琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

争うは本意ならねど ☆☆☆☆☆


世界が注目したドーピング裁判の真実が、いま明かされる!


一通の手紙が、我那覇のもとに届いた……。
彼は、なぜ立ち上がったのか?


2007年5月、サッカーJリーグ川崎フロンターレ所属の我那覇和樹選手が、
ドーピング禁止規程違反として6試合出場禁止、チームは罰金1000万円の制裁を受けた。風邪で発熱、脱水状態で治療を受けただけなのに……。
そんな我那覇のもとに、一通の手紙が届いた──。


ベストセラー『オシムの言葉』の著者が
4年にわたる取材を経て読者に贈る渾身のノンフィクション!
自らの手で無罪を証明した我那覇和樹選手と、
組織の枠を超えて彼を支えた人々の、勇気と友情の物語。

我那覇和樹選手の名前を聞いて、「ああ、あの選手か」と思いだせる人は、どのくらいいるのでしょうか?
サッカーファンはほとんどの人が知っていると思われますが、そうじゃない人は「それ、誰?」という感じかもしれません。
「ドーピングをした人」(そして、それが冤罪だと証明した人)だと認識している人もいるんじゃないかな。


「サッカーは日本代表の動向くらいにしか興味がない」僕は、この本を手に取るまで、我那覇選手のことをすっかり忘れていました。
「ああ、そういえば、そんな珍しい名前のドーピング疑惑で騒がれていた選手がいたな」くらいのものです。


この本は、関係者に綿密に取材して木村さんが書き上げた、「ドーピング冤罪」についての詳細な経緯が詰まっています。
「そうは言っても、火のないところに煙は立たないのでは……」なんて、つい考えてしまっていた自分が恥ずかしくなりました。


那覇選手は2007年に川崎フロンターレに所属していた際、発熱・下痢・脱水などの症状で、練習後、「一般的かつ正当な医療行為」としてチームドクターから生理食塩水200㏄とビタミンB1入りの点滴を受けました。
ところが、それが「にんにく注射」だと、取材もしていなかった記者に誤報され、それがきっかけで、我那覇選手は「ドーピングによる処分」を受けてしまったのです。
僕は内心「そんなに体調悪いのなら、練習しなきゃいいのに……」とも思ったのですが、スポーツ、とくにプロスポーツの世界では「練習を休むと、自分のポジションが奪われる」という危機感が強く、実際に、「ちょっとした怪我で1試合だけ休んだ」ことがきっかけで、他の選手にレギュラーを奪われてしまうケースも少なくないそうです。
医者としては、「それは危険ではないのか」と思うけれども、トップレベルの選手たちは、そこまで自分を追いこんでいるというのが「この世界の現実」。


この本では、その詳しい経緯と、「事実」が判明したあとも、自分たちの面子にこだわり、我那覇選手の名誉を傷つける「裁定」を取り消そうとしないJリーグの幹部たちの姿が、赤裸々に書かれています。
彼らは「自分たちの誤りを認めるくらいなら、ひとりの選手が『ドーピングを行った』という大きな屈辱を抱えて生きていくことくらい、たいしたことではない」と考える人々でした。

 会議が終わった後、青木がFIFAの医事委員から送られてきたというメールを見てほしいと言って仁賀を自分のテーブルに呼んだ。以前青木は浦和レッズのドクターを務めていたので、仁賀とは旧知の間柄であり、二人とも議論は議論として付き合える仲だった。
 青木が見せたメールの英文を読んだ仁賀は驚いた。そこには軽微な違反と考えると書いてあり、続けて厳重注意処分でいいのではないかと書いてあったからである。
 仁賀は青木に言った。
「先生、厳重注意処分でいいのではと書いてあるじゃないですか。どうしてドーピング違反にしたんですか?」
青木「いやあ、マスコミが騒いじゃったからさ〜」
 耳を疑うとはこのことであった。
 事情聴取の前にマスコミにドーピング違反の疑いがあると騒いだのはJリーグ自身ではないか。そして、一度マスコミが騒いだら無実の選手がドーピング違反になるのか?


那覇選手に対する治療が、「ドーピングよばわり」されてしまったことは、あまりにも大きな影響を与えてしまったのです。

 日本代表合宿でも同様のことは起こった。
 某代表選手が合宿中に風邪の症状を訴えた。我那覇の症状よりも軽かったために、代表の医師はあえて点滴をしなかった。この選手が体調を崩しチームに戻って血液検査を受けると、白血球が1万以上(通常は4000〜9000)に増加しており、CT検査をしたところ肺炎を起こしていた。当然ながらその後の病状の改善には長い時間を要すことになった。これも、軽症時に速やかに抗生物質を含む点滴治療を行っていれば、事なきを得た可能性があった。
 代表合宿後、リーグ戦の中でも緊張は走った。
 中2日の公式戦が続いていた頃、あるチームに下痢で食事ができない選手が出たが、ドクターは点滴ができないのでひたすら我慢をしてくれと頼むしかなかった。その結果、実際に何人もの選手が脱水を起こした。
 多くの問題が、Jリーグ見解が発信されてからたった2ヶ月の間に各地で起こっていた。

これほど、各チームは「萎縮」してしまったのです。
スポーツ界の維持・発展のためには、ドーピングに対して厳しくあたるのは、当然のことです。
だからといって、「その人の命や選手生命を左右するような状況ですら、迅速な処置をすることが許されない」というのは、大きな問題です。


