- 作者: 酒井順子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2014/11/19
- メディア: 新書
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Kindle版もあります。
- 作者: 酒井順子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2014/12/26
- メディア: Kindle版
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内容(「BOOK」データベースより)
『オリーブ』とは「モテの戦場」からの解放だった。熱狂的に愛された少女雑誌の秘密とその時代。女子高生時代から『オリーブ』愛読者であり執筆者でもあった著者が、少女達を夢中にさせ、その人生観にも影響を与えた伝説の雑誌を振り返る。大人になった今だからわかること―「オリーブの罠」とは何だったのか。マーガレット酒井先生復活!「元オリーブ少女&少年の面接時間」全4回を収録。
酒井順子さんが、女子高生時代から、『オリーブ』で執筆されていたという話は聞いたことがありました。
この新書は、『オリーブ』に読者として、そして書き手として関わり続けていた酒井さんならではの「オリーブ愛」と、「当時の自分や『オリーブ』への鋭いツッコミ」に満ちあふれているのです。
自分と同世代か、その前後あたりの女性読者の方と会った時、しばしばおっしゃって下さるのが、
「オリーブの頃から読んでます」
という一言なのでした。
今の若者が聞けば、「オリーブってなんですか? あのおつまみみたいなやつ?」と思うであろうこの言葉、我々世代は確実にピンと来るはずです。そう、「オリーブ」すなわち『Olive』とは、1982年に平凡出版(現・マガジンハウス)から創刊された女性誌のこと。そして私は、かつて『Olive』(以下『オリーブ』)において連載をしていたのであり、読者の方は私に、「あなたが『オリーブ』で書いていた頃から読んでいますよ」と言って下さるのです。
私は長年エッセイを書く仕事をしており、今までに様々な雑誌に連載をしてきました。が、読者の方々が、かつて連載していた雑誌の名前を出して「読んでました」と言って下さるのは、この『オリーブ』が断然トップ。それほど『オリーブ』は、我々世代にとって印象的で、かつ熱狂的に愛された雑誌だったのです。
残念ながら、僕自身は、『オリーブ』にはまったく縁がなく(『POPEYE』もほとんど読んだことがなく、それより『LOGiN』の学生時代だったので……)、ここに書かれている内容に懐かしさはなく、「ああ、こんな女の子、そういえばいたよな……」という感慨にふける程度なのですが。
当時『オリーブ』にハマっていた、あるいは『オリーブ少女』をリアルタイムでみていた人たちにとっては、いっそう興味深い内容なのではないかと思います。
この新書を読んでいると、『オリーブ』に縁がなかった僕にも「あっ、こんな女の子、クラスにいたよなあ……」と思い当たるのです。
『オリーブ』が、彼女たちをそんな「ちょっと浮世離れした系」にしてしまったのか、彼女たちの嗜好にちょうどフィットしていたのが『オリーブ』だったのか……
赤文字系雑誌(『JJ』『CanCam』『ViVi』など)とは何かと言えば、雑誌タイトルがどれも赤い文字だった、というのがネーミングの由来。男性ウケするコンサバティブなファッションを、コンサバティブなモデル達が着こなし、ちょっとおしゃれな女子大生達が読者モデルとして誌面に出てくるところも、人気でした。
赤文字系雑誌を読む女子大生と、初期『オリーブ』が読者として想定する女子大生とは、全くタイプが違っていました。赤文字系雑誌を読む女子大生は、ファッションであれサークル選びであれ就職であれ、全ての行動をとる時に判断基準としたのが「男ウケするか否か」。対して『オリーブ』が求めたのは、「男にウケるか」でなく、「自分が興味を持てるか」「個性的か」といった判断基準で行動する女子大生。
第三十五号(1983年12月3日号)の表紙に記されているのは、
「オリーブ少女は、
リセエンヌを
真似しよう!」
という一文。ショートカットのモデルは、ボストンタイプの眼鏡をかけてベレー帽をかぶり、本と、学生鞄っぽいかっちりとしたバッグを持っています。
私のようなドメスティック系オリーブ少女が「リセエンヌって、何ぞ?」とページをめくると、
「リセエンヌって、知ってる?」
と、待ってましたとばかりのページが。
「リセ(Lyc〓e)って、フランスの公立の中等学校のこと」
「だから、リセエンヌっていえば、フランスの中・高校生の女の子たち」
ということなのだそう。そして見開きいっぱいの文章の最後に記されているのは、
「リセエンヌ=フランスのオリーブ少女なのです」
「わりげなくおしゃれで、いい感じ。どことなくかわいくて、夢がありそう。大人っぽく見えるからといって、ちっとも背伸びしてるわけではなくて、ティーンエイジのいまにぴったりの、自分のスタイルを持っている少女でもあります。そんな女の子になりたかったら、リセエンヌのライフスタイル、しっかり盗んじゃおう!」
