琥珀色の戯言

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「お手本の国」のウソ ☆☆☆☆

「お手本の国」のウソ (新潮新書)

「お手本の国」のウソ (新潮新書)

出版社/著者からの内容紹介
フィンランドの教育法 ◇フランスの少子化対策
◇アメリカの陪審制 ◇イギリスの二大政党制
ホントに真似して大丈夫? 現地からのリアル・レポート


著者について
ジャーナリスト。地方紙記者を経て、1996年よりドイツ在住。州立ハノーバー大学社会学修士課程修了。著書に『ニッポンの評判』(共著)。ほか中島さおり(フランス)、靴家さちこ(フィンランド)、伊藤雅雄(イギリス)、伊万里穂子(アメリカ)、内田泉(ニュージーランド)、有馬めぐむ(ギリシャ)。


 この本のタイトルを見たとき、「フィンランドの教育って、本当はひどくて生徒はバカばっかり!」とか、「フランスは本当は子供が少ない!」というような「驚天動地の真実」が書かれているのかと思ってしまいました。


 でも、実際はこれ「釣りタイトル」みたいなもので、「それらのシステムは、日本人が崇め奉っているいるほど特別にすぐれたものじゃないんですよ」あるいは「それぞれの国の事情によってできたもので、日本には真似することが難しいんじゃないでしょうか」「デメリットも少なからずあるんですよ」というのが、その国で生活している人の視点から書かれている新書です。
 それはある意味「良心的で誠実な内容」だとも言えると思います。


 この新書のなかで、僕がとくに面白いと感じたのは、アメリカの陪審制について書かれた章と、ニュージーランドが「自然保護大国」になるまでの歴史が紹介されている章でした。

 
 陪審制についての章は、とくに印象的で、「なんでこんな制度を日本は参考にしたんだ?」と驚くばかりです。
 アメリカでは、裁判官1人による裁判と、陪審裁判を選択できるそうなのですが、12人の陪審員は「平等に」選ばれているわけではなく、50人くらいの候補者のなかから、検察側と弁護側がそれぞれ、陪審員を「あの子が欲しい」と選んでいくのです。
 もちろん、明らかに「思想的偏向」がありそうな人は、相手サイドから「その人はダメ!」と拒否されます。

 書記官になってから私が目にした陪審員候補者は、もう数千人になるはずだ。近頃ではその人を見た途端に、陪審員に選ばれそうか、そうでないかも分かるようになってきた。善良そうな40代、50代の男女で、普通に高校か大学を出て勤めている人、というのがとりあえずのお約束だ。あまりに高学歴の人は敬遠される。日本のように出身大学が自己紹介の一部、ということのないアメリカだが、最終学歴、専攻を答えさせられる案件もあるのだ。同業者は嫌われる傾向があるので、法学部を出ている人や弁護士はまず選ばれない。これは「弁護士がいいように話をもっていったことを鵜呑みにする」ほど純朴で、理屈っぽくない人というのがどちらのサイドにも都合が良いからだ。

 正式に陪審員に選ばれた12人は、月曜から金曜まで毎日裁判所に通い、朝9時から4時半まで「勤務」する。平均的には4〜5日、長い裁判になると3週間から1か月ということもある。


(中略)


 陪審員の日当はたったの15ドル(約1000円)。交通費としてガソリン代も出るが、1マイル(1.6キロ)につき数セントしか出ないため、ほとんど足しにはならない。ちなみに日本の裁判員は日当8000円から1万円だそうだ。
 法廷内で陪審員に用意されている椅子は、座り心地が最低というしかない古い椅子をいうのがお決まりだ。1970年代から交換されておらず、シートが潰れて下のコイルが浮き出てしまっているようなものか、木の椅子の場合さえある。これに8時間座って、「自分にとっては関係のない他人の争いごと」について、双方の弁護士が口から泡を飛ばしながら主張しあうのを聞く。いくら義務でも、「責め苦」としか表現のしようがない。お給料をもらっている私ですら聞いていて「あの弁護士、あとどれくらいしゃべるつもりなんだろう……」とイライラしっぱなしなのである。

