- 作者: 角幡唯介
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2016/08/26
- メディア: 単行本
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内容紹介
奇跡の生還から8年。マグロ漁師を再び海に向かわせたものは何だったのか? 1994年冬、沖縄のマグロ漁師・本村実は、フィリピン人らと共に救命筏で37日間の漂流の後、「奇跡の生還」を遂げた。だが8年後、本村は再び出港し二度と戻らなかった。九死に一生を得たにもかかわらず、なぜ再び海に出たのか? 沖縄、グアム、フィリピンなどで関係者らの話を聞き、漁師の生き様を追った渾身の長編ノンフィクション。
角幡唯介さんのノンフィクション、デビュー作の『空白の5マイル』以来、欠かさず読んでいます。
こういう「ノンフィクション」や「探検もの」って、「明かされた意外な真実!」とか、「新しい発見」みたいなものが書かれていると思っていた僕にとって、角幡さんの作品は、ものすごく違和感があったんですよ。
たとえば、これ。
そうか、雪男を探しに行くのか……さて、雪男なんて本当にいるのかな、でも、こんなに分厚い本にまとめられているんだから、それらしきものが見えたのでは……
ところが、そこには「ヒマラヤの山中で、雪男を探すために張り込む」という状況下での著者の心の葛藤が延々と綴られていて、あんまり「新しい事実」はありませんでした。
しばらく読んでいると、「これこそまさに、角幡節!」という感じになってくるのですけどね。
珍しいものを見つけることではなく、自分の内面に向き合うこともまた「探検」なのだな、って。
この『漂流』というノンフィクションは、1994年冬にフィリピン人船員らと共に救命筏で37日間の漂流の後、「奇跡の生還」を成し遂げた日本人船長への取材を試みようとするところからはじまります。
人間が大自然に直面する、もっとも切実な状況のひとつである「漂流」について、彼は、どんなことを語るのだろうか?
ところが、その船長・木村実さんを探しているうちに、驚くべき事実に直面することになるのです。
「奇跡の生還」を果たしたはずの木村さんは、その8年後にまた海に出て、そして、行方不明になってしまっているのです。
そこで、「実は、木村さんは生きていた!」とか、「彼の事故にはこんな秘密が!」というような展開になるのかと思いきや、角幡さんは「漁師たちは、なぜ、こんなにリスクが高いのに、海で働き続けるのか?」をひたすら追い求めていくのです。
「意外な事実」が出てくるわけではないのだけれど、ひたすら現地の人たちと話をして、マグロ漁船に乗り込んで、「彼らはなぜ海に向かうのか」を問いかけていく。
これを読んでいると、全盛期にはすごく儲かっていた「海の男」たちの宵越しの銭を持たない、という生き方や、「海を漂流する」「海で死ぬ」ことに対する考え方に圧倒されてしまうのです。
森田によると、第一次世界大戦の好景気にわいた時期の池間島の漁民の一漁期の配当金は、なんと800円をこえたという。島はほとんど瓦葺屋根の家屋だったが、この好景気でそれが一気にすがたを消し、多くが瓦葺きの家にかわった。カツオ漁が活況をていしたことで池間島は宮古地域全体の経済の中心地と化し、ほかの集落からの出稼ぎ労働者があとをたたず、漁の最盛期である夏ともなると島の人口は倍増するほどだったという。
当然ながら、同時に住民の生活も贅沢になっていった.森田はその様子を<奢侈になった>と否定的な意味のある言葉で概括している。池間島の漁師がかよいつめたことで平良の町の料亭は繁盛し、漁船の祝いごとがあると平良の芸者が接待のために池間島までよばれ、島には大量のビールが船で運びこまた。「ビールで足をあらった」という、現在の佐良浜でも昔日の栄光を追憶するように語られる逸話が生まれたのも、この頃のことだった。
「船員も、一航海で家が一軒建っていた」くらい稼げる時代もあったのだとか。
ところが、今の漁師たちの生活は、仕事の厳しさの割には経済的な見返りが少なくなっているそうです。
日本の漁船はもはやあらがいようのない高齢化の波にさらされており、グアムの漁船ではたらく日本人漁師は六十代が主力、五十代では大変な若手、七十代で現役船長をつづけているのもめずらしくないといったありさまだ。当然、操業中に脳梗塞でたおれたなどというのもよく耳にする話で、とりわけ沖縄の19トン型マグロ延縄漁船では後継者がそだっていないため、高齢化がすすんだ現在の船長連中が引退すると、グアム基地は必然的に終焉をむかえざるをえないとまでささやかれている。
