Kindle版もあります。
(『推し、燃ゆ』は、第164回芥川賞受賞作として、月刊『文藝春秋』2021年3月号に全文掲載されています。僕はこちらで読みました)
文藝春秋2021年3月号 (第164回芥川龍之介賞受賞作 宇佐見りん「推し、燃ゆ」 全文掲載)
- 発売日: 2021/02/10
- メディア: 雑誌
内容(「BOOK」データベースより)
推しが炎上した。ままならない人生を引きずり、祈るように推しを推す。そんなある日、推しがファンを殴った。
第164回芥川賞受賞作。
「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。」
この冒頭を読んだとき、僕は「ああ、綿矢りさ」って思ったんですよ。
綿矢りささんが、『蹴りたい背中』で第130回芥川賞を受賞したのが2004年。19歳と史上最年少で、金谷ひとみさんとのW受賞も話題になりました。
あれから、もう17年も経つのか……
芥川賞って、本当にいろんな作品が受賞していて、きわめて難解な実験小説みたいな作品もあれば、いま、この時代に?と思うような私小説もあり、時代を象徴する、介護とか発達障害をモチーフにしたものもあります。
又吉直樹さんの『火花』は、大ベストセラーにもなりましたよね。
この『推し、燃ゆ』、作者は21歳の大学生・宇佐見りんさんです。
ああ、これは『コンビニ人間』と同じような、いまの時代を生きる人間を切り取った小説なのだな、と思いながら読みました。
この冒頭の文章を読んで、「なぜ、主人公の『推し』はファンを殴ったのか?」が明かされていくのではないか、と僕は予想していたんですよ。
「推し」を心の支えにして生きる、とか「推し」に搾取されて、いろんなものを失いながらも自分は幸せ、という信仰みたいなものが描かれている、と思いきや、主人公は、一貫して、「推しは、自分にとって『背骨』のようなもの」だと言っているのです。
「推し」についてのブログを書き続け、そこで人間関係を構築し、推しのグッズを買ったり、人気投票に参加するために、「空気が読めない」ことを周囲に責められながらアルバイトを続け、家族からも「他の人ができることができない子」という目で見られ……
自分がやりたいことに関しては、すごい力を発揮することができるのに、それ以外のことには、興味が持てない。
ここに描かれているファンと「推し」との関係って、一方的に貢ぐとか応援される、というようなものではなくて、もう、「推しと自分が一体化している」ように感じます。
「どうして他人のために、そこまでするの?」と、人生で心底だれかを「推し」たことがない僕は思っていたのだけれど、「推し」って、他人じゃないのです。
今は、SNSでファン同士がつながったり、ブログでファン側から情報を発信したり、自分の「解釈」を広めたりすることもできる。
一昔前のファンと親衛隊のような関係ではなく、「誰を推しているか」が自分のアイデンティティとして認められる時代になっているのです。
ネットを巡っていると、自分の「推し」について語っている人がものすごく多いんですよ。
他人に自分の人生を預けていいの?
僕はずっとそう思っていたのだけれど、もう、そういう考え方そのものが古いのだと思います。
誰かを「推す」のは現実逃避ではなくて、誰かを推すことそのものが、現実。
「推し」に利用されているのではなくて、「推し」を自分に取り込んでしまっている。
映画『マトリックス』で、機械につながれて栄養を吸い取られながら、楽しい文明の夢をみている人間たちが出てきたけれど、彼らを起こして(解放して)原始的な生活をさせることが、はたして本人にとって「幸せ」なのか?
僕は、あの映画をみて、「それが自分にとって『現実』だと感じられるのであれば、機械に吸われて楽しい夢をみていたほうがマシじゃないか?」とずっと思っているのです。
同じように思う人は、この20年くらい、「インターネット以後」には、すごく増えてきたのではなかろうか。
人間にとっての「現実」は、どんどん拡張している。むしろ、「現実は、スマホの中にある」のかもしれません。
まあでも、こんなわかったようなことを言っていますが、もし僕の子どもが主人公みたいな状況だったら、やっぱり、「それもまた人生」と割り切るのは難しいだろうな、とも思うのです。
僕自身も「現実のほうがオマケ」みたいな人生なんだけどさ。
文体、若い女性の視点からの比喩をふんだんにつかった情景・状況描写と、「綿矢りさフォロワー」だと感じていたのですが、もう17年も前だと、読者のほうが世代交代してしまったのだよなあ。
綿矢さんは、「その後」も人間のめんどくささが伝わる小説を書き続けておられるのですが、芥川賞で話題になりすぎたことは、作家として良かったのだろうか。
でも、なんのかんの言っても、話題にならないと、売れないと生き残れない世界でもありますし……
姉が唐突に怒りをあらわにしたのは、彼女の大学受験の勉強中だった。あたしは脱衣所にいる母の小言を扉越しに聞きながら、夕飯のおでんを食べていた。姉は教材を広げ、小さめの器によそったおでんをテーブルの端に寄せている。いつものごとく、母が勉強のことであたしを𠮟り、あたしが「やってるよ、がんばってるよ」と脱衣所に向かって声を張ると、勉強していた姉がいきなり手を止め、「やめてくれる」と言い出したのだった。
「あんた見てると馬鹿らしくなる。否定された気になる。あたしは、寝る間も惜しんで勉強してる。ママだって、眠れないのに、毎朝吐き気する頭痛いって言いながら仕事行ってる。それが推しばっかり追いかけてるのと、同じなの。どうしてそんなんで、頑張ってるとか言うの」
「別々に頑張ってるでいいじゃん」
姉は、あたしが大根を箸で持ち上げ、頬張るのを目で追いながら、「違う」と泣いた。ノートに涙が落ちる。姉の字は小さく、走り書きであっても読みやすく整っている。
「やらなくていい。頑張らなくてもいいから、頑張ってるなんて言わないで。否定しないで」
びち、と音を立てて大根が器に落ち、汁が飛んだ。テーブルをティッシュで拭う。それにすら腹を立てて、姉が「ちゃんと拭いて」と言う。ノートを、これ見よがしに避難させる。
拭いてるし、そもそも否定してないよね。話そうとしても、あたしの話の筋をかき乱すように泣き続ける。
わけがわからなかった。庇う基準も、苛立つ基準もわからない。姉は理屈ではなく、ほとんど肉体でしゃべり、泣き、怒った。
母は怒るというより、断じる。判定を下す。それにいち早く気づいた姉が、とりなそうとして勝手に消耗する。
『推し、燃ゆ』を読んでいて、これはすごいな、と思ったのがここだったんですよ。
僕も最初に読んだとき、なぜここで、お姉さんの「否定しないで」という言葉が出てくるのか、この話の流れがうまくつかめなくて、引っかかってしまったのです。
こういう「会話のズレ」が、ものすごくリアルなんですよね。
これを小説で言葉にするのは、ものすごく難しいと思うのです。
僕だったら、もっとわかりやすく整理して書き直そうとするのではなかろうか。そして、生々しさを失ってしまう。
宇佐見さんの「微妙なズレ」をそのまま切り取れるセンスは、本当にすごい。
「推し」についての概念って、選考委員たちには「今の若者はこうなっているのか……」って新鮮だったかもしれないけれど、僕にはそんなに目新しさはありませんでした。
でも、細部の表現や比喩が、これだけ行き届いていて、しかも、読みやすい小説って、珍しい。
2021年に生きている活字好きであれば、とりあえず、一度は読んでみて損はしないと思います。話題性、も含めて。