琥珀色の戯言

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ダークナイト ☆☆☆☆☆


『ダークナイト』公式サイト

あらすじ: 悪のはびこるゴッサムシティを舞台に、ジム警部補(ゲイリー・オールドマン)やハーベイ・デント地方検事(アーロン・エッカート)の協力のもと、バットマンクリスチャン・ベイル)は街で起こる犯罪撲滅の成果を上げつつあった。だが、ジョーカーと名乗る謎の犯罪者の台頭により、街は再び混乱と狂気に包まれていく。最強の敵を前に、バットマンはあらゆるハイテク技術を駆使しながら、信じるものすべてと戦わざるを得なくなっていく。(シネマトゥデイ

 各所で絶賛されている、この『ダークナイト』。僕は23日の土曜日に観てきました。17時からの回で、250人収容のシアターで、お客さんの数は20〜30人。公開後3回目の週末、そして話題作としては、ちょっと寂しい客入りかもしれません。アメリカでの大ヒットを耳にしているだけになおさら。

 興行的には、日本ではアメコミ映画が難しいこともあって期待通りの結果が難しそうなこの『ダークナイト』なのですが、作品としては本当に素晴らしいというか、僕が最近観た「ヒーローもの」の映画としては最良の作品ではないかと思います。
 もっとも、この『ダークナイト』の凄さというのは、主役のバットマンがほとんど印象に残っていないところなんですよね。
「ヒーローもの」というよりは、「正義とは何か、悪とは何か?」を問いかけてくる哲学的な作品であり、「ハリウッド映画のヒーローものは、わかりやすい勧善懲悪映画ばっかり」という僕の先入観は打ち破られましたし、この映画がアメリカで大ヒットしたということに、アメリカの人たちも、「わかりやすい映画」ばかりを望んでいたわけではないのだな、と意外に感じたのですよね。
 ただ、「ヒーローものの皮をかぶった『正義とは何か?』と問う作品」というのは、日本人にとってはけっして「珍しい」ものではなく(『E.T.』の「友好的な宇宙人」というのが、当時の僕たちにはあまり目新しく感じられなかったように)、そういう意味では、「予想を超えた面白さ」を感じる人は少ないかもしれません。
 でも、これは本当に「考えさせてくれる」素晴らしい映画ですし、いままでの「アメコミ映画」の先入観で敬遠されることなく、なるべくたくさんの人に映画館で観ていただきたい映画です。

 この後はネタバレで書きますので、隠します。
 これから作品を観る予定のかたは、ぜひ、鑑賞後に読んでください。お待ちしております。



 本当にネタバレですよ。


 この映画を観ながら、僕はずっと考えていたんです。
 「理解できない、無差別な悪意」に対して、僕たちはどうすればいいんだろう?と。
 続発している通り魔事件(この間、おばあちゃんが「捕まってご飯を食べたかった」みたいなのは別として)や「誰でもいいから、人を殺してみたかった」という少年たちに対して、「正義」というのは、あまりにも無力であるように思われます。
 道を歩いていて、周りの人がいきなりナイフで切りつけてこないか?なんていちいち考えていたら、怖くて外なんて歩けません。
 「なるべく気にしないようにする」「そういう目にあったら、運が悪かったと諦める」しかないんですよね。
 なんらかの「動機」とか「恨み」を持つ相手に襲われるのではなく、見ず知らずの人に、いきなり「悪意」を振りかざされる恐怖、それは、アメリカ人も共通なのでしょう(「銃社会」のアメリカではもっと深刻なのかもしれません)。

 「生活のため」とか「復讐のため」に悪いことをする人間は、許せるかは別として、多くの善人にも「理解」はできるでしょう。
 でも、「快楽として、ランダムに他人を傷つける人間」は、どうしようもないんじゃないか、と思うんですよね。善人にとって「正義」が快楽なのと同様に、彼らにとっては「他者を傷つけること」が快楽であり、それが動機となりうるのだというだけのことで。
 「改心」「反省」って言うけれど それは、「人の心の基盤は善である」という「性善説」に基づいたものでしかないのです。
 
