琥珀色の戯言

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【読書感想】「道徳自警団」がニッポンを滅ぼす ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
ネット社会が生み出した現代のクレーマーである「道徳自警団」。法律ではなく、道徳的であるか否かでものごとを裁き、テレビ局やラジオ局はもとよりスポンサー企業、雑誌社、ニュースサイトの編集部、市役所や町村役場、著名人や政治家、はては無名の個人にまで電凸、メール、FAX攻撃を容赦なく浴びせる。現在ではそれに恐れをなした有名人が発言を自粛。これこそ現在の日本の「息苦しさ」の正体そのものではないか。本書では具体例をもとに、このやっかいな現代のクレーマーとどう対峙するかの道筋を提示する。


 芸能人の不倫よりも、もっと伝えるべきニュースがマスコミにはあるだろうし、不倫は「不謹慎」「不道徳」ではあるけれども、刑法上の「犯罪」じゃない。
 ネットには些細な悪事や不謹慎な言動を大きく取り上げて、炎上させ、面白半分で他者を社会的に抹殺しようとする人たちがいる。
 僕もたしかに、そこまで大バッシングするようなことかよ、と思うことはたくさんあるのです。
 しかしながら、「立小便なんて、たいしたことじゃない」というのは、それがあくまでも他人事だからであって、自分の家の塀にされたらものすごく迷惑だし、自分の駐車スペースに誰かが間違って停めただけでも、当事者として「どうすればいいんだよ!」って憤りを感じることはあるのです。
 「もっとひどいことをしているやつだっているんだから、そっちを先に責めろよ」っていうのは、理屈としてはわかるけど、納得がいかないのも事実なんですよね。


 著者は政治家の資質と不倫などの倫理観は必ずしもリンクしない、と仰っています。
 たしかに、性的にだらしない有能な政治家というのはたくさんいたし、今もいるのだろうけど、それだって、「プライベートでもちゃんとしていたほうが、良いにきまっている」のも事実なわけで。
 そもそも、他人の不倫を責めて、待機児童を減らすことを訴えていた人が、自分も不倫が強く疑われるような行動を長い間やっていた、というのは、政治家としての資質を疑われても仕方がないと僕は思います。この人は見事に当選なさいましたが。
 むしろ、あれだけバッシングされながらも当選したということに対して、「民意」とか「人気」というのは複雑なものだな、と驚きました。

 現在の日本では、このような本来の意味での防犯や犯罪抑止の自警団ではない自警団が存在する。「道徳的か否か」を善悪の判断基準とし、「不道徳」「不謹慎」と判断した相手を徹底的に攻撃する。攻撃の手段は「電凸」と呼ばれる電話での攻撃(電話突撃)からメール、FAXなどさまざまで、その対象はテレビ局やラジオ局はもとより、そのスポンサー企業、雑誌社、ニュースサイトの編集部、市役所や町村役場、著名人や政治家、はては無名の個人までと幅広い。
 私は現代日本社会に跋扈するこのような人々を「道徳自警団」と名づけた。
 繰り返すが、自警団とは本来、犯罪者の犯罪を抑止したり警戒したりするために存在する。
 つまり、警察力ではカバーし切れない街の治安を、市民が全力で守ろうというのが本来の自警団である。


(中略)


 ところが、「道徳自警団」が制裁や攻撃の対象とするのは犯罪者ではない。「不道徳」「不謹慎」という、本来は犯罪でもなんでもない、価値観の問題で「NO」と決めつけた相手を、まるで犯罪者のように扱って攻撃するところに最大の特徴がある。


(中略)


 あるいは、「道徳自警団」は「不道徳」「不謹慎」にかこつけて、取るに足らない微罪や重箱の隅をつつくような法律違反を指摘し、警察に通報したり、ネット上で騒ぎを大きくしたりすることによって、実際にその相手が警察からお咎めを受けることを狙っている。


 踏切内に侵入してロケをしていた芸能人が大バッシングを受け、書類送検にまで至りましたが、危ないのは事実ではあるものの、常習犯というわけでもなさそうだし、こんなに大事件にしなくても……という感じました。
 ただ、「違法は違法」だし、「子どもが真似したらどうする!」とか言われると、返す言葉はないですよね。
 警察だって、世の中にそういう機運が高まってくれば、動かないわけにはいかない。
 「自警団」の人たちは、そんなに品行方正に生きているのだろうか、とも思うのですが、彼らは「自分たちは常に取り締まる側」であることを確信しているかのようです。


 こういう「ネット世論」を批判する人や本というのは、けっこうたくさんあるんですよ。
 僕もそれを読んで「そうだそうだ!」と思ったり、「でも、不倫は犯罪じゃないって言われても、あんまり好感は抱けないよな、どうしても、自分が配偶者に裏切られた場合を想定してしまうし……」と考え込んだりしていました。
 こういう場合、自分自身が「裏切る側」になることは、あまり想像しないんですよね、不思議なものです。


 この新書が興味深いのは、この「道徳自警団」が生まれた背景について、著者が論じているところなのです。
 「社会に余裕がなくなっている」という、ありきたりな「理由付け」に対して、著者は「余裕」とは何か?と掘り下げていくのです。

