琥珀色の戯言

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【読書感想】標高8000メートルを生き抜く 登山の哲学 ☆☆☆☆



Kindle版もあります。

内容紹介
歩いて宇宙に近い場所へ――
極限に挑むプロ登山家、初の著作!


二度も死にかけた男が、それでも挑戦を続けられるのは何故か? 超高所で生死を分ける「想像」の力とは? 地球上に存在する8000m峰全14座に登頂し、日本人初の“14サミッター"となった著者が、病弱だった少年時代からの歩みを辿りながら、難局を乗り越えるための哲学を明かす。読むだけで息が苦しくなるような迫真のドキュメント!

 山に登って、いったい何になるんだろう?
 わざわさキツイ目にあって、命の危険にもさらされて……

 先日、三浦雄一郎さんが、80歳で「世界最高齢でのエベレスト登頂」の偉業を成し遂げられました。
 僕は朝のワイドショーで、登頂前の三浦さんの様子を観ていたのですが、この本を読んで、「高い所」は厳しい世界なのだということを、あらためて知ることができました。
 やっぱり、テレビのニュースで観られるのは「頂上に向かう直前の短い断片」でしかありませんしね。

 8000メートルを超える高所は、“死の地帯”と呼ばれることがあります。酸素の量は平地の約3分の1しかなく、そこにはまったく生命感がありません、生き物がいること自体が、とても不思議な場所なのです。
 頂上に到達する手前というのは、五歩登ってはゼィゼィ、ハァハァ、三歩進んではゼィゼィ、ハァハァ、ときには胃からこみ上げるものを吐きながら歩いているのですから、つらくて苦しいばかりです。
 力を振り絞って、重い足を最後に一歩踏み出したとき、そこが頂上です。辿り着いた瞬間、もう先には空しかありません。まず湧いてくるのは、「これ以上登らなくていいんだ」という安堵感です。
 が、長くは続きません。すぐに恐怖感に襲われるのです。「ここにいちゃいけない」という気持ちに追い立てられ、頭の中は「早く帰りたい」という思いでいっぱいになる。喜びや感動にひたっている場合ではないのです。

 なんでこんなキツイことをやる人が、世界中に少なからずいるのだろうか?


……と思いつつも、アウトドアに無縁の人生を歩んできた僕にも、「登山家」への憧れもあるのです。
 でもまあ、誰にでも「登山家」になる可能性というのは、あるのかもしれません。1年前までは自分が走るなんて思ってもみなかった人たちが、ブームに乗ってマラソンをはじめ、42.195kmを完走していくように。
 ちなみに、著者は高校時代に登山部に入ったのがきっかけだったそうです。登山部に入った理由は「どこかの部活に入らなければならない校則があったのだが、どの部にもあまり興味がなく、体育館で手続きするのにいちばん並ばなくてよかったから」。
 人間、何が一生を決めることになるのか、わからないものですね。


 この本を読んでいると、「登山」という行為について、僕の知識はアップデートされていないなあ、とあらためて思い知らされます。
(いまは登頂に成功しても「征服」という言葉を使わなくなった、という話に続いて)

 もう一つ、「アタック」という言葉も奇妙な言葉で、日本ではいまも使われます。これは山頂を目指す最終行程のことで、組織登山では登頂のために選ばれた人のことを「アタックメンバー」と呼びます。
 これも、おかしな表現です。頂上に「攻撃」に行くという意味ですから。でも、古い文献を読むと、「頂上攻撃」と書いてあったりします。登山という文化がイギリスから入ってきた当初は、日本でも「征服」するために「攻撃」するのが山登りだと思われていたのかもしれません。
 イギリスの登山隊が使っていた「アタック」という用語は、いまは外国人クライマーたちも使いません。使っても意味が通じにくくなりつつあります。
 私も、はじめて国際公募隊に参加して外国人とともに登ったときに「アタック」と言ったことがあるのですが、笑われました。でも、もっと驚いたのは、2005年にエベレストに登ったとき。麓にあるティンリーという町で食事をしていたら、イランの登山隊の一人が、「明日、われわれのチームはアサルトだ!」と言い出したことです。アサルトは、「突撃」とか「猛攻撃」とか、そういうときに使う言葉です。周囲にいたクライマーたちは失笑しました。言ったイラン人も、「しまった!」という顔をして、「いや、じつはわれわれは軍人なので……」と、あわてて弁解していました。
 いま、頂上を目指すときに海外の登山家たちが一般的に使う表現は、「サミットプッシュ」です。攻めるのではなく、「自分を頂上まで押し上げる」のです。実際に、ヒマラヤ登山のラストステージは、立ち向かうという勇ましい雰囲気ではなく、一歩、また一歩と、自分の体を少しずつ上に押し上げていく感じなのです。

