琥珀色の戯言

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【映画感想】Coda コーダ あいのうた ☆☆☆☆

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とある海辺の町。耳の不自由な家族の中で唯一耳が聞こえる女子高生のルビー(エミリア・ジョーンズ)は、幼少期からさまざまな場面で家族のコミュニケーションを手助けし、家業の漁業も毎日手伝っていた。新学期、彼女はひそかに憧れる同級生のマイルズと同じ合唱クラブに入り、顧問の教師から歌の才能を見いだされる。


gaga.ne.jp


 2022年8作めの映画館での鑑賞です。
 平日の夕方からの回で、観客は10人くらいでした。

 第94回(2022年)のアカデミー賞の作品賞受賞作。
 2022年のアカデミー賞は、『ドライブ・マイ・カー』の受賞への期待に始まり、ウィル・スミスの平手打ち事件で終わった、という感じで、作品賞を獲った『Coda』は、あまり注目されなかった印象があるのです。
 とりあえず、僕自身の「作品賞受賞作くらいは、映画館で観るルール」にのっとって観てきました。
 この作品、Apple TV+のオリジナル映画で、大手配信プラットフォームの作品として初のアカデミー賞の作品賞に選ばれたのです。
(ただし、オリジナルとはいっても、2014年のフランス映画『エール!』のアメリカ版リメイクです)

『CODA(コーダ)』とは、Children of Deaf Adults=“耳の聴こえない両親に育てられた子ども”を意味していて、音楽用語としては、楽曲や楽章の締めを表す=新たな章の始まりの意味も併せ持っているのです。

 日本では2022年1月に劇場公開されているのですが、僕は正直、「こんな映画、上映されていたっけ?」という感じで、アカデミー賞受賞をきっかけに知りました。
 「あらすじ」を読むと、「いかにも『アカデミー賞』が評価しそうな、ハンディキャップを抱えた人たちの感動の物語」「泣ける映画」という印象で、あまり僕好みではありませんでした。
 「こういう映画だったら、アメリカの意識高い系リベラル映画人に評価されやすいんだろうな」って。

 この映画を観終えて、「なんて読後感(映画だから、「観終えた余韻」とでも言うべきでしょうか)が良い作品なんだろう」と、なんだかすごく嬉しくなってしまったんですよね。

 「耳が聴こえない人々の世界」というと、特別なことのように考えてしまいがちだけれど、この映画で描かれているのは、「家族のために犠牲になる若者たち」=「ヤングケアラー」が生きている世界なのです。


fujipon.hatenadiary.com

 この本には、こう書かれています。

 日本にも、ヤングケアラーは多く存在している。総務省が2013年に発表した「平成24年就業構造基本調査」では、15~29歳の介護者の数として、17万7600人という数が挙げられている(総務省統計局2013:第203表)。しかし、日本では、子どもや若者が家族のケアを担うケースへの認識自体、まだ充分に広まっていない。
 実際、「平成24年度就業構造基本調査」によれば、同年の介護者55万3800人の8割近くは50代以上であり、学齢期にケアを担う子どもや若者はこうした介護者のなかでは見えにくくなっている。


 実際のところ、この『Coda』の主人公・ルビーの状況は、「他の家族は耳が聴こえない」という、周囲からも認知されているものではあるのです。
 世の中には、親の精神的な問題や経済状況、病気などで、「家族を支えなければならない立場の子どもや若者たち」が大勢いますが、彼らが学校で居眠りばかりしている「背景」は、あまり顧みられることがない。

「家族なんだから、助け合うのが当たり前」という感情と、「家族であっても、それぞれ独立した人間なんだから」という価値観のせめぎあいは、近代社会でずっと続いているのだけれど、「家族を助けるのが当たり前」だと言われて育ってきた子どもたちも大勢いるのです。
 それは「価値観の押しつけ」なのだと考える周囲のサポートしたい人々と、それは「自分の意思」なのだと主張する本人は、すれ違うばかり。

 この『Coda』では、「ルビー以外は耳が聴こえない家族」を不幸な日陰の存在として「かわいそう」に描くばかりではなくて、彼らが、いわゆる「健常者」のなかで、自分たちの力で生きていこうとしている姿も見せようとしているのです。
 ルビーの同級生たちには、ルビーや家族をバカにする者もいるけれど、ルビーの家族の結びつきの強さを「家族の誰かが障害を持っているわけではないけれど、お互いが個人として『強く生きよう』『自己実現をしよう』とすることによって、争いが絶えない自分の両親」と比べてしまう人もいるんですよね。
 作中で少しだけ体験できる「音のない世界」というのは、僕の日常では想像しきれないし「ハンディキャップがあっても、絆が深いこの家族が羨ましい」とまでは思えないけれど、結局のところ、みんなそれぞれ、「家族」とか「人間関係」には悩みを抱えているのです。

 この映画では、さまざまな困難な状況を、かなりユーモアをまじえて描いており、「こういう、ちょっと差別的なジョークに笑っていいのだろうか?」というのと、「ありのままに近い姿を描いているのに『笑ってはいけないモード』で観る態度のほうが、かえって『差別的』ではないのか?」という感情が入り乱れるところもあるのです。
 
 観ながら、「バークリー音楽大学って、日本でいえば東京藝大みたいな存在じゃないの?東京藝大の入学難易度を考えると、音楽の基礎訓練の積み重ねと、受験を知り尽くした先生の指導なしで、そう簡単に受かるとは思えん……」とか、そもそも、いろんなことがルビーにとって、うまくいきすぎてるだろ……とか言いたくはなったんですよ。
 泣かせるタイミングでわざとらしく登場人物が死んでしまう映画や小説が僕は苦手なのですが、こういう「現実離れしたシンデレラ・ストーリー」にも、なんだかなあ……と思うところはあるのです。
 こんな宝くじが当たったみたいな話で、現実の聴覚障害者やヤングケアラーは救われないだろ、みたいな。

 そんな「いい話にしてしまう罪悪感」がある一方で、「この映画が、『聴こえない人たち』や『家族のためにやらなければならないことで、遅刻をしたり、勉強ができなくなってしまう子どもたち』に接するときに、みんなが少しでも優しい、おおらかな気持ちを持つきっかけになる」のも事実でしょう。
 僕は仕事で、「耳が遠くなった高齢者」に接することが多いのですが、何回も「はぁ?」と聞き返されるたびに、内心イラッとしていることはあるのです(自分自身の滑舌に自信がない、コンプレックスを刺激されるところもあって)。
 実際は、高齢者の側も「よく聴こえないけれど、聞き返すのも悪いと思って、とりあえず相槌を打っていることが多い」のです。

 重厚なドキュメンタリーではなく、みんなが観やすい「テーマは重いはずなのだけれど、エンターテインメントとしての完成度が高く、観ていると、エミリア・ジョーンズが好きにならずにはいられない映画」であることが、この作品の素晴らしさであり、バランスの良さ、後味の爽やかさなのです。

 「もっと泣かせる映画」や「家族の苦悩を重々しく描いた作品」にもできたはずだけれど、観る側だって完璧な人生や日常を送っているわけじゃないし、ベタな青春ドラマのようなシーンやシンデレラ・ストーリーに、2時間くらい微笑んでみてもいいよね。

 「いい映画のつくりかたマニュアル」を完璧に実践し、その「できすぎている嫌味」をエミリア・ジョーンズさんの「ちょうどいい普通っぽさ」と「聴こえない家族を、本当に聴力障害を持つ人々が演じている、という有無を言わせぬリアルさ」で消した「万人が好きになる、というか、嫌いになれない映画」だと思います。


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