琥珀色の戯言

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【読書感想】村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事 ☆☆☆☆

内容紹介
その原動力はどこからくるのか ―― 翻訳者・村上春樹が、 70余点の訳書と、36年にわたる道程を振り返る。 訳書、原書の写真多数。 柴田元幸氏との対談もたっぷり収録。


 作家が翻訳をやるのは、そんなに珍しいことではなさそうな気がしていたのですが、あらためて考えてみると、「こんなにたくさん翻訳の仕事をしている小説家は、森鴎外村上春樹くらい」なんですよね。
 この本では、村上さんがこれまで翻訳してきた70冊あまりの本(絵本もあります)のそれぞれについて、翻訳時のエピソードや作品への思い入れを語っておられます。
 こうしてまとめて眺めてみると、「村上春樹好みの小説」というのが見えてくるような気がします。
 僕は村上さんの小説をたぶん全部読んでいると思うのですが、翻訳本については、そんなにたくさん読んではいないのです。
 村上さんが訳したものだから読む、というわけではなくて、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』や『ロング・グッドバイ』『グレート・ギャツビー』など、「有名な作品なんだけれど、なかなか読む機会がなかった本」を「村上春樹訳がきっかけで手にとった」ということが多いのです。
 この本を読んで、レイモンド・カーヴァーの『大聖堂』とか、ちゃんと読んでみよう、と思いました。


 翻訳というのは、「I」という一人称をどう訳すかだけでも難しい。
レイモンド・カーヴァーの『ファイアズ(炎)』の項より)

 レイモンド・カーヴァーは、貧しい労働者階級の家の子どもだった。でも勉学を志して、苦労して大学に行って、大学で教えるまでになった。だから出自はブルーカラーだから「俺」のほうがいい、「僕」は違う、と言われると、それはちょっとないんじゃないかと思う。そういう意味でも、「俺」「僕」「私」の選び方はとても難しい。
 実際に会ってみると、カーヴァーはとても穏やかで、ジェントルで、繊細な感じのする人だった。大柄なんだけど、マッチョなところはまったくない。


 日本語の「人称」というのは本当に難しいですよね。
 同じ「ブルーカラー」でも、「本人がインテリジェントを志向している」のであれば、「俺」じゃないですよね、たぶん。


 また、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』の項では、こんな話をされています。

 いったん取りかかってみると、フィッツジェラルドの書く精緻な文章は、本当に難物だった。文章が渦を巻くというか、あちこちでくるくると美しく複雑な図形を描き、最後に華麗な尾を引く。その尾の引き方を訳すのはすごく難しいんです。でもそのくねり感覚とリズム感覚さえいったんつかんでしまうと、コツみたいなのが見えてくる。なにしろ好きな作品だから、すべての苦労がそのまま楽しい作業になった。


 小説の場合、内容が伝わればいい、というわけではなくて、文体やリズム感も意識しなければならないのです。
 とはいえ、それを言語が異なっても移植できるのだろうか、と疑問になります。
 英語圏の人が英語の作品を読むのと同じようには、日本人はその日本語訳を読むことはできないのではないか。
 まあ、このあたりは、微妙なところではありますし、村上さんの話を読んでいると、作家側からすると「100%ではないかもしれないが、それも含めて翻訳することは不可能ではない」ようです。


 この本の後半部分には、柴田元幸さんとの翻訳についての対談が収録されています。
 村上さんが、小説家としてデビューして間もないころ、翻訳をやりはじめたときの話をされているのですが、安原顕さんのことも出てきて、ああ、村上さんにとって、安原さんの話はNGじゃないんだな、と意外でした。

村上春樹僕はね、小説に関してもおおむねそうだけど、自分の書いた文章に対して何か注意されても、あまり気を悪くしないたちなんです。


柴田元幸そう、それがね。村上さんの本当に稀有なところだと思います。翻訳って、なまじある程度は正解・不正解があるから、直されるとみんな傷つくというか、なんか根に持つみたいなんですよね。


