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【読書感想】『週プロ』黄金期 熱狂とその正体 活字プロレスとは何だったのか? ☆☆☆☆

『週プロ』黄金期 熱狂とその正体 活字プロレスとは何だったのか?

『週プロ』黄金期 熱狂とその正体 活字プロレスとは何だったのか?


Kindle版もあります。

『週プロ』黄金期 熱狂とその正体 活字プロレスとは何だったのか?

『週プロ』黄金期 熱狂とその正体 活字プロレスとは何だったのか?

内容紹介
「みんなで真剣に本気でプロレスに関わった。
観た! 感じた! 語った! 狂喜乱舞した! 」
(第二代編集長 ターザン山本)

週刊プロレス』、全盛期には公称40万部を誇る怪物雑誌として
多大なる影響力を持っていた。スキャンダラスな誌面、取材拒否など事件の数々……
今だからこそ語れる『週プロ』の真実を当時の記者たちはもちろん、
プロレスラーや団体関係者、鎬を削っていたライバル誌の記者たちの証言をもとに、
インターネットが発達した現在では二度とないであろう活字プロレスという“熱狂"を検証します。

眠らない編集部が発信し続け、「業界」を震撼させた“活字"の正体とは
さまざまな形で『週プロ』に関わった21名の証言

杉山頴男(初代編集長)/ターザン山本(第二代編集長)/濱部良典(第三代編集長)/
市瀬英俊(元記者)/安西伸一(元記者)/小島和宏(元記者)/
佐久間一彦(第七代編集長)×鈴木健.txt(元記者)/鶴田倉朗(元記者)/
谷川貞治(元格闘技通信編集長・元K-1プロデューサー)/金沢克彦(元週刊ゴング編集長)/
永島勝司(元新日本プロレス取締役)/大仁田厚/宮戸優光、他


 『週刊プロレス』(以下『週プロ』)僕も中学校くらいのときに毎週読んでいました。
 全盛期とされる、ターザン山本さんが二代目の編集長だった、1987年から1996年には、最高40万部も売れていて、発行元のベースボール・マガジン社の屋台骨を支えていたそうです。
 タイガーマスクの「正体」がいきなり出てきたり、いろんなプロレス団体ともめて取材拒否を受けたりもしていたのですが、その取材拒否もネタにして読者をひきつけるような、そんな雑誌だったんですよね。
「活字プロレス」とは、よく言ったものだと思います。
 『週プロ』は試合をナマで観るよりも面白い、なんて、当時は言われていたものです。
 
 この本では、当時の『週プロ』で働いていた人やライバル雑誌の編集者、取材される側の選手など、さまざまな人たちが『週プロ』について語っています。
 読んでいると、身を削って書き続けた記者たちの姿に、あの時代の活字媒体、週刊誌というメディアの熱気が蘇ってくるのです。
 「今日はあの雑誌の発売日だ!」と、帰りに書店に寄るのが楽しみだった時代が、僕にもありました。


 ベースボールマガジンで、『格闘技通信』の編集長だった谷川貞治さんがみた、『週プロ』編集部の話。

谷川貞治当時は『週刊ゴング』のとの違いなんかあんまりわかってなかったですけどね。一番よく読んだのは『週刊ファイト』だったんだけど、子供の頃は『ゴング』だったかな。それで、最初に編集部に行った時、(ターザン)山本さんは机の下で寝てたんですよ。


──強烈な第一印象ですね(笑)。


谷川:市瀬君に「締切ですよ!」って起こされてガバッと起きて、その途端にイスに座ってガガガーッと原稿を書き始めたんです。牛丼か何かを食いながら書くからポロポロこぼすし、途中で手がかゆくなったのか、すごい勢いでかき始めて血が出てるし……。で、書き終わったら「ハイ!」って市瀬君に原稿用紙を渡して。何か珍獣というかね、「すごいヤツがいるなあ」と呆気にとられましたよ(笑)。


 『週プロ』の場合は、全国各地で行われる試合に足を運び、週刊で原稿を書かなければならなかったため、ものすごい仕事量だったそうです。
 みんながボロボロになりながら、自分が書くものにプライドを持っていた。
 当時はその作る側の熱意に応える、熱心な読者もいたのです。


 UWFなどに所属していたレスラー・宮戸優光さんは、『週プロ』の時代を、こう振り返っておられます。

──山本さんは、団体の格は関係なく、その週でいちばん感性にひっかかったものを表紙にしていましたからね。


宮戸優光何度も言うようですけど、それが数字にならないと意味がないわけで。そういう姿勢でありながら結果を出し続けたことが、編集長としてすごかったんだと思いますよ。


──それは、どんなこだわりのマッチメイクを組んでも、集客につながらなきゃしょうがないという、興行と同じですね。


宮戸:まったく同じです。僕もそういう考えで、いろんなカードを組んできたつもりですから。だから、かつての新日本と今の新日本が、名前は同じでもまったく違う団体のように見えるのと一緒で、『週プロ』も山本さん時代と今では、まったく違う雑誌に見えますよね。


