琥珀色の戯言

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【映画感想】ジョーカー ☆☆☆☆☆

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あらすじ
孤独で心の優しいアーサー(ホアキン・フェニックス)は、母の「どんなときも笑顔で人々を楽しませなさい」という言葉を心に刻みコメディアンを目指す。ピエロのメイクをして大道芸を披露しながら母を助ける彼は、同じアパートの住人ソフィーにひそかに思いを寄せていた。そして、笑いのある人生は素晴らしいと信じ、底辺からの脱出を試みる。


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 2019年、映画館での21作目。
 平日の朝からの回で、観客は50人くらいでした。


(今回はネタバレ感想なので、未見の方は、ぜひ映画館で観てからお越しください。というか、このブログは読まなくてもいいので、映画を観てほしい)



 本当にネタバレですよ!




 観てきました『ジョーカー』。
 なるべく事前の情報を入れないようにしていたのですが、『スター・ウォーズ・エピソード3』で、アナキン・スカイウォーカーダース・ベイダーになるのがわかっているのと同じように、アーサー・フレックがジョーカーになる、という結末はわかっているんですよね。
 では、彼はどのようにして、ジョーカーになるのか。

 正直、アーサーは、もっと普通の(っていう言葉には問題があるかもしれませんが)人で、過酷な環境に耐え切れなくなって、「怪物」になってしまうのだと予想していました。
 この映画でのアーサーは、もともと病んでいて、そのために世間にうまく適応できず、真面目に頑張ろうとすればするほど、そのズレが顕在化してきて、さらにつらくなってしまう、という悪循環に陥っていくのです。

 僕は、アーサーに感情移入するのは難しかった。
 「これを観たら、僕もジョーカーになってしまうのではないか」と危惧していたのですが、どちらかというと、「僕は無意識にアーサーのような人間を踏みつけているのではないか。いつか復讐されるのではないか」と怖くなったのです。

 その一方で、他人事とは思えないようなところも、少なからずありました。
 個人的には、冒頭のシーンで、宣伝のために看板をもってパフォーマンスをしていたら、街の悪ガキどもに看板を盗まれ、挙句に会社の上司から「雇い主からクレームが来ているぞ、看板を返せ!じゃないとお前の給料から差っ引くぞ!」と言われていたのが、けっこう観ていてつらかった。

 そんなの、どう考えても悪いのはあのガキどものはずなのに。
 でも、こういう「言い返せない人や目の前にいる人に責任を押し付けられること」って、本当に多いのだよなあ。
 僕自身は、押し付ける側にも、押し付けられる側にもなったことがあるので、なんだかとてもいたたまれませんでした。
 あの上司だって、客からのクレームをアーサーに押し付けなければ、自分が責任をとらなければならない。

 あの地下鉄で3人を撃ち殺すシーンも、観ながら、「もし僕がアーサーでも、あの状況なら撃つよな」としか思えなくて。
 この映画でアーサーが直接手を下している5人の人物については、地下鉄の3人については、「正当防衛」で、同僚に関しては、「自分を守る(秘密が漏れるのを防ぐ)」ため、マレーに関しては「権力を持つ者への反乱(父親殺し)」と、どんどん「社会的な殺人」になっていくのです。

 少なくとも、作中に描かれているものは「抑圧されていることを社会にアピールするための無差別殺人」ではありませんでした。
 秋葉原の事件などと比較すると、共感しやすい、とも言えます。
 そういう「無差別的なもの」のほうが、勝手に解釈する人が大勢あらわれて、意味があるように見なされることもあるのです。

 最近、無謀なあおり運転をされたり、自転車で後ろから猛スピードで突進してきてベルを鳴らし、舌打ちしたり、レジの前でいつまでもしゃべってばかりで会計を済ませなかったりする連中に対して、僕はすごくイライラするんですよ。
 ああ、こういうのが更年期なのかな、と。
 もし僕が「デスノート」を持っていたら、お前の名前を書いてやるのに!と思うことばかりです。

 なんのかんの言っても、おそらく「凡人」の大部分は、そう簡単には殺せないし、殺したとしても踊り出したりはしない。
 ただ、そういう「理性」とか「良心」みたいなものが、「持てる者」たちによって、うまく利用されているだけなのだ、と「啓蒙」してしまう怖さが、この映画にはあるのです。


 ただ、「ここで描かれているものは、どこまでが『本当』なのか?」という疑問はあったのです。
 いや、もともと映画はフィクションなわけですけど。

 観ていると、いくらゴッサム・シティが無法地帯でも、あまりにもいろんなものが杜撰なことに違和感があります。
 電車内で、あれだけの事件を起こしていて、犯人の特定にそんなに時間がかかるとは思えないし(監視カメラとかがない時代だとしても)、母親の首を絞めて殺害した、というのも、重症患者でモニターもついていたので、心拍数に異常があれば、病院のスタッフが駆けつけてきたはずです。

 もしかしたら、この映画で語られていること全部が、アーサーという男の妄想だったのではなかろうか。
 アーサーは妄想癖の強いコメディアンで、彼はただ精神病院に入院していただけで、地下鉄でピエロのメイクをした男の殺人も、「自分がやった」と思い込んでいるだけで、番組でマレーと口論になり、撃っただけなのかもしれない。
 いや、マレーを自分が撃った、というのも「妄想」なのかもしれません。

 「ジョーカー」は、特定の「誰か」ではなくて、偶像であり、「自分は踏みつけられている、存在を無視されている」と感じている者たちが、次から次へと「ジョーカー」の姿と思想を受け継いでいるのではないか。

 ひとりひとりのジョーカーは死んだり、病院に放り込まれたりするけれど、「ジョーカー」の名跡は死なない。
「中の人」は入れ替わっていきながら、「ジョーカー」は存在しつづけるのです。
 白土三平さんの漫画を思い出します。

 もう、何を信じていいのやら、って感じです。

 ただ、この「全部妄想なんじゃないか」という疑念は、観客を救っている部分もあるんですよ。
 この映画で語られているアーサー・フレックの物語を辿っていくと、「彼はここで間違ってしまった」という分岐点が見いだせないから。
 その場その場で、「こうするしかないだろうな」という選択をしているにもかかわらず、何もかもがうまくいかない。
 バッドエンドしかない一本道RPGみたいなものなんだよなあ。
 むしろ、「妄想かも」という逃げ道が用意されているから、エンターテインメントとして踏みとどまれているような気がします。

 こういう人生は、たぶん、特殊なものじゃない。
アーサーは善人であろうとした、守るべき「母」という存在がいたから迷ったけれど、「もうどうでもいいや」とか、「せめて何か(悪事でも)爪痕を残して死のう」とかいう人は大勢いるのです。
ラストの暴動をみながら、僕は、暴動と革命って紙一重というか、うまくいくかいかないか、だけの違いなのかもしれないな、と考えていました。
暴動が起こらない国というのは、いまの僕にとっては平和だし、暮らしやすい。
でも、「真面目に働いても、給料が安くて生活できない」とつぶやくと、「それはあなたがその仕事を選んだからだ。自己責任だ」というレスが(たぶん、同じような立場である人からの反応も含めて)山ほど返ってくる社会と、「格差社会と身を挺して闘おうとする若者たち」がいる社会とは、どちらが「マシ」なのだろうか。

 この映画の感想をうまく書こうとしたのだけれど、全然ダメで、もどかしいかぎりです。

 ただ、とにかく、久々にすごい映画をみたな、とは思っています。


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