琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

「芸術の価値がわかる」という幻想

参考リンク:映画版「ハチミツとクローバー」に学ぶ、安い話の作り方
 実は、『ハチミツとクローバー』の映画を観る前に、↑のエントリを読んでいたのですけど、実際の映画を観ていると、やっぱり、はぐの抽象画も森田の彫刻も全然素晴らしい作品には思えませんでした。はぐの絵を観ながら、作品そのものよりも「あんなデカイ絵をスカンジナビア半島まで送るの大変そうだな」とか、そんなことしか考えられなくて。
そういえば、ドラマ版の『のだめカンタービレ』の第1話でも同じようなことを感じたっけ。参照:http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20061016#p3
まあ、『ハチクロ』の世界って、「はぐと森田は『天才的な芸術家』である」というのが「お約束」になっているのでしょうけど、原作を読んだことがない僕にとっては、正直「奇矯な行動で天才ぶっているだけの人」のようにも思えたんですよね。というか、放火だろあれ。
 しかし、そんなことを考えてはみたものの、「じゃあ、あの劇中の絵や彫刻がどんな作品なら君は満足するのかね?」と問われると、正直悩んでしまうのです。僕は芸術を評価するためのものさしを自分の中に持っているのだろうか?と。
僕はときどき美術展などに行くのですけど(とはいっても、マニアックな常設展などには興味がなく、有名な作品が公開されているものにしか行ってません)、美術展の来場者というのは、基本的に「有名な作品(あるいは、有名な作家の作品)」の前に集中します。もちろん有名な作品というのは「素晴らしい絵」である場合が多いのでしょうけれども、その一方で、僕自身には「この絵はつまんないな」と思って通り過ぎようかと思ったらピカソの習作だという説明を読んであわてて感心しながら見直す、とかいうような経験が何度もあるのです。多くの美術ファンは、絵そのものの価値判断が、何の説明も予備知識もない状態でできるのでしょうか?実際は、絵画鑑賞というのは、「絵そのものを見る」というよりは、「有名な作品を自分の目で観たという優越感」に意味があるのかもしれません。もちろんそういう傾向は、日本だけではないようです。以前、ボストン美術館に行ったときの話なのですが、日本の絵画のコレクションで有名なこの美術館でも、ミレーやモネなどの近代ヨーロッパ絵画のコーナーはすごい人だかりなのに、古代インドや中国、そして日本のコーナーは閑散としていて、すごく寂しい気持ちになりました。観ないんなら日本に返せよ、と言いたくなったくらいです。考えてみれば、ごく一時期のヨーロッパだけに、有史以来の全人類の「芸術的才能」が集中しているはずもないのですが。大部分の観衆にとっては、「有名であること」以上の価値判断を個人的に行うというのは、芸術においては非常に難しいのではないかな、と僕には思えます。タイムが出るわけでもないし、「絵画バトラー」とかで価値の数字が表示されるわけでもないから。絵画にしても、もちろん好き嫌いっていうのはあるのでしょうが、それはあくまでも「有名な作品の中での好み」であることがほとんどですし。僕は以前、ある美術展で「作者を見ないようにして自分好みの作品を選ぶ」という実験をしたことがあるのですが、そこで選んだもののほとんどは、あまり有名な画家の作品ではありませんでした。もちろん、集まっている人の数や「飾られかた」などの情報を完全に遮断することはできないのですが、どんなに素晴らしい作品でも万人ウケするってわけでもないのです。そもそも、宗教関係が題材の作品などは、当時の人々と現代の日本人とでは「見方」そのものが違うでしょうし。

 例のごとくかなり脱線した話になってきましたが、『ハチクロ』の映画にとっては、はぐや森田の劇中での「作品」にいくらこだわってみたところで、多くの観客には「わからない」のではないかと僕は思います。「無名の芸術家の作品」って、無名だというだけで、すでに厳しい状況に置かれているのです。誰か有名な芸術家の作品を使っていて、それを声高にアナウンスしていれば、作品そのものに観客は感心してくれるかもしれませんが、それだと「はぐや森田の作品じゃない」ってことになってしまいますから、結局のところ、「2人の作った作品で語らせる」というのは難しく、「2人は天才で、あれはすばらしい作品ってところまではこの映画の『お約束』だからみんなよろしく」というふうにならざるを得ないのではないかと。
 そういえば『タイタニック』に出てくる宝石もショボかったけど、あれもひとつの「記号」でしかなかったのでしょうね。あの映画の場合、現代の場面が必要だったかどうかも、僕はちょっと疑問だったんですけど。

 最後に余談なのですが『プライベート・ライアン』の話なのですが、あの場面に僕はものすごい「意味」があると思うのです。「忘れちゃっていい顔」の羅列は、忘れられるためにあるのですから。
 観客はあの人々の顔を自分が「忘れてしまっていること」にふと気づいたとき、「自分という人間の忘れっぽさ、薄情さ」に愕然とするのです。そして、それこそがまさにスピルバーグの「主張」なのだと僕は感じます。

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