そんななか、Jリーグ各チームのチームドクターたちが立ち上がり、闘いをはじめます。
そもそも、「禁止薬物ではない点滴を、病気の選手に使用する」というのは、「世界基準」で許されている行為です。
この本のなかで、木村さんが紹介している海外のドーピング規定をみても、それは明白なこと。
ところが、「裁定」は、なかなか覆りませんでした。
なぜなら、Jリーグの上層部は「正義」を求めていたのではなかったから。
「正しさ」を求めている人は「説得」できるけれど、「自分の面子を守ること」だけを考えている人を「説得」することは困難です。


僕が信じられなかったのは、我那覇選手が所属していた川崎フロンターレが、チームとして、「事なかれ主義」に徹しようとしていたことでした。
むしろ、他のJチームのほうが、我那覇選手を支援しようとしていたくらいだったのです。
チームの「ここで事を荒立てては、かえって厳しい判決が出て、選手生命を失うようなことになってしまう」という懐柔を受け、自分が置かれている状況も理解できていなかった我那覇選手は、一度は処分をそのまま受けいれ、「ドーピング選手」の汚名を受けながらもチームのために頑張ろうとしていました。


そんな我那覇選手に「事実」を知らせ、その気持ちを揺り動かした浦和レッズのチームドクター・仁賀先生の手紙を読んで、僕も心を揺さぶられました。

「今我那覇選手はサッカーの世界で、試合に出られるかどうか、試合で結果を出せるかどうかにしのぎを削ることに日々精一杯努力していることを、私もチームドクターですからよく分かります。そして今我那覇選手の周囲で我那覇選手をドーピング違反で咎める人もいないと思います。しかし、将来選手を引退して、何か仕事を始めた時、初めて会う人に必ず『あのドーピング違反の我那覇選手ですね』と言われるのが、私たちには本当にいたたまれないことです。我那覇選手に一生ドーピング違反の罪を背負わせるわけにはいきません。そして、この間違った前例が残ると今後全てのスポーツ選手が適切な点滴処置を受ける際に常に「ドーピング違反に後で問われるかもしれないという恐怖にさらされます」

那覇選手は、闘いました。
チームドクターをはじめとするドーピングの専門家たち、弁護士、Jリーグの選手たち、川崎フロンターレのサポーター、そして、多くのサッカーファン、我那覇選手の地元・沖縄の人たちも、我那覇選手の名誉を取り戻し、未来の選手たちが適切な治療を受けられるように、ともに闘ったのです。


Jリーグ側のかなり横暴な求めに応じて、この問題は、国際オリンピック委員会によって設立された、スポーツ仲裁裁判所(スポーツちゅうさいさいばんしょ、CAS: Court of Arbitration for Sport)に持ち込まれることになりました。
英語でやりとりをしなければならないこと、数千万円にものぼる費用(これはすべて自己負担で、勝訴しても自分で払わなければなりません)などの壁にもめげず、我那覇選手たちは、闘いぬいたのです。
こんな「小学生でも、どちらが正しいかわかりそうな裁定」のために。


仁賀先生は、この裁判の際に、弁護士のひとりに、「どうしてここまで頑張るんだ? 何の得にもならないだろう。何か理由があるのか?」と尋ねられたそうです。
だって、「親会社」を訴えるような裁判だし、仁賀先生の立場であれば、「こんなサッカー界とは関わらずに、医者として食べていく」ことは、難しくないはずだから。


仁賀先生の答えは、こうでした。

「僕たちは選手の病気や怪我を治すのが目的でチームドクターをしているんじゃないんです。選手たちがサッカーをして少しでも幸せな人生を送れるよう、そのために治療をしているんです。だから医者が治療をした結果、そのために選手がドーピング違反で不幸になるなんてあってはならないんです。僕はどうしても我那覇をクロのままにはしておけません。我那覇が自分のチームの選手でなくても、僕にとっては自分が治療したのと同じことなんです」


ただ、僕はこの話を「美談」にしてはいけないとも思うのです。
那覇選手は、この事件の前までは、日本代表として期待される選手だったのに、これ以降、選手としては成績を残せていません。
「どんな苦境にあっても、立ち上がれる人はいる」のかもしれません。
でも、「旬」みたいなものを活かせたかどうかで、その後の人生が大きく変わってしまった人を、僕は何人も知っています。
「チャンスの女神には後ろ髪がない」と言いますが、あの事件は、結果的に、我那覇選手から、サッカー選手としての「決定的なチャンス」を奪ってしまったのではないかと。
「潔白」は証明されても、我那覇選手が失ってしまったもののなかには、もう二度と取り戻せないものがある。


この本の最後のほうで、仁賀先生の、こんな言葉が紹介されています。

 仁賀ドクターはある記者から「いずれにしてもこの事件はドクターたちにとってもドーピング規程のことを学べる良い機会になったのではないですか?」と言われて、「我々はこんな事件がなくてもドーピング規程を学べるし、何か学んだとしてもそれがこの事件のおかげだとは絶対に言わない」と応えている。それは「戦争から学んだなどといったら戦争が必要になってしまう」と言ったオシムの、悪しき経験主義を排する考えに通じる。

僕も、我那覇選手やチームドクター、そしてサッカーを愛する人たちの、この「無私の闘い」をひとりでも多くの人に知っていただきたいと思いながら、このエントリを書きました。
もう、二度とこんな悲しいことを起こさないように。
「システム」が、罪のない人を叩き潰すことに、「自分には関係ないから」と、みんなが無頓着にならないように。

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