琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】ラノベのなかの現代日本 ☆☆☆


内容紹介
文芸評論とは無関係ながら、ある一定の世代に黙々と消費され続けるライトノベルの世界。
気がつくと、ラノベ出身作家がメジャーシーンで活躍していたり、作品がハリウッドで映画化されたり。日本文化にもじわじわと影響をもたらしている。
その巨大で寡黙なラノベ作品群だが、
読者層が限られているからこそ、内容の変容をたどっていくと、
日本社会の変化が確実に刻み込まれている。
その変化とはどのようなものなのか。
上の世代との断絶。ポップかライトへ、そしてぼっちへ。むかしオタク、いまはフツー。ドラえもんの来なかったのび太たち。
注目の文芸批評家が読み解く。


僕は「ライトノベル」をほとんど読んだことがないんですよね。
桜庭一樹さんの『GOSICK』くらいかな……「ライトノベルのルーツ」と言われる『ロードス島戦記』は読んでいたのですが、それからの読書はミステリとか歴史モノとか流行小説に向いてしまって、『スレイヤーズ』も全く読んだことがないのです。
別にバカにしていたわけじゃなくて、「ああいう表紙の本は、中高生のオタク向けなんだろうな」と勝手に判断して、興味の対象から外していただけのことです。
かつて、赤川次郎をはじめとする「コバルト文庫」のシリーズを敬遠していたのと同じように。

 ラノベ、という文芸ジャンルがある。正式名称は、ライトノベル。従来の文芸作品全般を「ヘビー」なものと考え、質量ともに「ライト」であることを追求した小説群のことを指す。読者層は主に中高生とされている。しかし、すでに『涼宮ハルヒの憂鬱』のような記念碑的作品の発表が2003年(平成15年)のことだから、平成生まれの世代は、そのほとんどが、何らかのかたちでラノベの影響下に(あるいは、ラノベを意識せざるを得ない状況下に)育ってきたと言えるだろう。
 だが一方で、昭和生まれの世代のほとんどにとって、ラノベはある日突然に降ってわいた「よく分からないジャンル」である。上述した「涼宮ハルヒ」にしても、彼女のキャラクターデザインぐらいは目にすることがあっても、実際に文庫本を手にし、あまつさえページを繰ってみた「大人」がどれくらいいるだろうか。
 つまり、ラノベという文芸ジャンルは、現代日本におけるひとつの「断絶」と意味している。この断絶は、かつてはマンガやアニメによって象徴されていたものだった。しかし、たとえば『ONE PIECE』のような少年マンガは、そのターゲットを全世代に向けているす、『崖の上のポニョ』のような劇場公開アニメは、ディズニー社と手をとりあって全世界をターゲットにしている。そうした中で、あくまでも「小説」としてのラノベを考えるとき、そのターゲットはあまりに限定的だ。なによりも致命的であるのは、ラノベが若者向けの日本語で書かれている、という至極明快な事実である。

僕も最初は「ラノベ」って一時の流行ものなんだろうな、と思っていたんですよ。
ケータイ小説」が、短期間に大ベストセラーを連発したにもかかわらず、あっという間に燃え尽きてしまったように。
ところが、「ラノベ」は安定した勢力を保ち続けています。
ネットをやっていると、20〜30代のラノベ愛好家も少なからずいるのです。
考えてみれば、「マンガ」とか「テレビゲーム」も、初期のメインターゲットは子どもたちでした。
しかしながら、その面白さから「卒業」せずに年を重ねていく人が増えるにつれ、「子どもから大人への、幅広い娯楽」になっていったのです。
僕が子どもだった、そして、ファミコンが発売された30年くらい前って、「大人がファミコンで遊ぶのは恥ずかしい」なんていう雰囲気の時代でしたし。
今となっては、ウソみたいな話なんですけど。
だから、ラノベは、いまのところ「断絶」かもしれないけれど、どんどん一般化してくるのではないか、とも思うのです。


この新書、僕のような「ライトノベルを知らない大人たち」が、いまのライトノベルには、どんなことが書いてあるかを知るためには、けっこう役に立つのではないかと思います。
(ただし、読んだことがないだけに、著者の「読み」が本当に正しいかどうかも、よくわからないのだけれども)。


