のピンボール』、講談社文庫、1983年、48ページ)


 うーん、ウチダも感心しました。
 これはやはり「霊的生活」の比喩じゃないかなと思います。村上春樹って、「そういう話」ばかりしている人ですからね。
 霊的成長っていうのは、配電盤としての機能を全うするということじゃないか、と。私はそんなふうに思っています。
 私がいなくなっても、誰も困らないようにきちんと「つないで」おいたおかげで、回りの人たちが、私がいなくなった翌日からも私がいないときと同じように愉快に暮らせるように配慮すること。
 そういう人に私はなりたいと思っています。


 2つのかなり長い文章を引用させていただいたのですが、「個人主義的な文学」だというイメージを持たれがちな(というか、僕もそういう印象を持っていました)村上春樹作品というのは、実は、「目に見えないところ(あるいは、多くの人が目に留めないところ)で、ある種の『破綻の予兆』みたいなものを防ぐ防波堤になっている人たちの物語なのだ、ということなのでしょう。そして、彼らが極めて「個人主義的」に見えるのは、実際は、「多くの『センチネル』に向かない人々」にとっては、彼らの行動が理解不能だからなのかもしれません。

 そう言われてみれば、『海辺のカフカ』なんて、まさに「このテーマそのもの」の話ですよね。『ねじまき鳥クロニクル』もそうだよなあ。『世界の終わりと、ハードボイルドワンダーランド』も。

 この『すずめの戸締まり』で描かれている「閉じ師」っていうのも、まさにこの「配電盤の機能を全うしている人たち」ですよね。


 もうちょっと内容について具体的に触れていきたいので、以下は「ネタバレ感想」になります。

 できれば、作品を観てから読んでいただきたいし、いま作品を観る気がないのであれば、この先は読まないでほしいのです。いつか「その気」になるかもしれないし、配信やテレビで無料になったときに見るかもしれないから。

 けっして、褒めちぎっているわけではないし、本当に無茶苦茶でキャラクターと背景以外はあらためて考えてみると全然すごくもない(というか、敵キャラと戦闘シーンは、本当に「もうちょっとなんとかならなかったのか」とさえ思います。たぶん、新海誠監督は、バトルシーンにあまり興味がないんだろうな、というのは伝わってくるのですが)。


注意:本当にネタバレですよ!!



 「猫と三本足の椅子が、ジェットコースターで追いかけっこをする映画」

 こういう「テーマ、みたいなものには直接関係はないけれど、印象的な映像が頭に焼き付けられる映画」というのは、ジブリ作品に通じるものがあるのです。

 そして、観終えたた後、僕は「これって、映画『ドライブ・マイ・カー』だよなあ」と思わずには要られませんでした。
 物語のクライマックス、根底のテーマに「震災という大きなトラウマの受容、そして、リスタート」があるのです。


fujipon.hatenadiary.com


 思えば、新海誠監督の『君の名は。』は、「大災害が起こった過去を改変して、なかったことにしてしまう話」で、『天気の子』は、「大災害を防ぐという最大多数の幸福のためには、個人の犠牲は仕方がない、という同調圧力に意義を唱える話」でした。
 そして、『すずめの戸締まり』は、「もう改変することはできない大きな災害と、その犠牲になった人たちの記憶を受け入れ、悼むとともに、彼らの、そして、今生きている人たちの思いを連れて、これからまた自分も生きて、日常を続けていこう、という話」だと、僕は感じました。

 これまでずっと、扉を閉じるときのすずめの言葉が「お返しします」だったのが、最後に「行ってきます」になるんですよね。
 戸締まりというのは、防犯であり、いろんなものをしまっておくために必要な行為であるのと同時に、新たな場所への「旅立ち」の儀式でもある。

 新海誠監督は、僕と同じくらいの年齢で、「村上春樹作品の影響」を、『すずめの戸締まり』に関するインタビューでも語っておられます。


www.famitsu.com


 『君の名は。』のときには、記憶が生々しく、せめて物語の中ででも「ハッピーエンド」を想像したかった。
 でも、あれから10年以上が経ち、記憶は風化してきているし、東日本大震災を歴史年表中の出来事としてしか知らない子どもたちもたくさんいるのです。

(僕の長男もはっきりとした震災の記憶はなくて、次男は東日本大震災のときには生まれていませんでした)

