琥珀色の戯言

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かんぼつちゃんのきおく ☆☆☆☆

かんぼつちゃんのきおく

かんぼつちゃんのきおく

内容(「BOOK」データベースより)
ダンプカーにも負けない高速でんぐり返し。流行りのアイドルよりSHI・BU・SE・N好み。中島らものDNAがとびきりの好奇心と潤いのある優しさで、光合成した中島さなえの処女エッセイ

有名人の子供であること、というのは、いったいどんな気持ちなのでしょうか?
僕などは昔から、「○○先生の息子さん」と呼ばれるのがイヤでイヤでしょうがなかったのですが、その「○○」が、「あの中島らもさん」だったら、いろんな意味でつらかったのではないかなあ、と考えずにはいられません。
奥様の美代子さんの著書『らも―中島らもとの三十五年』(こちらを御参照ください)では、一般的な「常識」からすると、明らかに「異常」で「不道徳」な環境の「中島家」が描かれていましたし。
このエッセイは、「中島らもの娘」が書いたものですが、さなえさんは、あくまでも、「中島さなえのエッセイ」として書くことを自分に課しているようです。
「ビジネス」として考えれば、「中島らもの遺児が語る、らもさんの思い出」を中心とした内容にしたほうが、はるかに話題にもなったし、売れたはず。
でも、さなえさんはそうしなかった。
その陰には、数々のらもさんの旧友のサポートもあったのではないかと思います。

正直、そんなにすごく面白いわけではないし、驚くようなエピソードが公開されているわけでもありません。
むしろ、「中島らものことは、なるべく書かないようにしよう」という意思すら感じます。
もちろん、父親が「大嫌い」ではなかったのだと思うけど、けっこう複雑な気持ちを抱いていたのではないかな、さなえさんは。
でも、そういうところも含めて、「有名人の子供として生まれて、なんだかどう生きていいのか迷っているけれど、なんとかやってます」という、しなやかさ、したたかさを僕はこのエッセイに感じました。
中島らもと同じ方向性やクオリティ」を求めると失望してしまうのではないかと思いますが、たしかに、「中島らもの遺伝子」は、さなえさんの中にも生きているし、本人も、ようやくそれを素直に受け入れられるくらい年を重ねてきた、ということなのでしょう。

そうそう、このエッセイ集、編集協力に小堀純さんの名前があって、僕は静かに感動していました。
この本が「売るための話題性を追求した、中島らもの娘の暴露本みたいなエッセイ」ではなく、「中島さなえというひとりの女性の自由な視点で描かれたエッセイ」になっているのは、小堀さんのサポートが大きかったのではないかなあ。
そこに、らもさんの親友であった、小堀さんの「友情」を感じずにはいられなかったんですよ、僕の勝手な想像なんですが。

 小学校1年生の頃、さなえさんが町内会の夏祭りで、15、6匹の金魚をすくって家に帰ってきたときのエピソード。

 友達と別れ、新しい相棒たちを抱えて気分上々で家に帰った。家に入ると、ホースで水槽の水を一心不乱に入れかえていた母が振り返り、私の手元を認めると、
「わあ! 金魚たくさんすくえたんだね。でかしたぞ早苗!」
 手放しで誉めてくれた。母は私の持っている金魚が入ったビニール袋を受け取り、一番大きな水槽の中へ勢いよく袋を空けた。
「……え?」
 つぶやくと同時に”ザバアッッッ!”という轟音がして、70センチはあろうかという巨大な古代魚、シルバーアロワナが猛烈な水しぶきをあげながら、私の金魚たちをあっという間にひと呑みにしていった。
「これが”方向性の違い”というやつか」
 私は一歩大人に近づいたような気がした。

こういうのは、子供にとって、どうなんだろう?と僕は考えずにはいられません。
僕が同じことをされたら、トラウマになること間違いなし。

人は、みんな違った環境で生きて、それぞれの価値観を持っている。
そして、「平均的な人生」なんて、どこにもない。

らもさんの話がほとんど書かれていなくても、僕はさなえさんの文章をしばらく読み続けてみようと思っています。

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