(中略)


村上:小説に関しても、僕はジャズ喫茶の主人からある日、突然小説家になってしまったような人だから、はたからあれこれ言われるのはまあしょうがないだろうと思って生きています。おまえには言われたくないよというやつは、もちろんいるんだけど(笑)。でも、文句を言われること自体に関しては、僕はあんまり気にしない。昔から気にしなかったし、今でも気にしない。所詮、不完全な人間が不完全な小説を書いているんだから、何を言われてもしょうがねえだろうと。


——編集部:小説の原稿のことだったと思いますが、何か指摘があるということは、何かしらの問題があるはずだから、指摘のとおりに直すとは限らないけれども、必ずそこについては考えることにしているとおっしゃっていましたね。


村上:小説に関してはね。小説に関しては、とにかく何か文句をつけられたら、その文句をつけられた部分はなんらかのかたちで書き直してやろうと、最初から決めています。どんな文章にも必ず改良の余地はあるというのが、僕の基本的な考え方ですから。でも翻訳の場合はだいたいにおいて、間違いか間違いじゃないか、どのどっちかしかないわけですよね。あくまでテクニカルな問題です。小説の場合は、間違いか間違いじゃないかだけの話ではないです。おおげさにいえば、世界観の検証みたいなことになってくる。
 翻訳に関しては、これはもうとにかくテクニカルに完璧に近づけていけばいいんです。


 村上春樹さんというのは、これだけのベストセラー作家にもかかわらず、「とりあえず他者の意見を聞いてみる」というフラットな感覚を持っている人なんですね。
 もちろん、「意見を聞く相手」は、それなりに選んでいるのだとは思いますが。


 また、「翻訳の更新=新訳」については、こんな話をされています。

村上:たとえば、1961年に書かれた日本の小説で、今読み返してもほとんど古びていないというものは、もちろんあるわけですよね。それに比べて、翻訳の仕事はどうしても古くなります。これは避けがたい現象ですね。不思議だけど。古びないオリジナルはいっぱいあるけれど、多かれ少なかれ古びない翻訳はない。だからもちろん、僕の翻訳だってあと五十年たてば、「古いなぁ」ってみんなぶつぶつ文句を言うだろうと思うし、それは更新されていって当然だと思うし、それは更新されていって当然だと思うんです。
ロング・グッドバイ』も、ミステリー・ファンのあいだでは清水さんの訳が聖書みたいになっています。だから「何が『ロング・グッドバイ』だ。これは『長いお別れ』だよ。題からしてピンと来ない」って言われたりします。でも僕の感覚からすれば、The Long Goodbyというのは、「途中で長く間の開いてしまった、引き延ばされたさよなら」であって、「長い」「お別れ」とはちょっと言葉のニュアンスが違うんですよね。だから清水さんと同じ邦題は使わなかった。これはあくまで感覚の問題です。


 原典は古びにくいけれど、翻訳はすぐに古くなってしまう。
 たしかに、昔の翻訳は、いまではけっこう読みづらいものが多いのです。
 『ロング・グッドバイ』については、僕自身は『長いお別れ』という題が格好良くて好きなんですけど。
 でも、その印象が強すぎるからこそ、『ロング・グッドバイ』というタイトルにせざるをえないところもあったのかもしれません。


 翻訳家としての村上春樹さんの仕事の内容と、考え方がよくわかる本だと思います。
 翻訳はちょっと、ね……という人も少なくないようですが(僕も正直、ちょっと苦手です)、たまには手にとってみようかな、という気がしてくる一冊です。
 ちなみに、村上さんの翻訳では『フラニーとズーイ』が、僕はいちばん好きです。


fujipon.hatenadiary.com
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大聖堂 (村上春樹翻訳ライブラリー)

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ロング・グッドバイ フィリップ・マーロウ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

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