琥珀色の戯言

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【読書感想】同時通訳はやめられない ☆☆☆☆

同時通訳はやめられない (平凡社新書)

同時通訳はやめられない (平凡社新書)


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同時通訳はやめられない (平凡社新書822)

同時通訳はやめられない (平凡社新書822)

内容(「BOOK」データベースより)
右から左へ機械のごとく言葉を変換できると思われがちな同時通訳者。だが、話はそう単純ではない。のしかかるプレッシャーの中で、専門的な話を専門家でない者が仲介するという無理をするのがこの仕事。ひたすら日々の研鑽と経験で技が磨かれる職人とアスリートを合わせたような職業だ。異なる言語を行き来することで見える世界、表には見えない日々の格闘をユーモラスに描く。


 米原万里さんの著書などで、「同時通訳」という仕事の大変さはわかっているつもりだったのですが、こうして仕事の内容を詳しく知ると、「通訳」っていうのは本当にずっと勉強し続けなければならないのだなあ、と圧倒されてしまいます。
 日常会話の通訳ならともかく、外交や国際会議の舞台だと、誤訳までいかなくても、ちょっとした言葉のニュアンスの違いだけでも、大きな問題を引き起こすことがあるのあです。
 それを「相手が話しているのと同時に」だなんて!
 僕も英語で論文を書いた際に、専門の翻訳者にチェックをお願いしたことがあるのですが、専門領域で使われる言葉には一定の「形式」みたいなものがあって、通じればいい、というわけでもないんですよね。
 そういう、しきたりみたいなものとか、それぞれのジャンルのトレンドを知らないと、通訳というのは機能しないのです。
 通訳の世界のなかでも、同時通訳というのは、ちょっと特殊で専門的な領域に属するみたいですし。


 同時通訳者たちは、出たところ勝負、ではなくて、あらかじめその会議やインタビュー、ニュースなどで扱われるであろう題材や発言者について予習し、できるかぎりの資料をつくって本番に臨むのだそうです。
 とはいえ、相手も予定原稿を読むだけ、というわけではありませんから、予想外の言葉が出てきたり、こちらがなかなか適当な言葉が思い浮かばないこともある。
 僕だったら、すぐに逃げ出してしまうのではなかろうか。

 外国語を聞きながら訳すという同時通訳は、”人間離れ”した印象を与えるようで、どうしてできるのかと聞かれることがある。私は、とりあえず、右手と左手が同時に違う動きをするピアノを弾くようなものではないかと答えている。他の技術と同じように、訓練と実践でできるようになる。スピーカーの言うことがよく分かり、言葉がどんどんと出てくる時は気持ちがいい。だが、集中力を要するので、近くで鉛筆一本落ちても一瞬そちらに気が逸れてしまい、「ここはどこ? 私は誰?」状態に陥る。直前まで聞いていたことも、自分の言った事も忘れてしまう。瞬間健忘症みたいになるのだ。同通は聞きながら、しゃべっているので、もうそれだけで頭はパンパンで雑念の余地はない。
 だが不思議なことに、自分を抹殺しているかのような状態なのに、自我というのか何と呼んでいいか分からないが、こうした状況を見ている自分はいる。


 中には、同時通訳をしながら、わからない単語を辞書で引く人もいるそうです。
 僕などは、英語で喋っているのを聞いて、それをしばらく頭の中で整理して、理解するだけでも(っていうか、理解できない場合が多いのですが)、数分くらいかかってしまうのに……
 それこそ、ピアノで右手と左手が違う動きをするのと同じように、いくつかのことを並行して行なうトレーニングを積み重ねているのでしょうね。


 現場での同時通訳者の仕事は、こんな感じのようです。

 会議が半日(3時間から4時間)の場合は通訳者が2人、1日(休憩含む8時間まで)の場合は3人で組まれることが多い。会場に同時通訳ブースが既存で備えられていない場合は、小さな小屋のような簡易ブースが設置される。
 通訳者が3人態勢の場合でも、ブース内に入るのは2人である。2人入るのは交替をスムーズに行ない、担当通訳者に緊急事態が発生しても業務に支障がないようにするため(厳しい咳き込みや倒れるなんてころもありうる)、また、互いにヘルプをするためである。同通を交替でやるのは、ひとりの集中力には限界があるからで、内容によるが以前は15分から20分くらいで交替していたが、最近は10分から15分くらいで替わることが多い。そのためストップウォッチは必需品である。また、何をヘルプするかというと、たとえば、スピーカーが数字を使った場合、一般に隣のパートナー通訳がメモを取ることになっている。同通はスピーカーの話を数秒遅れで追っかけていくので、それ自体に意味のない、数字の羅列は覚えられない。日本語と単位が異なるところも厄介である。その他、担当者が困っていそうな単語も、パートナーが分かっていたり、即座に調べたりいて、適宜メモを渡す。しかし、このメモ取り自体、容易ではなく、相手が必要とする情報を的確なタイミングで出せるようになるには、相当の修練がいる。
 私も、これまで的確なメモを回してもらって助かったことが何度もある。


