- 作者: 村田沙耶香
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2016/07/27
- メディア: 単行本
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Kindle版もあります。
- 作者: 村田沙耶香
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2016/07/27
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内容(「BOOK」データベースより)
36歳未婚女性、古倉恵子。大学卒業後も就職せず、コンビニのバイトは18年目。これまで彼氏なし。日々食べるのはコンビニ食、夢の中でもコンビニのレジを打ち、清潔なコンビニの風景と「いらっしゃいませ!」の掛け声が、毎日の安らかな眠りをもたらしてくれる。ある日、婚活目的の新入り男性、白羽がやってきて、そんなコンビニ的生き方は恥ずかしいと突きつけられるが…。「普通」とは何か?現代の実存を軽やかに問う衝撃作。第155回芥川賞受賞。
第155回芥川賞受賞作。
僕はこの『コンビニ人間』に、ある種の「共感」のようなものを覚えましたし、近年の芥川賞受賞作のなかでも、読みやすくて伝わりやすい傑作だと思っています。
村田さん自身のコンビニでの仕事の経験が活かされていて、ものすごくリアルに感じるんですよね、コンビニという場所のディテールまで。
チャリ、という微かな小銭の音に反応して振り向き、レジのほうへと視線をやる。掌やポケットの中で小銭を鳴らしている人は、煙草か新聞をさっと買って帰ろうとしている人が多いので、お金の音には敏感だ。案の定、缶コーヒーを片手に持ち、もう片方の手をポケットに突っ込んだままレジに近付いている男性がいた。素早く店内を移動してレジカウンターの中に身体をすべりこませ、客を待たせないように中に立って待機する。
「いらっしゃいませ、おはようございます!」
「たかがコンビニのバイト」だと思われがちな仕事だけれど、実際のコンビニには多種多様の業務があり、けっして単純労働ではありません。
朝、常連さんたちとの適度な世間話を笑顔でこなしている店員さんたちをみるたびに、僕がコンビニで働くとしたら、こんなにうまく他人との距離を保つことができるだろうか?と思うのです。
お客さんのなかには、けっこうめんどくさそうな人もいますしね。
僕はこの主人公が「変な人」だとは思えなくて、読んでいてちょっとつらいところもありました。
どうしてみんな、そんなに「恋愛」に興味がなくてはいけないのか?
それは、僕自身もこれまでの人生で、ずっと考え続けてきたことだし、中高生の頃には、女子よりもテレビゲームや歴史小説のほうにワクワクしてしまう自分は異常なのではないか、と考え込んでいたのです。
いまの世の中というのは、「草食化」なんて言われているけれど、人間にとっての娯楽や興味の対象がこれだけ多様化しているにもかかわらず、恋愛とか結婚は、どうしてこんなに「特別」なのだろうか?
僕は「コンビニ人間」という作品には、「血が通っている人間」というステレオタイプな「人間らしさ」にうんざりしている人が描かれていると感じましたし(そもそも、「血が通っていない人間」なんていないよね、生命活動を維持しているのなら)、こういう「世間の価値観と自分が噛みあわないなかで、なんとか適応しようとしている人」を選評で「サイコパス」とか書いてしまう島田雅彦さんは「離人感」を体験したことはないのだろうな、と思ったんですよ。
ただ、こういう「世間の価値観と噛みあわない人間を描いた小説」っていうのは、何も今にはじまったものではなくて(「コンビニ」という舞台は「現代的」だけれど)、僕は「ああ、これはカミュの『異邦人』だな」とずっと考えていました。
まあ、異邦人の場合は、人を殺してしまったのだから、責められるのも当然ではあります。
ところが、古倉さんは、具体的に「悪いこと」をしていないにもかかわらず、世界に居場所を見つけるのが難しかったのです。
日頃、世間に毒を吐いたり、「自分は他人とは違う」と公言している人間が、いざとなると「常識や普通」を振りかざす光景を、僕は何度もみてきました。
そして、自分と世間との「感性」や「価値観」のズレを自覚し、「悲しいから自然に泣く」のではなく、「こういうときは、一般的に『悲しむべき状況』だから涙を流す」というふうに、世間に「適応」してきた人たちも、僕の周りには少なからずいたのです。
正直、主人公に対しては、「さすがにその男は『ありえない』だろう」と思いましたし、その関係についての周囲の反応も「誰も諌言しないのか?」と少し苛立ちを感じてしまったのです。
それは、この作品のリアリティの欠如なのか、結局のところ、僕が「わかったような気になっているだけの凡人」であるだけなのか、ちょっとわからないのです。
人間は歯車じゃない、と言われてきたけれど、案外、歯車でいるほうがいい、っていう人は多いのではなかろうか。
文学とか芸術というのは、これまで、そういう「血が通っていない人たち」を冷遇し、異物として描いてきました。
「コンビニ人間」は、もう、無視できないくらい、この世の中に存在しているはずです。
歯車になること、システムの一部として機能することが快適な人に「もっと感情的になれ、セックスしろ、結婚しろ」という同調圧力を加えることが「正義」なのだろうか?
これを読んで、『異邦人』を思い出したということは、結局のところ、カミュの時代から、「コンビニ人間」の生きづらさは続いていて、おそらく、そう簡単に解決するようなものではない、ということなんですよね。
それでも、現在日本で進行している草食化、非婚化、少子化が、パワーバランスの劇的な変化のあらわれなのは間違いありません。
「日本人」「人類」という枠組みで考えると、「よくないこと」なのかもしれないけれど、「コンビニ人間」の増加は、もう、止まりそうもないのです。
古倉さんを「変な人」と屈託なく言いきれる人と、僕は友達になれそうもありません。
でも、こういう人が身近にいたら、それはそれで「めんどくさい」とか思ってしまいそう。
こちらは随時更新している僕の夏休み旅行記です。