──昔は毎週、賛否両論巻き起こしていて、今ならネットで炎上していてもおかしくない(笑)。


宮戸:だから、山本さんがああやって自由にできたのは、時代もあったかもしれない。あの頃は、プロレスのテレビ中継が深夜に追いやられて、テレビ放送がない団体もあった分、マスコミが好きに書ける土壌があったと思うんですよ。あれが80年代以前みたいに、ゴールデンタイムで放送されていたら、あまり極端な思い入れや主張というのは受け入れられなかったと思いますよ。って、みんなテレビで見て、ファンそれぞれの見方ができていたわけだから。そこで、あまりにも外れたことを主張したら、それこそ今でいう炎上をしていたと思うんですよ。でも、90年代というのは、テレビがない中で紙媒体が力を持って。実際に試合を観ていないファンは、雑誌によってそれらを知り、また幻想を膨らまされてたりしたんですよね。だから山本さんみたいな人からすると、ある種のコントロールができた時代だったと思うんですよ。あれがテレビ放送があったら、まったく違ったんじゃないかな。


──本来、雑誌は二次的なものであるはずなのに、当時の『週プロ』は一次的なものになってましたもんね(笑)。


 「新しい情報をインターネットでリアルタイムに知ることができる」ようになったのは、そんなに昔の話ではないのです。
 1990年代前半くらいまでは、贔屓の野球チームの試合経過を知るためには、夜にスポーツニュースを観るか、巨人戦で流れる途中経過を観るしかない時代でした。
 プロレスの場合、地上波で観ることができる試合は限られてので、『週プロ』を読んで、その試合を想像するしかなかった人が、大勢いたんですよね。 
 僕も、そのひとりでした。

 そうやって、活字から自分の頭で生み出された試合というのは、実際に見るよりも、はるかに素晴らしいこともあったのです。
 会場か一部の有料放送でしか観ることができなかったUWFの試合を、後年になってようやく映像で観たのだけれど、つまらなくて驚いた、という人も少なくなかったのです。
 ターザン山本さんが編集長だった頃の『週プロ』は、ちょうど、雑誌というのがいちばん力を持つことができた時代でもありました。
 たしかに、あの時代にインターネットがあったら、『週プロ』は、しょっちゅう炎上していたのではないかと思います。
 紙媒体だったからこそ、「炎上的な要素も含めて『週プロ』を楽しんでいた人たち」が集まりやすかった。


 この本では、ターザン山本編集長時代の『週プロ』だけでなく、その前後の時代、とくに、「ターザン後」の『週プロ』についても、丁寧に取材して書かれていました。
 曹操孔明もいなくなった『三国志』みたいなイメージだったのですが、活字の雑誌全般がインターネットに押され、部数も低迷していくなかで、どのように誌面を変え、生き残りを図ってきたかというのは、興味深い内容だったのです。
 
 「その後」の『週プロ』を長年支えてきた鈴木健さんは、こう語っておられます。

鈴木健結局、手柄は山本さんの時代になっちゃうんですよね。あの頃の『週プロ』はよかったってよく言われるんですけど、ずっといた人間としては心外で。そんなものは時代も違うし、団体との関係性も違うのに、それを横一線で並べられても困るんだよっていう話であって。今の人たちは今の人たちでベストを尽くしているわけだから、それをいちばん売れている時と比較して「あの頃のほうがよかった」っていうのは、それはないだろうって思いますね。雑誌っていうのは作る人間と時代によって変わっていくのが当たり前。だから僕は今の『週プロ』も読んでほしいですよ。「あの頃のほうが面白かった」というひと言で片づけられると、本当に彼らは報われないんで。それこそ現在も『週プロ』が続いているだけでもすごいことなんですから。


 僕はこの本を読むまで、『週プロ』がまだ続いていることすら知らなかったのです。
 にもかかわらず、「あの頃の『週プロ』は面白かった」って、ずっと思っていました。
 『ドラえもん』で、「やっぱりドラえもんの声は大山のぶ代じゃなきゃ!」って言いながら、『ドラえもん』を10年以上みていない大人と同じですよね。
 今の状況を確認しようともせずに「あの頃」ばかりを美化する人は多いのです。
 
 僕も久々に『週プロ』を読んでみよう、と思いました。
 僕自身のプロレスに対する情熱が昔ほどではない、というのは、否定しようのない事実ではあるのですが。


完本 1976年のアントニオ猪木 (文春文庫)

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