- 作者: 佐藤敏章,ビッグコミック1編集部
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2010/09/30
- メディア: 単行本
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編集者が語る手塚治虫の素顔と創作の秘密!
ストーリー漫画の地平を、ほとんど一人で切り開いた天才・手塚治虫。この漫画の神様も、編集者という数多の影の伴走者たちがいた。今も語り継がれる数々の"手塚伝説"の真相を追って、13人の"手塚番"と、手塚プロダクション社長、"初代アシスタント"藤子不二雄A氏にインタビュー。昭和20年代の文字通り"ストーリー漫画=手塚治虫"の時代に始まり、人気作家・手塚治虫の原稿を手に入れようと狂奔する"手塚番"がしのぎを削った昭和30年代を経て、手塚治虫の作劇法に根本的な疑問を呈する編集者が登場する晩年の60年代までを網羅。漫画の神様・手塚治虫を中心とした日本漫画発展の裏面史がビビッドによみがえる。あだち充氏、高橋留美子氏、竹熊健太郎氏絶賛。
「手塚治虫」という「マンガの神様」には、その偉大さとともに、さまざまな「伝説」が残されています。
僕が知っているものとしては、『巨人の星』が大人気だったときに、自分の担当編集者に気色ばんで「このマンガのどこが面白いのか教えてくれ!」と迫ったとか、原稿があまりに遅いので、担当編集者がずっと泊まり込みで大勢詰めていて、手塚先生の身柄の奪い合いになったとか。
赤塚不二夫先生の「伝説」が、多くの有名人との交流やプライベートでの「奇行」などの楽しいエピソードに彩られているのに比べて、手塚先生のエピソードは、そのほとんどが仕事である「マンガ」に関するものです。
そういう意味では、ほんとうに、「マンガを描くことが、手塚先生の人生だったのだなあ」と思わずにはいられません。
結果として、手塚先生は、赤塚先生よりも、ずっと息が長く(それは、ストーリーマンガとギャグマンガの特性の違いがあるにせよ)、多くの作品を遺すことになりました。
この本では、そんな手塚先生の歴代の「担当編集者」たちが、もう亡くなられてから20年以上が経ったこともあり、かなり率直に「間近で見た、人間・手塚治虫」について語っています。
それにしても、こうして担当者と担当作品を眺めてみると、あの手塚先生でも、大ヒット作品ばかりじゃなかったんだな、というのをあらためて感じずにはいられません。
それでも、「手塚治虫は、やっぱり、手塚治虫」として丁重に扱われ続けていたというのは、「マンガの神様」として尊敬されていたからなのでしょう。
著者は、「はじめに」こんなふうに書いています。
手塚治虫先生は原稿の上がりが遅い、そいう話は、どういうわけか、九州の片田舎の漫画少年であった私の耳にも届いていました。さんざん待たされたあげく、結局締め切りに間に合わず、渡された原稿を引きちぎり、「もう間に合わないんだよ!」と、ひと声吠えて、そのまま会社をやめた”手塚番”がいるという噂も、友人の漫画家のたまごから、出版社に入る前に聞いていました。
幸か不幸か私自身が”手塚番”になることはありませんでしたが、漫画編集者として四半世紀を過ごし、漫画家との数々の軋轢や葛藤を経て、ふと思ったのは、手塚漫画が、現代のストーリー漫画を考える際の原点であるように、”手塚番”が、漫画家と担当編集者の関係の、少し極端ではありますが、典型ではないか、ということです。
第1のエピソード「神様を殴った男」(これもすごい「釣りタイトル」!)に登場する小学館の志波秀宇さんは、当時の”手塚番”の仕事について、こんなふうにおっしゃっています。
志波:俺の時代は、富士見台の駅前の4階建てのビルの3階に手塚プロがあった。3階のワンフロアに編集者控室、ベッドルーム、事務室、アシスタントの部屋、それから、手塚先生の部屋。編集者控室には、だいたい4社から5社の編集者が泊まり込んでいた。
――泊まり込みが続いちゃあ、残業多くなりますね。
志波:多い。めちゃくちゃ。連続18泊とかね。
――18泊はすごいですね。担当者がついていないと、手塚先生、描かないんですか?
志波:脇役の超脇役、どうでもいいその他大勢のキャラクターの顔が、描かずに置いてある。これが決まんなかったから、上がんなかったっていうんだ。「ここでちょっと引っかかっちゃって」とかね。とにかく、自分とこの作品にかかったら、いなきゃダメ。かかる前でもね、少し時間があったりすると、ちょっと帰って飯でも食おうかなって思うじゃない。そうするとね、ソーッと帰ったにもかかわらず、わかるんだよね。「ご相談したかったのに、いない」なんていわれちゃう。アシスタントに聞くとね、たしかに、志波さんのことを呼んでました」って。
――それって何なんでしょう? 自分は、こんなに一所懸命やってるんだから、担当だったら、ちゃんとそばにいろってことなのかな?
