あらすじ
イラク戦争に出征した、アメリカ海軍特殊部隊ネイビーシールズの隊員クリス・カイル(ブラッドリー・クーパー)。スナイパーである彼は、「誰一人残さない」というネイビーシールズのモットーに従うようにして仲間たちを徹底的に援護する。人並み外れた狙撃の精度からレジェンドと称されるが、その一方で反乱軍に賞金を懸けられてしまう。故郷に残した家族を思いながら、スコープをのぞき、引き金を引き、敵の命を奪っていくクリス。4回にわたってイラクに送られた彼は、心に深い傷を負ってしまう。
参考リンク:映画『アメリカン・スナイパー』オフィシャルサイト
2015年5作目。
月曜日のレイトショーを観賞。
観客は僕も含めて20人くらいでした。
観終えたあと、なんだかすごくモヤモヤしたものが、ずっと心の中に残っていて、すっきりしないまま家路につきました。
……なんだかすごい緊張感にさらされた末に、ようやく解放されたと思ったら、そのまま何のフォローもなく放置プレイを食らったような感じです。
でも、これぞ、クリント・イーストウッドの映画、なんだよなあ。
白黒はっきりした、わかりやすい映画、説明過多の親切な映画、ドンパチを派手にやって、シアターを出たら、内容を忘れてしまう映画……
そんなハリウッド映画の中で、「灰色の映画」、わからないものを、わからないまま撮り続けることを許された(あるいは、求められている)稀有な存在。
主人公のクリス・カイルは、子どもの頃、父親にこう教えられます。
「世の中には、羊と狼と番犬がいる。羊は、暴力を否定することによって、平和に暮らせると思っている人々だ。だが、彼らは、ひとたび狼たちの暴力や悪意にさらされると、何もできずにやられてしまう。そこで、狼たちから羊を守る選ばれた存在が、番犬なんだ。誰かが、この番犬の役割をやらなければならない」
クリス・カイルは、まさに「良き番犬」になろうとした男、だったのです。
彼は最初、カウボーイのような生活に憧れるのですが(というか、イラク戦争の時期まで、アメリカの南部には、ロデオ大会が定期的に行われるような地域があったんですね。今はどうなんだろう?)、あるきっかけで軍に志願し、厳しい訓練を積んで、エリート「シールズ」の一員となるのです。
現代のハリウッド映画というと、ニューヨークとかロサンゼルスが舞台になることが多いので、「テキサス出身のカイルさんの若者時代の話」というのは、観ていて、「同じアメリカでも、ニューヨークとは全然違うものなんだな」と、興味深いものでした。
「シールズ」については、先日こんな話を読んだばかりだったので、カイルさんが酒場で、のちの妻になる女性をナンパ(?)をしているのを観て、ちょっとニヤニヤしてしまったんですよね。
『詐欺と詐称の大百科』より。
エリート部隊や特殊部隊は、特に詐称者の垂涎の的である。2002年、合衆国海軍シールズ(訳注:上陸作戦時に偵察、海中障害物の除去などを行う特殊部隊)の一員を自称する千人以上の男たちが調査を受けた。その中で、本当のことを言っていたのは僅か三人だけだった! つまり、本物の海軍シールズ一人に対して、詐称者は三百人以上いたということになる。ブライアン・レナード・クリークマーとジョン・スミスもそうした詐称者だ。クリークマーは退役した元海軍シールズで、二十年以上も軍務に就いており、その間二つのシールズ・チームに所属していたと主張していたが、彼がこの話で気を惹こうとしていた女性が疑念を抱いた。そして彼女から連絡を受けた本物の元シールズ隊員によって、クリークマーが偽物であることが暴かれてしまった。スミスもまたシールズで、ヴェトナムでヘリコプターを撃墜されて捕虜にされたと主張していた。海軍の記録を調べると、彼は確かに海軍には所属していたが、シールズではなかった。
カイルさんは「1000人の酔っぱらいの中で3人しかいない、本物のシールズ」だったのですけど。
この『シールズ』の訓練風景がまたすごい、ああ、ファミコンウォーズ!というか、『フルメタルジャケット』というか(その二つじゃ、大違いではあります)。
軍隊で上官が訓練中に兵士たちを罵倒する言葉って、ネットだったら大炎上しそうなハラスメント表現のオンパレード。
「スナイパー」というのが、ここまで一般化された仕事で、索敵・偵察の役割も同時に果たしているということを、僕はこの映画をみてはじめて知りました。
こんな人がいたら、戦場をオチオチ歩いていられないよなあ。
この作品の冒頭に、自爆テロを行おうとしている(とみられる)子どもに対する、カイルの「撃つべきか撃たざるべきか」という選択の場面が出てきます。
自爆テロを行うかもしれないといっても、相手は子ども。
「子どもを撃って、もし証拠がなかったら、軍の刑務所行きだぞ」なんて、同僚に釘をさされる場面もありました。
