琥珀色の戯言

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しがみつかない生き方―「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール ☆☆☆☆


内容(「BOOK」データベースより)
平凡で穏やかに暮らせる「ふつうの幸せ」こそ最大の幸福だと、今、人々はやっと気がついた。雇用、医療、介護など社会のセーフティネットは重要だけれど、自分の外に求めるだけでは、人生はいつまでも満たされない。「ふつうの幸せ」を手に入れるには、「私が私が」という自慢競争をやめること。お金、恋愛、子どもにしがみつかないこと。物事の曖昧さ、ムダ、非効率を楽しむこと。そして他人の弱さを受け入れること―脱ひとり勝ち時代の生き方のルールを精神科医が提案。

勝間和代>を目指さない。

とにかく、オビの↑のキャッチコピーが素晴らしい!
個人的には、現時点での「ベスト・オブ・新書キャッチコピー」だと思います。

 若い頃からずっと『ファミ通』に寄稿したり、雑誌にコラムを書いたり、テレビに出たりして、『臨床経験もまだ少ないはずなのに、若くてそこそこ綺麗で精神科医という肩書きを濫用してメディアで目立とうとしまくっている人」、最近では、五木寛之さんなどの「御年配作家の偏見に満ちたお話に適当に相槌をうつだけで、印税をガンガン稼いでいる人」というイメージが僕には強い香山リカさんなのですが、この本は比較的素直に読むことができました。

内容的には、まさにこの「<勝間和代>を目指さないことによって、自分なりの幸せを得られるのではないか?」という「気の持ちようで、幸せになれますよ本」(または、『鏡の法則』本)なのですが、「ひたすら『幸福になるための献身的な努力』を読者に求めるわけでもなく、「にんげんだもの」的な安っぽいヒューマニズムを語るわけでもなく、比較的フラットな立場で書かれているんですよね、これ。
採り上げられている例も具体的で身近なものが多いし、頑張りすぎることに疲れた人にとっては、ちょっとした気休めにはなるのではないでしょうか。
「ああ、そんなに青筋立てて頑張らなくてもいいんだよな」って。

 また、2009年になって発刊された勝間氏のベストセラーのひとつに『断る力』があるが、この本では「実に次々と依頼が来ます」という勝間氏への凄まじい”依頼攻勢”の一端が明らかにされている。一週間平均で、実に講演依頼が20、マスコミからの取材要望が15。この中から勝間氏は2つか3つのみを選んでそれに全力を投入し、残りの8、9割は断ることにしているという。こうやって絞りに絞って「お話をいただいた時から、強く私の方もコミットをして、時間を確保し、集中して関与するように」することで、結果的には雑誌であれば「通常の週の30パーセント増し」の売上を記録したり、「おかげさまで、チームが社内表彰を受け」たりすることになる。自慢話か、といった批判を覚悟で勝間氏は、「とにかく伝えたいのは、断る力の威力」だと言うのだ。
 しかし、世の中には、殺到する依頼を勇気を出して断ろうにも、そもそも依頼じたいが来ない、という人のほうが多いのではないだろうか。

 うんうんうん、この部分なんて、頷きすぎて、頚椎がズレそうになりましたよ僕は。

 いまの世の中、殺到する依頼の処理に困る人と、依頼がないことで不安になる人と、いったいどっちが多いのだろうか。確実な数字があるわけではないが、どう考えてもそれは後者なのではないか。しかも、それはいまに限ったことではない。1965年に出版された詩人・金子光晴の『絶望の精神史』の冒頭には、こうある。

 手近にひろいあげてみても、僕らの身辺に絶望者はこと欠かない。出世から見放された人、事業に失敗して、一生かかっても、とてもつぐないきれない借財を背負った人、失恋者、不治の病で、再起の見込みの立たないことを自覚した人、この世のすべてのものに信頼できなくなった人、よりどころになっていたものを失ったり、たよりにしていたパトロンに死なれたりして、生きてゆくファイトのなくなった人、そんな人はいっぱいころがっている。