志波:寂しがり屋だね。ずーっと自分のこと思ってて欲しいんだね。
――手塚先生って、編集者をどのあたりまで入れるんですか、企画の中に。
志波:すべて自分の思いどおりに持っていくんだけど、ものすごく心の弱い人ですから、担当者に相談するんですよ。「これで良いです」という言葉を聞きたいんだ。締め切りが迫ろうが何しようが、担当者が良いといわない限り、できない。必ず聞いてきます。
「原稿ができあがるのをひたすら待つだけ」の仕事なんて、ラクなんじゃない?
というようなことを僕は考えていたのですが、この話を読んでいると、少なくとも”手塚番”は務まりそうにありません。
「連続18泊」って、そんなに長い間家に帰ってひとりで眠れないというだけで、ものすごくストレスなはず。
しかも、手塚先生がうるさい小姑のようにチェックしている、というのですから……
その一方で、編集者の側も、手塚先生の「弱さ」を理解していて、「自分がいなきゃダメなんだな」と意気に感じている面もあったようです。
でも、結局のところ、いろんな「問題点」があったとしても、「手塚治虫」というマンガ家には、すごい魅力があったんですよね。
講談社の丸山昭さんへのインタビューへの一部です。
――さて、たくさんの選りすぐりの才能を目にされてきた丸山さんから見て、手塚先生の、さらに突出したところってなんですか。
丸山:あの人は人に優れた能力があるだけでなく、人の持たない能力を持った異能の人だと思うんですよ。例えば、あの人の記憶力は、直感像という、デジカメと同じで、思い出そうとすると、原稿のどの場面でも瞬時に、たぶん見開き単位で頭の中に出てくるんですよ。これは、松谷さん、手塚プロの社長に聞いた話ですが、まだ、ファックスがなかった時に、アメリカから絵柄を送るのに、こっちに方眼紙用意させといて、その目盛を座標のように使って絵柄を電話で伝えたらしいんです。帰ってきた時、アシスタントが、「先生、オリジナル見せてください。受けたものと照合したいんで」っていったら、「そんなのないよ」って。「全部頭の中だよ」って。
(中略)
――手塚番だった丸山さんにとって、手塚先生って……
丸山:No man is a hero to his valet. (英雄も側近の目にはただの人)っていうでしょう。
従卒から見ると、英雄もただ人だって。あれです。横で見ていると、手塚さん、わがままだし、やきもち焼きだし、原稿遅いし、約束守んないし。「こんな野郎とは、1日でも早く別れたい」と思うけど、遠く離れるとね、富士山じゃないけど、その高さ、姿の美しさがわかる。手塚さんが手塚番を虜にするのはそこですね。
朝日ソノラマの松岡博冶さんのお話。
――『火の鳥』を実際に担当してみて、どんな感じでした?
松岡:「あ、漫画で文学ができるんだ」という驚きですよね。漫画で文学やっていいんだと。文学やるんだから、”ひき”は関係ないと。つまり連載の時には読者の反応は無視してもいいんだと。
――また大胆な(笑)。
松岡:思いましたね。まとまった段階での評価だって感じがしました。そう思ってましたら、担当として先生に、「ここダメだから、こう変えてください」とは、なかなかいえないわけですよ。『火の鳥』は、ずーっと最下位に近い方ですからね、読者アンケートをとると。途中から読んだらわかんないですから。
――商売としては、最終的に単行本にまとまった段階でペイすればいいんだという風な。
松岡:そうです。
手塚先生の「歴史的名作」である『火の鳥』が、雑誌連載中にはそんなに人気がなかったというのは、はじめて知りました。
でも、たしかに「途中から読んでも、全然わからない」ですよね。
「人気至上主義」のマンガ雑誌ばかりだったら、『火の鳥』が、こんなふうに形になることはなかったのかもしれません。
ある時期から、手塚先生の作品は、読者よりも、「マンガを愛する編集者」たちに支えられていた面があるような気がします。
その代表が、『週刊少年チャンピオン』の名物編集長だった、壁村耐三さん。
壁村さんはいつも酔っ払って手塚先生の仕事場にあらわれ、「締め切り違反の常習だった手塚先生を殴ったり、原稿を破り捨てたという伝説」もあった人なのですが、その一方で、劇画ブームの最中にあって人気が落ちていた手塚先生にずっとオファーを出し続け、『ブラック・ジャック』での「復活」を後押しした人でもあります。当時、「もう終わった」と言われていた手塚先生の起用に、社内でも反対の声が大きかったそうですが、壁村さんは「先生の最後を看取ってやらないか」という台詞でまわりを説得したそうです。
壁村さんに手塚先生のことをぜひ聞いてみたいな、と思いながらこの本を読んでいたのですが、残念ながら、壁村さんは故人となられており、もう、その言葉を聞くことはできません。
ただ、「もっとも手塚先生に失礼なことをしていた編集者が、ずっと手塚先生を信じ、期待し続けていた」という事実に、なんだかすごく胸を打たれました。
これもまた、ひとつの「人間関係」なんだよな、と。
最後に、この本の内容ではありませんが、僕がいままでにいくつかの本で知った「手塚先生側」のエピソードを、参考までにいくつか御紹介して終わりにします。
『ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘』(文藝春秋)での手塚先生の娘・るみ子さんによる「まえがき」の一部です。
中学生の夏休みのこと。いつものように父は箱根旅行を計画したのですが、わたしは吹奏楽部の合宿と重なり、また家族旅行がかったるい年頃にもなっていたので、「わたしは行かないよ」と断ったことがありました。父はすっかり不機嫌になり、子供のようにふてくされていました。結局「忙しいお父様が、せっかく予定を立てたんだから」と母に説得され、半ば強制的に家族旅行へ参加させられたのですが、仕事に追われていた父は最後まで旅館に現れず、「こんなんだったら合宿にいればよかった」と、わたしはさんざん母に文句を言ったものです。
漫画家の先生のなかには、父に仲人を頼むこともあったそうですが、大遅刻したり、ひどいときには現れなかったりしたそうです。「そんなことなら引き受けなければいいのに」と思うのですが、いま思えば、人に頼りにされるのが嬉しく、誰かを喜ばせたい一心で、安請け合いしちゃうんでしょうね。それもこれも、父のサービス精神の現れかと。人と楽しませること、喜ばせることが、手塚治虫の創作の源。生来のエンターテイナーです。
こういう話を読むと、「みんなを喜ばせたい気持ちから、人の頼みを断れずに、スケジュールを詰め込みまくってにっちもさっちもいかなくなっている手塚先生の姿が浮かんできます。
手塚先生の仕事ぶりは、福元一義さんが書かれた『手塚先生、締め切り過ぎてます!』によると、
ちょっとここで、当時の手塚プロの締め切り進行のことを話しておきましょう。週刊誌の場合、掲載誌の発売日から逆算して1週間前というのが、編集者との間でもタイムリミットとして暗黙の了解事項となっていました。
それが『アドルフに告ぐ』の場合は、3週間以上も早いスタートとなったのです。担当の編集者もスタンバイしていないのに原稿が出てくるなど前代未聞で、先生の体調も安静養生を医者から厳命されていて、執筆活動自体を慎まなくてはいけないような状況なのに、無謀としかいいようがありませんが、同時にこの作品にかける、先生の熱い思いを感じたものです。
翌15日になって、『ブラック・ジャック』がまず20ページ台に到達して脱稿し、16日には『陽だまりの樹』が18ページで脱稿。またその他につくばの科学博のポスター(B全大)1枚も完成しています。そして17日午後9時、『アドルフに告ぐ』第1回10ページが、発売日から約3週間前という早さで脱稿しました。通常の手塚プロ漫画部としては、光速に等しい進行です。
引き続いて、19日には『ブラック・ジャック』の2作目20ページを脱稿。そして、2日おいて21日には、第2回目の『アドルフに告ぐ』10ページを脱稿しています。実に、11日から21日までの10日足らずの間に、漫画78ページとB全のポスターを1枚仕上げたことになります。
今になって振り返ると、その中にはアイデアに時間がかかる1話完結の短編が2本と、骨格をしっかり決めてから始まる長編の新連載が1本あることを考えると、とても医師に安静を言い渡された作家が病床で執筆した量とは信じられません……が、前述の私の就業日誌には、当たり前のように
「21日『アドルフに告ぐ』第2回10ページ 脱稿」
とだけあります。
というような、アシスタントが大勢いたとしても過酷なものだったのですが、これも、本人としては、「イヤイヤながらやっていた」のではなくて、「描きたいものがたくさんあったのに、とにかく時間のほうが足りなかった」と考えると、「そんなに働かなくてもよかったのに……」というのは、外野のおせっかいであるように思われます。
まあ、仲人を頼んでいたのにドタキャンされた人は、困ったでしょうけど……
結局のところ、「良い作品をつくりたい」という手塚先生と編集者のせめぎあいが、数々の「伝説」を生んだということになるのでしょう。
いや、僕も”手塚番”になりたくはないですけどね……
この本で、あとひとつ興味深かったのが、最後に収録されている、藤子不二雄Aこと、安孫子素雄さんの話でした。
これは、手塚先生というより、長年のパートナー、藤子・F・不二雄こと、藤本弘さんについて。
――安孫子さんが手塚先生のお仕事を手伝われることは、たびたびあったようですが、藤本さんは?
安孫子:藤本氏は一切ないです。全くないです。
――なぜでしょう?
安孫子:彼はね、できないです、そういう器用なことは。やっぱり、先生の手伝いするっていうのは、先生の絵を真似る、似せなきゃいけないわけで、タッチだって。人物は入れないけど、バックにしろ、何にしろね。藤本氏、そういう器用さはないんです。一直線に王道を走ってるから。僕はわりと、そういうとこはうまいのよ、合わせるというか。
「できない」藤本さんと、その相棒を「そんな器用なことはできない」と言いながらも、それを責めることもなく、受け入れていた安孫子さん。
たぶん、「藤本はなぜ手伝わないんだ」っていうようなプレッシャーも周囲からはあったんじゃないかと思うんですよ。
これほど違うふたりが、お互いの才能を認めたがゆえに一緒に歩いてきた「まんが道」。
どんな才能も「人間関係」に恵まれないと、花開くのは難しいのかもしれませんね。