後継者がそだたないのは、単純にマグロ漁師という職業に経済的な魅力がともなっていないからだろう。ある船長によると、グアムの漁船の船長職の収入は毎月支はらわれる月給が25万、これに水揚げ高におうじて歩合とよばれる出来高が発生するが、「それほどあてにできるものではないので、歩合をいれても月の収入は平均して30万ほど」しかないという。もちろん会社員や公務員のようにボーナスが支はらわれるわけでもない。一年間のほとんどを家族からはなれて海上ですごし、帰港しても数日で海にもどらなければならず、船内は外国人労働者にかこまれ、そばには妻も友もおらず、操業がはじまるとまともに寝る時間もとれない。そのような独特の労働環境のなかで一年間しゃにむにはたらいてもわずか350万円とか400万円程度の収入にしかならないのでは、マグロ漁師という職業を希望する若者がとだえてしまうのも無理のない話である。
これだと、「借金が返せないんなら、マグロ漁船に乗ってもらおうか」っていうのも、今は無理なんじゃないかな……使い道がないから貯まるのかな……
周りがほとんど外国人で言葉もあまり通じないと、体力的な面だけではなくて、精神的にもかなりキツそうです。
それでも、漁師たちは「他にできる仕事もないから」と海に向かっていくのです。
何度か泊港に足をはこび。佐良浜の漁師をさがして話を聞いているうちに、私は言いようのない違和感をおぼえるようになっていた。彼らには人の死にたいして、どこか恬淡とした、素っ気ないところがあるように思えた。彼らの口からは何度となく行方不明になった船や転覆した船の名前が出るのだが、その口ぶりが妙にサラッとしているように感じられたのである。われわれ陸の人間の感覚からすると、一緒に長い間、操業していた人間が消えたのだから、もっと語るべきことや重たい感覚があるような気がするのだが、しかし彼らは少しちがい、人がいなくなることは時々おこることで、さほど大騒ぎするようなことではないとでも考えているようだった。どんなに近い人間でもいなくなったらしょうがない、海の藻屑になったらあきらめるしかないとでもいうような、過去や人間関係にたいする頓着のなさが感じられ、それは私には少し冷淡ではないかとさえ感じられるものだった。
歴史的には、ダイナマイトを使った漁が行なわれ、たくさんの人が命を落としたり、身体の一部を失ったりもしています。
佐良浜の漁師や周囲の人々は、そういう歴史に対して、淡々と受け入れているようにすらみえるのです。
逆に、いまの僕がみている日本のほうが「命が重くなった時代」なのかな、と思えてもくるんですよね。
もちろん、それは悪いことではないのだけれど。
「海の男」は、大自然に立ち向かっていく、自由な存在だと思っていたのですが、角幡さんは実際にマグロ漁船に乗ってみて、こんな感想を述べています。
実際に乗船してわかったのは、漁船というのは完全にとじられたひとつの王国であるということだった。
陸の人間は船乗りという人種全般にたいして、勝手気儘に大海原を行き来する自由な存在という固定観念をもちがちだが、船に乗ってみて、私は、それが物事の一面しか見ていない不十分な見方であることを痛感していた。たしかに彼らは自由なのかもしれない。しかし自由な存在である前に、まず船という閉鎖された空間に隔離された孤独で動きの制約された人間としてこの世界に存在している。それはどういうことかと言うと、彼らは単純に<海にとりかこまれたせまい船>という身体的にきわめて限定された空間のなかで生きているということである。彼らは基本的に船から外に出ることはできず、そういう物理的な制約が、まず彼らの性質を規定している。つまり彼らは望むと望まざるとにかかわらず、船ごとに分割されたバラバラな個人として大海原に存在せざるをえないのである。
これまでの「海の男」のイメージと一致するところと、そうではないところと。
読んでいて驚いたのは、漂流していたあいだ、かなりの数の船が漂流していた船長たちの近くを通り過ぎていった、ということでした。
最近の船はオートパイロットなので、漂流者に気づきにくい、とか、それとは逆にGPSのおかげで、遭難のリスクも以前ほど高くはなくなった、とか。
何かすごい「結論」が導かれているわけではないのだけれど、ただひたすら、そのプロセスを描写する熱量に、圧倒されてしまいます。
なんというか、すごく「濃い」ノンフィクションです。
- 作者: 角幡唯介
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