 東京オリンピックの翌年”日本がいちばん元気だった頃”などと言われるその時代にも、このように絶望にとりつかれた人は大勢いたのである。金子は、「人間に死のあること」がそもそもの絶望の本質であるとしながらも、日本の場合はとくに「近代百年の夢の挫折」という特殊な体験を経て「絶望の風土」が形成された、との独自の説を展開するのである。日本が「絶望の風土」なのかの議論はさておき、いずれにしても「絶望する人」は昔もいまも決して特殊な存在ではないということだ。
 こうやって考えてくると、殺到する依頼を断ったりその中からひとつを選んだりする「断る力」を必要としている人が、はたしていまの日本にどれほどいるのだろうか。人々が本当に必要としているのは、”誰からも依頼がない”といったときに自信を喪失したり自暴自棄になったりせずに、静かに孤独や絶望に「耐える力」のほうだと言えるのではないだろうか。あるいは、幸いにして「断る力」を動員しなければならないような状況にある人も、自らへの依頼や要望をいかに効率よくさばくかに頭を悩ますより、運悪く孤独や絶望の淵に立たされている人の「耐える力」がどうすれば高まるかを考えるべきなのではないだろうか。

 ただ、依頼や要望を選べる立場にある人が「選びようにも依頼が来なくて、自分は無価値だと絶望する人がいる」ということを認めるのは、意外なほどむずかしい。それは、先に述べたように「否認」という心の防衛のメカニズムが働くからだ。依頼のない人、思ったように活躍できない人とは、いったいどういう人なのか。勝間ファンであれば、それは「妬む、怒る、愚痴る」の”三毒”にどっぷり浸かっている人だ、と言うかもしれない。
 しかし、病院での経験から私が気づいたように、人生が思い通りに展開していない人の多くは、努力が足りないわけでなくて病気になったり勤めた会社が倒産したり、という”不運な人”なのだ。たとえ、努力不足や挫折が失敗の原因だったとしても、丹念にその人生を振り返ると、そもそも家庭環境などに恵まれず、努力しようにもできる状態になかった、という場合が多い。そして、依頼殺到の人気者の側にいるか、誰からも相手にされない絶望や孤独の側にいるかは、本当に”紙一重”だと私は思う。
 それなのに、いくら成功者でも、というより成功者であればあるほど、「私がいまあるのは幸運と偶然の結果であって、一歩間違えれば、私も病気になったり家族に虐待されたりしていま頃孤独な失敗者だったかもしれない」と思えなくなるのだ。

 ほんと、僕もいまの時代に生き延びるのに必要なのは「断る力」じゃなくて、「耐える力」だと思います。
 よほどの特別な才能や資格を持っている人以外は、「仕事を選り好みできる」立場にはなれないし、むしろ、「人の嫌がる仕事を気持ちよくこなせるトレーニング」のほうが、はるかに「生き抜くためには有益」です。
 そして、『断る力』を読んでその気になっている「カツマー」たちの大部分は、あの本を「自分がやりたくない仕事をやらないための口実にしているだけなのに、勝間和代の教えを実践していると思い込んでいる」だけなのではないかなあ。
 そもそも、あれだけ勝間さんの本が売れていて、「尊敬している」という人がいるわりには、その「カツマー」たちが実際に社会で活躍しているという話は、そんなに耳にしませんし。
 勝間さんの本の読者の大部分は、「著書を読んで、自分も勝間和代になれたような気分になって、それでおしまい」なのでは……
 あの「リーマン・ショック」の前に、大声で『お金は銀行に預けるな』と煽っていた人なのに、なぜ、みんな信じ続けられるのだろう?

 僕は「妬む、怒る、愚痴る」の”三毒”にどっぷり浸かっている人間なのですが、最近の勝間さんって、そういう無理矢理なポジティブシンキングで、自分と信者を正当化しているようにしか思えないんですよ。

 おお、なんか「勝間和代バッシング」みたいな内容になってしまいましたが、この香山さんの本には、勝間さんへの批判ばかりが書いてあるわけではないので誤解なきよう。

 たしかに、病院で働いていると、「人生なんて、ちょっとしたきっかけで、どうしようもなくなっていくものなのだよなあ」と考えさせられます。
 自分自身の病気だけじゃなくて、「子供の病気」とか「親の介護」で、自分のいろんな可能性を諦めなければならなくなった人って、本当にたくさんいるから。


……でも、「目指すな」って言われても、ついつい明るいほうに引き寄せられるんだよなあ、人間ってのは……

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