琥珀色の戯言

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【読書感想】クラクラ日記 ☆☆☆☆


クラクラ日記 (ちくま文庫)

クラクラ日記 (ちくま文庫)

Wikipediaによる「概要」)
 1955年(昭和30年)2月17日の安吾の没後、銀座で「クラクラ」(命名獅子文六)という文壇バーを営んでいた三千代が、安吾との出逢いからその突然の死までの自らとの恋愛・結婚生活を描いた自伝的小説風エッセイである。1967年、文藝春秋から出版される。その後、潮文庫に収録され(1973年)、現在はちくま文庫から刊行されている。
作中、安吾が新作の自著短篇小説『青鬼の褌を洗う女』の掲載された雑誌を三千代に差し出し、主人公は三千代がモデルであることを安吾が示唆する場面がある[1]。掲載誌の発行日(1947年10月5日)から、1947年10月初旬のできごとである。同年、安吾と三千代は正式に結婚する。

『クラクラ日記』といえば、『ビブリア古書堂の事件手帖』のことに触れずにはいられません。
これが「物語の鍵を握る本」であり、「栞子さんが大切にしている本」であるということが、繰り返し語られているので。
僕も最初は、『ビブリア』の隠された謎云々を探るつもりで読んでいたのですが、途中でそんなことはどうでもよくなったしまったほど、この『クラクラ日記』は面白かったのです。
著者はプロの作家じゃない分だけ、「まとまらないものを、まとまらないまま」書いていて、しかもそれが全体としては「ああ、人間ってこういうものなんだな」と、ひとつの「人格」が立ち上がってくるように思われるのです。

 大体において彼は豪放、無頼、細かいことはどうでもよくて、好き勝手なことをしているような印象を人に与えがちであったが、それもうそではないが、実際には大変に女性的な面も強い人だ。大変に几帳面だ。秩序や規律に対する愛情も人一倍強い人だ。ただその秩序や規律が、彼の流儀の秩序や規律なのだ。
 それにひきかえ私は、毎日のきまった仕事というものが全然出来ない。判でおしたようにきまった時間に起き、きまった時間に散歩をし、きまった時間にねむり、身の廻りのものはいつも同じ所に同じ格好でおかれているということが出来る人がいる。そういう人は散歩の道すじできまった人に逢い、きまった経験を毎日、同じように繰りかえす。だから、少しでもいつもと違う条件に出逢えば必ず気付くはずで、こういう人こそ探偵の素質をそなえている人で、私などはだから、絶対に根本的に探偵の素質はないものと思う。けれども、とりようでは、こういう毎日寸分たがわずきまったことの出来る人というのは、気狂いの素質ではなかろうかと思う。毎日同じであるべきはずのものが、一つ一つ異なって出現すればそういう人にとっては見逃すことの出来ない出来ごととして、神経にひっかかってくるのは当然であるからだ。だからどちらかといえばこういう几帳面な人は整頓マニア、気狂い素質というべきだろうと思う。
 私のように何一つきまったことはできないで、外部から強制されないかぎりはあるべきところにものがあったためしがない。自分のものとなると、誰にも文句をいわれるワケではないから、なおさらだ。何がどこにあるのやら見当がつかなくなってしまうのだ。

美千代さんは、安吾さんといわば「共依存」の関係なのだけれど、「割れ鍋に綴じ蓋」というか「テトリスの直線ブロック」とでもいうか、この三千代さんがいたからこそ、坂口安吾はあれだけの仕事を遺せたのだなあ、と。
けっして「良妻賢母」だとは言いがたいんですよ、三千代さん。
そもそも、安吾と再婚するときに、前の夫との子供を実家に預けて安吾のところに行っているし、安吾の病気の「医学的な治療」にもそんなに積極的ではなかったみたいだし。


なんだか、読んでいて、坂口安吾中島らも、三千代さん=中島美代子さん、というイメージが、ずっと僕の頭のなかにありました。
らもさんは、坂口安吾に比べたら、はるかに「常識人」だったとは思うのですけど。
無理やりにでも病院で治療しておけば……というのと、それでは「坂口安吾らしさ」は失われてしまったかもしれないな、というのと。


僕はもともと日記が好きで、筒井康隆さんや大槻ケンヂさんの日記は何度もくり返して読んでいるのだけれど(『ユリアンのイゼルローン日記』なんてのも好きです。『銀河英雄伝説』には、駅のキヨスクで偶然買った、『イゼルローン日記』から入ったくらいに)、これもまたお気に入り日記のひとつになりました。


坂口安吾堕落論』より。

 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

自ら「堕ちきる」ことを実践しようとした男と、現実世界に彼をつなぎ止めようとした女。
でもね、なんかこの『クラクラ日記』妙に明るいんですよね。
西村賢太作品になっていてもおかしくないような内容なのに。
修羅場にも、日常っていうのがあって、みんなそれなりに幸せに暮らしているのだな、と。


坂口安吾の晩年、美千代さんとこんなやりとりがあったそうです。

 彼はよくお酒も飲んだ。ジンやウイスキーならば、一度に一本の半分、お客があると一日で一本、開けてしまったりする。
「体をこわして死んでしまう」と私がいうと「長生きする気はないよ」と答えるのはつねだ。
「あと私は困るわ」
「大丈夫だよ、おまえには生活力があるよ」
 という返事だった。
 私はふりかえってみて、生活力などがあるようには思えなかった。私は自分の手でお金をもうけて生活したことはなかった。
「なにも出来ないヮ。早速路頭に迷うでしょう」
「いいや、オレの女房だといえば生きて行けるよ」
 何故、彼の女房だといえば生きて行けるのか、不思議だった。印税が入るからだろうか。そして今は、その言葉の意味がよくわかっている。私は、坂口安吾の女房だというだけで、世間からたくさんの恩恵を受けとっているからだ。
 私は自分の中に生活力がないわけではないと悟って、彼の予言は的中したと思う。ただ追いつめられないと何もしないなまけもので、このほうも彼はよく知っていたに違いない。

 この「オレの女房だといえば生きて行けるよ」という言葉が、僕はなんだかすごく心に残ったんですよね。
 二人の間の「信頼感」みたいなものがすごく伝わってくるやりとりだと思います。
 僕は、自分の妻に、こんなふうに言えるだろうか?


共依存」というのもまた、人と人とがつながる「かたち」のひとつなのかな、なんて、ちょっと考えてしまいました。
結局『ビブリア古書堂』との関連は、いまの時点ではよくわからなかったんですけどね。
ちょっと前の話(太平洋戦争後〜昭和30年くらいまで)なのですが、すごく読みやすい本です。
坂口安吾もまた「堕ちきれなかった男」なのかな、などと、あれこれ考えてしまいました。

 クラクラというのは野雀のことで、フランス語です。そばかすだらけで、いくらでもその辺にいるような平凡なありふれた少女のことをいう綽名だそうです。

「クラクラ」は、「クスリで頭がクラクラ」なのかと思いきや、こんな意味があったんですね。

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