という文章。
「リセエンヌ」ですよ……
正直、今これを読むと、「お前は誰と戦っているんだ?」という感じがするのですが、思い返してみると、30年前って、こんな時代だったような気もするなあ、と。
アメリカとか、ヨーロッパとかいうだけで、なんだかとてもすごいことのようなことがしていて。
洋楽を聴いているというだけで、同級生を「ちょっとカッコいいな」なんて思っていたくらいですから、「リセエンヌ」も、フランスというだけで、お洒落な感じがしていたのだろうなあ。
その一方で、同じ時代に、1978年創刊の『GALS LIFE』(主婦の友社、以下『ギャルズライフ』)の「ヤンキー的世界観」が、一世を風靡していたんですよね。
『オリーブ』が創刊された頃の『ギャルズライフ』のキャッチフレーズは、「痛快オテンバ・マガジン」。「リーゼントボーイ・コンテスト」「授業のさぼり方・フケ方」といったページに、ヤンキーテイストを感じます。読者達はなにせ大人の世界に興味しんしんですから、
「ドキュメント覚醒剤」
「ボクの好きな体」
「女のコたちの水子供養」
といった特集まで、読者から寄せられる体験談も、赤裸々です。
『オリーブ』とは百八十度違う『ギャルズライフ』でしたが、実は私、『オリーブ』に夢中になりながらも、『ギャルズライフ』を併読する時もあったことを、ここに告白しておきましょう。
実際、この時代の『ギャルズライフ』の過激さは、少女雑誌としては突き抜けており、『ポップティーン』等、数々の後追い誌を生みました。『ギャルズライフ』では、写真を漫画風のコマ割りで見せる「フォト劇画」というページが名物でしたが、そんなページでは裸もセックスシーンも当たり前、セックスネタはこの雑誌にとって欠かせないものであり、ネットでセックス情報に触れることができなかった当時の女子高生は、これらの雑誌でセックス情報を得て、秘かに興奮していたのです。セックス前後の問題としての避妊・堕胎・水子系の特集も、定期的に見ることができました。
しかしセックス関連の記事があまりに過激になってくると、1984年には、三塚博・自民党政調副会長(当時)が衆議院予算委員会において、これらのギャル誌を「性欲講座だ」と糾弾。『ギャルズライフ』は『GALS CITY』と名前を買えたのですが、中身は依然、シモ関係が満載だった気が……。
いささか浮世離れした『オリーブ』が熱狂的な読者を獲得していた時期に、あまりにも現実的というか、そこまでやるか、というような『ギャルズライフ』もまた、大勢力となっていたのです。
この2つの勢力は、相容れないようでいて、酒井さんのように「どちらも読んでいた」女の子たちもいた。
いま、「マイルドヤンキー」という概念が話題になることが多いのですが、思い返してみると、僕が物心ついてから30年以上、「ヤンキー的なもの」は、日本社会の「主流のひとつ」だったんだよなあ。
創刊してから1990年当時までの8年間で『オリーブ』は、
1 初期のアメリカ礼賛時代
2 付属校文化とリセエンヌ文化の共存時代
3 ナチュラル&カルチャー時代
と変化してきました。
酒井さんは、この新書のタイトルである「オリーブの罠」について、こんなふうに総括しておられます。
すなわち『オリーブ』は、「ファッションで男に媚びてモテようと思うことなかれ、恋がしたいなら、自分が着たい服を着たまま、人間的魅力だけで相手を魅了すべし」と、少女達に言っていたのです。
そんな高いハードルを突きつけられていたことに、しかし当のオリーブ少女達た気付いていませんでした。むしろ『オリーブ』が、モテなどという生々しい問題のことは考えなくていいとしてくれたのが、おぼこいオリーブ少女には有難かった。
しかしそれは、「オリーブの罠」というものだったのです。赤文字系読者達が、素材である自分を美味しそうに料理して、手を出してもらいやすそうにと爪楊枝にまで刺してから異性の前に出て行ったのに対して、オリーブ少女はその手の行為をせず、丸腰のまま。と言うよりむしろ、普通の男性では手を出しにくい、一風変わった臭いの香辛料を自分にふりかけたりすらする。
「でも私という人間が本当に好きな人は、こちらにやってくるはず」
と、無垢なオリーブ少女は信じていたわけですが、普通の男性は当然、食べやすそうな料理の方に向かっていきました。
「うわべだけじゃなくて、本当の自分を好きになってほしい」
それはわかるのだけれど、「本当の自分とは何か」という答えを出すのは、ものすごく難しい。
あの頃の『オリーブ』は、「自分さがしにハマってしまった若者ホイホイ」だったのかもしれません。
でも、酒井さんがこの新書のなかで、インタビューしている「元オリーブ少女」たちは、そんなふうに「モテレース」で致命的な出遅れを喫しながらも、けっこう、幸せに生きているようにも見えるんですよね。
というか、「モテ」に対する執着が少なくなれば、けっこう、ラクになれるのではないかな。
それも含めての「オリーブの罠」なのかもしれないけれど。