 普通、「余裕がある」というと、金銭的な意味合いを指す。年収が1500万円あって、都内に自己所有の不動産を持ち、金融資産が2000万円ある人は「余裕がある」という。対して、「余裕がない」とは、年収が300万円しかなく、借家暮らしで固定資産を持たず、貯蓄ではなく負債過多の場合を指す。
 余裕がある人間は将来にわたってこの余裕が続いていくと感じているから、些細な行為を気にしなくなる。
 些細な行為というのは、近所の野球少年が変化球をキャッチできずに窓ガラスを割ってもすぐに交換でき、電車が遅延しても代替移動手段としてタクシーやハイヤーを使うことができるのでいらだたない、という意味だ。
 金銭的余裕のない人間はそうはいかない。選択肢がないので、小事に対していらだつ。窓ガラスを割られると、修繕費がないので、その少年を殺したくなる。電車が遅れると、ほかに目的地に着く手段がないので、駅員を罵倒する。
 余裕とは、つねに経済状況とリンクしているものだ。その意味で、「社会に余裕がなくなってきている」というのは、「社会全体に金銭的余裕がなくなってきている」という意味と同義である。
 そして、その原因は、むろん日本の長期経済的停滞だ。1997年から日本は本格的なデフレーション期に入り、現在でもデフレは脱却できていない。1997年の名目GDPと2017年のそれはほとんど変わっていない。20年間、日本社会は経済成長を享受していない。これに対して、この間、世界経済は年平均3%ずつ成長した。
 より成長が鈍い先進国にかぎっても、おおむね2%程度の成長をした。日本だけが、20年間ゼロ%成長である。この停滞のせいで、日本人の一人あたりGDPは先進国下位のイタリアやスペインや韓国と変わらなくなっている。絶対的に日本社会は成長しておらず、相対的に日本社会は貧乏になっている。これはまぎれもない事実だ。


 日本経済の停滞が「社会の余裕のなさ」を生み出しているのだと著者は述べているのです。
 いや、金ばかりの話じゃないだろう、バブル期の日本には、かえって「こんなに金のことばかりで良いのか、心の豊かさが必要ではないのか」と悩んだ若者たちがオウム真理教にひきつけられていったのだから、とも僕は思うのです。
 でも、借金を抱えていたり、お金に困っている人の多くが心に余裕をなくして、常にお金のことばかり考えていたり、生きる気力を失っていたりするのを見てきているので、これはたしかに、大きな要因なのではないかという気がします。
 著者は、経済成長がほとんどみられなかった中世に「魔女狩り」が横行したという歴史的事実を指摘しているのです。
 好景気の時代にも「不謹慎」や「不道徳」はたくさん存在しているのだけれど、みんな、自分の経済的繁栄や技術革新のほうが優先順位が高いので、他人のことは二の次になるのだ、とも書かれています。
 安倍政権になって、こんなに株価が上がった、と嬉々として語っている人がいて、給食だけがまともな食事、という子どもたちもいて。
 正直、僕には今の日本経済の「全体像」は、よくわからないのだけれど。


 この本を読みながら、僕は自分のなかにも「道徳自警団」が存在することを感じていたのです。

 海外の国際スポーツ大会で日本人観光客がゴミを持ち帰った、という前述のどうでもいい美談が称賛されているのを聞いて、私はかつての中学校における、この無意味な道徳教育を思い出したのだ。
 日本人サポーターは、選手の応援については相応の見識はあれども、清掃のプロではない。日本人が去ったあと、ゴミがあろうとなかろうと、球場はいったん清掃員によって高圧洗浄機を用いてクリーニングされる。素人が小手先で清掃や理念の真似ごとをしても、あとからプロが上書きするのだから、この行為に合理的意味合いはなく、あるのは自己満足のみである。
 そして、試合場の清掃員や旅館のリネン係はその職務で月給を得ているのだから、仮にセルフ清掃やセルフリネンを完璧に客側がやってしまうと、彼らの雇用を奪うことにつながり、経済に悪影響なのだが、思えば、そんなどうでもいい自己満足の「ちょっといい話」のみが追求され、無謬のものとして少年時代から刷り込まれていた。
 考えてみれば、セルフリネンが有効なのは、「囚人の服務」のひとつとして房内清掃が義務づけられている刑務所のなかだけだ。囚人による房内清掃は国税で賄われている刑務所運営費を削減し、囚人による所内規律を高めるという合理的目的があるのであって、自己満足ではない。いま思えば、他者の職を奪うような中途半端な素人による清掃や整頓に何の意味があるのか、まったくわからない。


 「合理性」を追求すると、こういう考え方になるのか、と理解はできるのです。
 西欧で、「自分の仕事しかしない」のは、怠惰だからではなく、職分を守ることによって、お互いの仕事を奪わないためでもある。
 しかしながら、僕は「セルフ清掃」は、「清掃をする人たちの手間を少しでも省ける」し、「きれいにすることの大切さと大変さ」を知るための良い機会だと思いますし、「自己満足でも、良い気分になれて、他者に迷惑をかけるわけでもない」。
 こういうふうに「合理性」に反発するのが「道徳自警団」なのだと言われたら、ちょっと反論したくもなるのです。
 これから人間の仕事がどんどん人工知能のものになっていくとすれば、たしかに「これ以上、人間の仕事を奪うべきではない」のかなあ。
 

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