 ものすごい集中力を要する仕事なので、10分から15分しか続けてやれない、というのはよくわかります。
 僕も交替しながらやるというのは聞いたことがあったのですが、自分が担当していない時間は、リラックスして頭を休めているのだとばかり思っていました。
 ところが、その間も、慣れが必要なフォローのメモ取りをしているとは。


 「通訳」というのは、基本的には「お互いが言葉のやりとりをするための道具」のような存在で、誤訳などのときには責任が問われることはあるけど……という存在だと僕は思っていました。
 ところが、著者が出席した「戦争と通訳者」という2015年に立教大学で行なわれたシンポジウムで、武田教授がこんな「通訳者の受難」を紹介していたそうです。

 武田氏の話をまとめると、第2次世界大戦では通訳者(台湾・朝鮮出身者、日系アメリカ・カナダ人も含む)も戦犯として起訴された。信じられないことに死刑になった人もいる。起訴・有罪の理由は、捕虜・現地住民の虐待・拷問・殺傷、通訳しなかった(捕虜の発言を上官に伝えなかった)、虐待や拷問をしていた部署に所属していたなどである。「上官の命令で通訳しただけ」は通じなかったのだ。また、一般に通訳は「黒子」に思われているが、戦争の場では、直接捕虜に接し、上官の「悪魔の言葉」を伝えるため、「可視性」があるのだという。戦争時の通訳は、諜報・情報、プロパガンダ、捕虜の対応、休戦交渉、占領、戦犯裁判などにおいて、きわめて重要な役割を担う。と同時に大きなリスクも負う。複数の言語を解することで、敵からも味方からも信用されず、スパイ、裏切り者の烙印を押されがちである。
 ちなみに、ヒトラーの通訳をしていたパウル・シュミットは「自分は、ただ通訳をしていただけ」と主張し、戦犯として起訴されることはなかった。一方、ナチスの親衛隊で、「アウシュビッツの会計係」といわれたオスカー・グレーニング被告(94歳)の裁判が2015年に行なわれたが、「自分は収容者の財産を記録し、没収に関わっただけで、虐殺には直接関与していない。すべて上官の命令に従っただけだ」と主張したが、有罪となった。

 日本のB・C級戦犯の裁判は、海外の旧植民地(45か所)で行なわれ、5700件中4403人が有罪となった。そのうち、台湾人は190人で全体の4.3%にあたる。これに朝鮮半島出身者148人が続く。台湾は戦後主権を回復しているので、台湾人は理論的にも法的にも「日本人」ではないにもかかわらず、戦犯として裁かれた。さらに190人中21人が死刑、うち11人は通訳者だった。多くは暴力行為に直接関与したというより、捕虜への尋問に関わっていたにすぎない。インド洋のカーニコバル島のような遠い南洋の島でも、戦後戻ってきたイギリスによって、台湾人通訳者が1人処刑された。


 なんで通訳がそんな目に……と、これを読むと思うのです。
 戦時下では、「良心に従って、酷い命令は通訳しない」なんていうのは無理でしょうし。
 でも、現実問題として、「通訳」というのは、言葉が通じない現場の人々の矢面に立つ存在であることも確かなんですよね。
 サッカー男子日本代表のトルシエ監督の通訳だったフローラン・ダバディさんの大きなアクションは、トルシエ監督が乗り移ったかのようでした。
 「通訳していただけ」という理屈はわかっていても、目の前で自分たちに具体的な指示を口にしていた人に「責任はない」と割り切れるかどうかは、なかなか難しい問題ですよね。
 スポーツの通訳ならまだしも、戦争で多くの人が、その口から出された命令で犠牲になっていたとすればなおさら……


 通訳というのは、ものすごくハードで、デリケートな仕事なんだなあ、と思い知らされます。
 有名人に会えたり、収入が高かったりしても、ずっと続けていくのは、かなり消耗しそう。


 国際シンポジウムなどに出席していると、日本語にしてもらっても、わからない話は、やっぱりわからないな、なんて落ちこむことも多いのですけど。


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