 もう「アタック」なんて言わないんですね。
 そして、登山家たちは、「山」や「自然」に対する敬意を、人一倍持っていてるのだなあ、と。


 著者は、日本人初の「14サミッター」(世界の8000メートル以上の山をすべて登頂した人の称号)なのですが、著者の前に「14サミッター」に迫った登山家たちのことを、著者はこの本のなかで紹介しています。
 いずれも、優秀な登山家ばかりなのですが、彼らは、いずれも山で命を落としているのです。


 著者自身が遭った事故のことも、冒頭で書かれているのですが、優秀な登山家であれば、いや、優秀な登山家であればこそ、よりリスクの高い山、リスクの高い登り方をめざすのです。
 もちろん、与えられた条件のなかで、最大限の安全は確保し、いざとなったら引き返すという勇気も持って。
 それでも、山から還ってこない登山家もいる。
 

 多くの先人が山で命を落とし、自らも九死に一生を得る体験をしたにもかかわらず、著者は「プロ登山家」としての活動をやめることはありませんでした。
 著者は、こう述べています。

 登山に出発する前に、必ず言われる言葉があります。
「気をつけてくださいね」
 こちらの身を案じてくれる気持ちは、とてもありがたく感じます。でも、「征服」や「攻撃」のために戦争に行くわけじゃない。登山家は、自分が一番好きなことをしたくて山に登るのです。

 あと、「登山家の肉体」について書かれたところはなかなか興味深いものがありました。
 著者は身長180cm、体重65キロ。「山男のイメージを抱いている人の目には、私のような体格は登山家らしくないと映るかもしれません」と述べています。

 とくに私の場合は高所登山ですから、筋肉はむしろできるだけ少ないほうがいい。筋量が増えれば体重が重くなるし、酸素の消費量も多くなる。低酸素の高所では、体についた不要な筋肉は酸素をムダ使いするので、使い道のない荷物を持っていることと変わらない。

 たしかに「山男」といえば、筋肉隆々の大男のイメージがあるのですが、8000メートルを超える山では「自分の筋肉すら負担になる世界」なのです。


 最後に「登山を成功させるための掟」についての、著者の言葉を御紹介しておきます。

 エベレストのルート工作をするのは、自分たちの登山隊だけではありません。世界の最高峰ですから、世界中から登山隊が訪れ、寄ってたかってルートをつくっていく。天候が悪くて進捗が滞る日もあるのがヒマラヤ登山ですが、ルートが延びていくスピードにある程度合わせて先に進んでいかなければ、登山のチャンスはどんどん少なくなってしまいます。


 ところが、私以外のメンバーは高度順化に苦しみ、ルートの進捗になかなか追いつけなかった。結果的に、6人のメンバーのうち4人は登頂できなかったのです。
 私はエベレストの頂上に立ちました。こう言うと、仲間を置き去りにして勝手に先に行ったと思われるかもしれませんが、弱い者に合わせていたら山は登れない。
 学校の遠足やハイキングなどでは、一番弱い人を先頭にするケースもあります。弱い人のペースに合わせれば、チーム全体が弱くなり、結局は登頂という目的を果たせなくなる可能性が高くなる。
 体力の消耗度は、山での行動時間の長さに比例します。のんびり登っていたら、明らかに疲れてしまう。ルートを延ばしていくためには、強い人間が先に立って進まなければなりません。
 一番強い人間が道をつくり、その後を弱い人間が通れるようにする。それが基本的な考え方です。そもそも山の中にいること自体がリスクなのです。一時間かけて登るところを50分で登ることができれば、10分のリスクを減らすことができる。山の中でリスクを減らす方法は、それしかないのです。

 これを読んで、僕は「人間の世界全体」のことを考えてしまいました。
 より高い場所を目指すには、「みんなで仲良く並んで歩く」のではなく、ときには「強い者が頂上を目指し、残りの人間は、頂上を目指す人間が力を発揮できるように後方でサポートする」ほうが、結果的に、チームはより高い場所に到達できるのかもしれません。
 いやまあこれが本当に人間一般にあてはまるのかどうか、あてはめて良いのかどうか、僕も考え込んでしまうのですけど。

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