子どもや女性を狙撃する。しかも、離れた場所、自分が反撃されるおそれは無い場所から。
大人に言われたように、あるいは洗脳されていて「自爆テロ」をやろうとする子どもを撃ち殺すという罪悪感と、撃たなければ、自分の戦友たちが殺されるかもしれない、という危機感。
こういうのって、「自分が比較的安全な場所にいるからこそ、つらい」という面もあるのでしょうね。
カイルは、「安全な場所から、一方的に敵(と認定したもの)を撃ち殺す」ことに苛立ち、本来であれば行かなくてもいいような前線の任務にも参加していくのです。
しかし、スナイパーというのは、微妙な立場ですよね。
160人もの敵を射殺した、というのは凄いことなのだけど、その一方で、前線で戦う歩兵などに比較すれば、自分自身の危険度は低い。
ましてや、自爆テロや罠は怖いとしても、戦力的には圧倒的に優位であるアメリカ軍側でもあるわけで。
クリント・イーストウッドという人は、『硫黄島からの手紙』も撮っていますから、硫黄島の日本兵のように「カイルさんよりも、もっと絶望的な状況の、ほとんどそこで死ぬことが決まっている兵士たち」の存在も知っているのです。
少なくとも、硫黄島の日本軍の守備隊よりも、イラクに派兵されたアメリカ軍のほうが、生き延びられる可能性は高いはず。
にもかかわらず、クリス・カイルさんは、4度の従軍で、心の傷をどんどん深めていってしまった。
カイルさんは、凄腕のスナイパーで、「英雄」であるのと同時に「戦争の被害者」でもある。
カイルさんは、何もうつっていないテレビの画面を見つめています。
戦場の光景が、頭にこびりついて、離れないのです。
あまりにものどかなアメリカでの日常生活に、「同じ空の下では、兵士たちが血を流しているのに、みんな、そのことを知ろうともしない」と、憤る場面もありました。
これを観ていると、カイルさんがキツそう、なのはもちろん、「この状況でこんなにストレスが大きいのだから、硫黄島守備隊なんて、精神的にもすごくつらかっただろうな」と想像してしまいます。
すべてが「戦争を遂行するためのツール」と化していて、人々に戦争への協力をアピールするようなメディアが存在する時代は、病んでいる。
しかしながら、「いま、自分の国が戦争を行っていること」すら、まともにメディアで採り上げられず、血みどろの戦地の話は目につきにくくされ、何も起こっていないかのように日常が進行していく時代というのは、もっと「おかしなこと」になっているのかもしれない。
それがまさに、今のアメリカの姿、なんですよね。
それでも、現実的には「番犬」がいなければ、世界中の羊は、狼に弄ばれ、食い散らかされて逃げ惑うばかりになってしまいます。
カイルの妻は、言うのです。「あなたはもう十分貢献してきたし、もう、あなたがやらなくても良いじゃない」と。それは、家族として当たり前の感情だと思う。
でも、カイルがやらなければ、その役割は、他の誰かがやるしかない。
「戦争は間違っている」「戦地に行くよりも、家族のもとにいたほうがいい」
それはもう、まぎれもない「正論」なのだけれど、もし、全員がそう考えるようになって、誰も戦地に行かなくなったら、世界はどうなるのか?
もしかしたら、世界中の人々が武器をすてて手をつなげば、平和な時代がやってくるのかもしれません。
いま行われている戦争というのは、軍需産業の都合に従っているだけなのかもしれません。
でも、だからといって、「自分から武器を捨て、争いをやめる」というのは、そう簡単にできることではないのです。
その子どもが騙されていても、無知なるがゆえの行為なのだとしても、爆弾を抱えて近づいてくれば、撃たざるをえない。そうしないと、仲間が死んでしまう。
綺麗事も法律も通用しない場所が、残念ながら、この世界にはまだたくさん存在しているのです。
クリント・イーストウッド監督が描きたかったのは「英雄伝」ではなくて、「戦争、あるいは歴史という大きなうねりの前での、ひとりの人間の、そしてひとつの家族の儚さ」みたいなものではないかと、僕は感じました。
絶対的に正しい人なんていない。
だからこそ、争いというのは、終わらない。
羊には羊の、狼には狼の、そして、番犬には番犬の、哀しみがある。
アメリカという国は、まさに、みずからを「世界の番犬」だと位置づけてきた国、なんですよね。
クリス・カイルの苦悩は、アメリカの苦悩でもあるのだと思います。
周囲からは「圧倒的に有利なのに」と言われるけれど、彼らもまた、満身創痍になりながら、ずっと戦い続けているのだから。
- 作者: イアン・グレイハム,松田和也
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