この本では、ライトノベル側からは『涼宮ハルヒ』や『僕は友達が少ない』などの代表的な作品のが採り上げられ、それに対抗する「ポップ」の側からは、村上龍、春樹のW村上、村上隆アンディ・ウォーホルなどが言及されています。

 かねてより、若者文化の軽さと言えば、「ポップであること」と同義であった。大衆的、あるいは通俗という意味の「ポピュラー」をつづめて「ポップ」。ポップな文化においては、権威はコケにされ、ヒーローは大衆と愛を分かちあうとされた。けれども、これから論じるように、ラノベという現代日本の若者文化は、半世紀ほど前に米国より輸入された、いわば「正しい軽さ」とでも呼ぶべきポップとか、すでに遠くは慣れた地点に成立している。
 2000年代後半から、ラノベの特徴は、ますます「ポップ」から距離を置くものとなった。ラノベは確かに「大衆小説」の一形態であるはずなのに、そこでは、ポップの基本単位となる「大衆」というものが忌避される。身軽でありたいと願う彼らは、基本的に孤独であり、ひとりぼっちだ。ハルヒ以後のラノベにおいて、このような状態は「ぼっち」と呼ばれる。


 著者は「ポップ」と「ぼっち」、「ノスタルジア」と「ノストフォビア(故郷や過去に対する嫌悪)」を対比させながら、それ以前と、平成以降の「ラノベ世代」を語ろうとしていきます。
 それは興味深い試みではあるのと同時に、僕のなかでは「でも、『ぼっち』とか『ノストフォビア』的なものって、昔から文学の題材としてはメジャーなものだったのではないかなあ、結局のところ、文体の違いだけじゃないのか?」という気もするんですよね。
 ライトノベルに疎い僕の、思い込みなのかもしれませんが……

 そもそも、ライトノベルの世界にあって、いつまでも変わらないでいることは主要なテーマであった。青少年はすべからく成長すべしという「大人」の側の教えを金科玉条とした、従来のジュブナイル小説とも異なるラノベは、90年代より、同世代の社会学者である宮台真司がいうところの「終わりなき日常」を地で行く物語を好み、それを量産してきた。
 だが一方では、ハルヒ以後のラノベには、「終わりなき日常」がいつか終わるということを意識した「ぼっち」たちが溢れるようになった。「自分が変わらずにいても、世界は、周囲は変わっていく」という八幡青年の感覚は、まさにその「ぼっち」的日常の不安定さを物語っている。
 そして、「なぜに人はノスタルジーに惹かれるのだろうか」と自問する八幡青年は、変化することに怯える旧世代の側の感覚に(むしろ)共感し、「今ここ」に生きている自分も、やがて遠い未来からそれを懐かしむときがくることを想像している。その来るべき日において、変化に身を任せて突き進み、すっかり変わりきってしまった未来の自分は、かつての自分を振り返っていかなる感慨を抱くのか。

ちなみに「八幡青年」というのは『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』という作品の主人公です。
ライトノベルなんて、みんな同じようなことが書いてあって、違うのは表紙の絵だけなんじゃないか?
と、僕のような「ラノベに疎い本好き」は考えていたのですが、ラノベの内容も、少しずつ「変化」してきているのです。
世の中を俯瞰し、醒めた目でみている主人公から、そういうキャラクターをさらに俯瞰し、いつまでも「一方的な傍観者」ではいられないのだと訴える物語へ。


正直、内容的には話が細切れかつあちらこちらへ飛びまくりで、理解するのが難しいな、と思うところもありますし、「ラノベの基礎知識がないとわけがわからず、ラノベ大好きな人には、表層的に感じられるのでは?」という気もします。
薄さのわりには、読みにくい本だな、と。
だから、どういう人にオススメ、というのが、なかなか思いつかないけれど、まあ、気になった方は、手にとってみてください。


「ぼっち」として生きることを選んだ若者たちの、恍惚と不安。
文体が「軽い」から、あまり深刻に受け止められていないのかもしれないけれども。

アクセスカウンター