 この章の著者は、カリフォルニア州の裁判所に書記官として勤務されているので、他の州では、もしかしたら陪審員の待遇が全然違う、ということもあるのかもしれませんが……
 たしかにこれでは、「陪審員には選ばれたくない」だろうなあ、と思います。
 日本でも「裁判員になって、人を裁くなんて……」という人は多いようですが、それでもまだ、「陪審員先進国」アメリカより、はるかにマシな待遇なんですね……
 そして、多くの人種・宗教・民族が生活しているアメリカでは、陪審員の適性審査の時点ではみえなかった「偏見」を持っている人も少なくないようです。
 著者の夫が陪審員に選ばれた際、ある中年女性の陪審員が「メキシコ人の言うことなんてあてにならない。あの証言は信じない」と言い切っていたそうです。
 僕自身は、裁判員制度というのは、「判例主義にこだわらない、(とくに)被害者側の立場からの『実感』みたいなものが判決に反映される制度」だという意識があったのですが、このアメリカでの話を読んでいると、陪審員の「偏見」が入り込んでくるリスクのほうが怖い気がしてきました。


 一般の人々の「印象」が大事だという点では、最近、こんな事例もあったそうです。

 カリフォルニアの動物園でトラが逃げ出し、そのトラに20代の男性3人組が襲われ、2人は大怪我、1人がかみ殺されるという事件があった。監視カメラの映像からは3人が大麻を吸った後、ケージの中にいるトラに石や木の枝を投げたりして散々いじめ、からかっていたことが分かった。それで堪忍袋の緒が切れたトラが、絶対に越えられないと計算されていた塀を飛び越えて逆襲に至ったのだ。
 正直に言って3人が手出しをしなかったらトラは今もお客を楽しませていただろう。さらに事件後、生き残ったうちの1人が他の郡で万引きをしてつかまったことが報じられ、やはりチンピラの悪行だったのかと世間でもトラの方に同情的だった。彼らは動物園に損害を与えたことで刑事告訴されるとの見方もあったが、不起訴処分に終わっている。
 だが、これで終わりではなかった。かみ殺された男性の遺族と被害者2人が動物園を訴えたのだ。そもそも自業自得じゃないか、どんな理由で訴えるのかと思ってしまうが、そこはアメリカ、安全でない設計をした動物園が「いけない」という理屈も成り立つ。

 これ、どんな結末になったと思いますか?
 著者によると、結果的には裁判にはならず、法定外での示談が成立したそうです。
 示談の金額は非公表。
 なんで動物園側が示談に応じたんだ……と愕然としてしまう結末なのですが、動物園側が折れた理由は、次のように報じられているそうです。

 動物園側が折れた理由は被害者側が雇ったテクノロジーコンサルタントが制作したCG画だったそうだ。被害者たちが逃げまどうところを、凄いジャンプで追いかけてくる大きなトラ。顔写真も使われたリアルすぎる再現CGに、動物園側はこれを陪審員が見たら大負けするかもしれない、と折れたらしい。

 うーむ、これでいいのか、陪審員裁判……
 でも、「素人」が「自分の良心に従って」判決を出すとすれば、こういう「印象操作」が有効であることは間違いないでしょう。


 著者は、最後にこんな「陪審員ジョーク」を紹介しています。
 (あえて訳は引用しませんでした)
“Do you want to be judged by someone who was not smart enough to get out of Jury duty?”