 僕自身も人生の先輩たちの「戦争体験」を聞いて、あれこれ想像したり、自分の身に置き換えてみたりするものの、うまく「実感」するのは難しいのです。
 ましてや、インターネット社会では、情報量があまりにも多くて、人々は、震災のことを忘れかけている。いや、忘れかけている、というよりは、忘れたがっているのかもしれません。
 マスメディアの人たちは、「震災についてとりあげたいのだけれど、数字(視聴率)が取れない」と嘆いています。

 あの震災を「感動オカルトポルノ」みたいなアニメ映画にしてしまってもいいのか?という批判はあると思いますし、僕自身、この映画を「面白い」と言ってしまうことに、少し後ろめたさもあるのです。
 ただ、それは新海誠監督自身も引き受ける覚悟で、この作品をつくったことは、インタビューでも語られています。作中の「地震発生」のアラーム音にも配慮がされているのです。

 少なくとも、この映画を観た人たちは、「あの震災」のことを思い出す、あるいは知ろうとするはずです。


 僕はこの映画、時間をあまり意識せずに観ていたので、草太が「要石」になってしまったときに、「ああ、今回はこういう終わりかたなのかな」と思ったんですよ。
 新たな要石として、ひとりの若者が犠牲になることで、世界の調和は保たれ、多くの人たちは(自分たちが「救われた」ことすら知らないまま)救われた。
 
 ところが、『天気の子』も、この『すずめの戸締まり』も、そこで「大団円」になることを許さないのです。
 主人公は、世界の調和を危険にさらしてでも、自分の大事な人を助けに行くのです。
 社会全体にとっては、余計なこと、迷惑なこと、リスクにみあわないことを「わたしはやらずにはいられない」のが新海誠映画なんですよね。

 まさに「theセカイ系」。
 個人の心や周囲との関係が、結果的に「セカイ」そのものを左右するというのは、『エヴァンゲリオン』的でもあります。

 映画の登場人物のそういう「自分の幸せを優先する行為を応援してしまう自分」と、普段の生活の中で、「公共の安定や調和よりも、自分の幸福を優先する人たちをバッシングしてしまう自分」は、矛盾しているようだけれど、どちらも同じ自分。

 僕にとっては、新海誠作品が、なんでこんなに多くの人に受け入れられるのだろう?という疑問もあるのです。
良識派」だと自認している人たちを、挑発し、不安にさせるはずの映画なのに。
 実際はみんな「息苦しさ」を感じているのだろうか?

 これまではRADWIMPSの歌がかなり目立っていて、映像とセットになっていたのが、今回は「BGM」に徹していて、だからこそエンドロールでの曲が強く印象に残りました。
 『天気の子』で主人公の「家出の理由」が最後まで語られることがなかったように、要石だった神の「乱心」の理由が最後までよくわからなかった(「もともと神は気まぐれなもの、だから?」あるいは「鈴芽の心の救済が神の目的だった?」)、人が椅子になることができる理由とか(呪い?乱歩?)、鈴芽のお父さんが完全にスルーされていることとか、あんな危ない状況に巻き込まれても、鈴芽は悩みも後悔もせずに真っ直ぐ進んでいくこととか。

 「説明しない」のが新海誠作品のスタイルなんですよね。
 今のライトノベル発のアニメをみていると、超人的な能力を持っている登場人物も、その「理由」については語られることはあまりないのが、僕には正直「引っかかる」ところはあるのです。

 「めんどくさいし、矛盾を感じる説明をされるよりは、それはもともとそういうものなんだ、ってことでいいよ」というのが、今の時代の主流だということなのでしょう。

 新海誠監督は「人間を描いていない」と言われても、「希望」や「呪い」を描くためには「人間を描きすぎるのはメリットよりデメリットの方が大きい」と考えているのではなかろうか。というか、観客は、もう「クリエイターや登場人物が悩み苦しんでいる姿をこれみよがしに見せつけられるのにうんざりしている」のかもしれません。そんなのには、現実でもう飽き飽きしているから。

 「みんなが『余計なことするなよ』と思うことを、危険を冒してやらずにはいられない人がいる」のを描いているという点では、まさに「人間を描いている」とも言えるのでしょうけど。


 観客が観たいものを観せてくれる、という意味では、完璧に近い映画だと思うのです。
 でも、正直なところ、僕はこの作品にすごく好感を抱いている一方で、手放しで称賛していいのか、観終えてから、ずっと迷っているのです。

 
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