 ものすごく評判になっていた、ヒース・レジャーの「ジョーカー」なのですが、僕は正直、彼の「ジョーカー」にそんなに驚きませんでしたし、観ている最中は「名演!」だなんて思わなかった。
 でも、観終えてからあらためて考えてみると、「ジョーカーがそんなに特別な人間に思えなかった」ことこそが、いまの時代の象徴であり、ヒース・レジャーの凄さなんですよね。ジョーカーが、傷ついたハービーを「説得」するシーンは、この映画の大きなポイントだと思うのですが、あれは「いくらなんでも、そんなに簡単に人を殺すような人間にはならないだろ(殺す相手がおまえ(ジョーカー)ならともかく……」と観客にとっては違和感がある場面です。しかしながら、そこに「ギリギリのリアリティー」(こいつにそんなふうに「説得」されたら、ハービーが転んじゃってもしょうがないのかな……)を持たせたのは、やはり、ヒース・レジャーの力だと思います。そして、こういう人間が「ありうる」ものであり、「誰の心にもジョーカーの芽がひそんでいる」からこそ、ヒース・レジャージョーカーに取り込まれ、役作りに悩んで睡眠薬を常用するようになってしまったのではないかと。
 ジョーカーは、「記号」としてあんな奇抜なメイクをしていて、バットマンに「フリーク」なんて言われたりしていますが、実際には「ジョーカー的なメンタリティ」は、多くの人の心に潜んでいるのです。ただ、それを表出するリスクを僕たちは知っているだけのことで。
 そして、ジョーカーは、バットマンに対して、「お前のような『正義の味方』がいるから、俺には存在価値がある。だからオレはお前を殺さないし、お前はオレを殺せない」と言ってのけるのです。
 「正義を貫こうとすること」というのは、ただひたすら不自由なことです。
 オートバイで突っ込んでくるバットマンの前に立ちふさがりながら、「さあ、オレを轢いてみろ!」と挑発するジョーカー、千載一遇のチャンスにもかかわらず、ジョーカーを避けてしまうバットマン
 最後の対決のシーンでも、高層ビルから転落するジョーカーを、バットマンはわざわざワイヤーで吊り上げて助けてやるのです。
 僕はこのシーンを観て、ちょっと呆れてしまいました。
 バカかバットマン。そいつは「病院送り」にしても、すぐに周囲をたらし込んで出てくるに決まってるだろ、生かしておくのなら、せめてお前が見張っててくれるんだろうな!

 この作品で、観客は、「正義の無力」に打ちのめされます。
 しかしながら、その一方で、クリストファー・ノーラン監督は、そういう「人間」という存在に、絶望してばかりでもないのです。
 ジョーカーが2艘の船(1艘は一般市民、1艘は囚人を護送する船)に爆弾を仕掛け、お互いの船に相手の起爆装置を与えて「先に相手の船を爆破したほうは助けてやろう」という「選択」を迫る場面があります。
 僕は「一般人のほうがボタンを押す」のだろうな、と思いながら観ていたのですが、結果は異なりました。
 「早い者勝ち」にもかかわらず、2つの船はお互いに最後の最後までボタンを押すことに逡巡します。囚人側のほうはリーダーがボタンを海に投げ捨て、一般人側は名乗りを上げた男が良心の呵責に耐え切れず、結局、どちらも「ボタンを押さない、あるいは押せない」のです。
 いや、現実にこういう場面があれば、そんなにうまくいかないかもしれない。でも、この場面には、「人間はそんなに立派なものじゃないけど、けっして『自分のためならどんなことでもできる』ほど酷いものでもないのだ」という祈りがこめられているように感じました。
 このボタンを「投げ捨てた」のが囚人側で、「どうしても押せなかった」のが一般人側だったのは象徴的で、僕がクリストファー・ノーラン監督からのメッセージとして受け取ったのは、「絶対的な正義とか悪なんて世界には存在しない」ということなのです。善人のなかにも「大きな悪意」があったり、悪人のなかにも「ささやかな善意」がある、それが当然のこと。
 最後の場面、「改心」することなく死んでいったハービーが犯した殺人を、バットマンは「自分のせいだと言え」とゴードンに告げます。「ゴッサム・シティには、『光の象徴』としてのハービーが必要なのだ」と。
 でもね、これはある意味、バットマンが「殺人の罪も引き受ける」ことによって、「絶対的な正義」から、「悪をも取り込んだ調停者」として存在していくことを選んだ、という場面でもありますよね。
 光が強ければ強いほど、影は濃くなります。バットマンが悪を否定すればするほど、「正義」に適応できず拠り所を失った連中は、より先鋭化し、過激になっていくのです。


 真っ白な「スーパーヒーロー」は、もう、世界を救えないのではないか?

 正直、僕自身は、こういう世界観は「理解できるけど受け入れたくない」のですよ。こんな時代でも、できることなら「より正しく生きたい」と自分では思っているから。
 でも、この映画での、バットマンブルース・ウェインの「悲壮な覚悟」を多くのアメリカ人が受け入れ、理解を示したというのは、すごく象徴的なことだと感じています。



 まあ、小難しいことを考えなくても、息もつかせぬアクション映画としてだけでも珠玉の作品ですので、できれば『バットマン・ビギンズ』を予習後、映画館で観ていただければ。
 

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