 「自然保護大国」ニュージーランドについてのレポートも、僕にとっては、かなり衝撃的なものでした。

 その後、新しく誕生した自然保護省のもとでは、さらに積極的な保護策が採られ始める。それは、島全体の天敵をすべて駆除するという方針である。
 北島西海岸のカピティ島保護区がその端緒となった。数多くの固有種が生息する1965ヘクタールというこの大きな島全体を網目状に区切り、毒を仕掛けてネズミを駆除することが試みられたのだ。そんな大きい島に無数にいるネズミを全部駆除できるはずはないと、この考えは当初誰にも受け入れられなかった。が、現地のレンジャーが頑固に実行に移した結果、駆除に成功。そのおかげでカピティ島内の固有生物は一気に数を増やしていった。
 この成功に励まされるかたちで、ニュージーランドはさらに多くの離島において駆除作戦を展開、2003年には1万1000ヘクタールもの広大な亜南極のキャンベル島のネズミ駆除にも成功している。これにより、キャンベル島に生息するキンメペンギン、ロイヤルアルバトロス、そして無数の海鳥たちの安全は保障されたのである。

この新書によると、同様の「天敵絶滅計画」は、ニュージーランド本島でも実施されたそうです。
これを読んで、僕は「在来種を守るために、その天敵となる種を『絶滅』させる」という考えかたに違和感がありました。
「そんなの人間の都合で、ネズミだってひとつの命だろうに」って。


しかしながら、著者は、この件についてのニュージーランドの「覚悟」を、こんなふうに紹介しています。

 日本で生態系を守るためにある地域の外来生物を駆除しようとすると、どうしても「可哀想だ」「どんな生物にも生きる権利がある」という話になってくる。捕まえて他のところに移すなどの意見も出てくるが、それでは被害を他所に移すだけである。この点、ニュージーランドは徹底している。
外来生物がいると原生種は危機に脅かされる。だから、外来生物に罪があるわけではないが、ここでは駆除しなくてはならない」――この断固たる姿勢が、崩れない。
「でも、毒を撒いたりしたら、生態系に良くない影響を与える」「人間には影響はないのか」「在来種だって死ぬものもあるだろう」「それに、在来種を守ることに、それほどの意義があるのか」。このような意見も出てくる。
 こうした多くの反対意見に対し、自然保護省であれ、市民主導の保護団体であれ、行うことはただ一つである。それは、関係者との徹底的な話し合いだ。説明責任という言葉が最近よく言われるが、ニュージーランドの保護の現場においては、とにかく何度も説明会を開く。そのあとでまた相手の意見を聞く。そして説明をする。この繰り返しの中から次第に住民の理解を勝ち取るという方法論である。
 その結果、対立していた市民なり団体なりが、保護活動の熱心な支持者に変化することも珍しくない。もともと対立するということは、その土地に自分なりの愛着があるということだ。そういう人が地域のためになると納得すれば強い味方になるというわけだ。

「天敵絶滅作戦なんて、残酷だ」と言うのは、それほど難しいことではありません。
自然保護活動をしている人たちだって、本来は「自然や生き物が好き」なのでしょうから、外来種を「虐殺」したいわけではないでしょう。
でも、「在来種を守るためには、その方法がいちばん優れている」という結論が出た場合には、彼らはそれを選ぶのです。
それは、「人類の傲慢」を象徴しているような気もするけれど、「そうやって、希少な生物種を守ることができるのは、人間しかいない」のもまた事実です。
そして、「どうせ話し合っても結論なんて出ないから」と、「見切り発車」しがちな日本は、彼らの「説明してわかってもらうことへのこだわり」に、学ぶべきところがあるのではないでしょうか。


ちょっと長くなってしまいましたが、これらの国から学ぶべきことは、まだまだたくさんありそうです。
良い点においても、悪い点においても。
「日本は日本だから、他国と比較してもしょうがない」とはいっても、「在来種の保護のために天敵を絶滅させる」ことは難しくても、「結論はどうあれ、説明責任をまっとうする」ことは可能なはず。


最後に、この新書を読んでいて、すごく印象に残ったエピソードを御紹介しておきます。

 1991年のソビエト連邦崩壊後、それまでソ連頼みだったフィンランド経済が危機に見舞われて国家財政が逼迫した際、当時のヘイノネン教育相が「このような危機の時こそ、教育に投資することが将来の経済成長を生み、雇用確保につながる」と説き、教育費の大幅増額を要求したのだ。その精神が現在まで維持されている。

日本の政治家のみなさん、いまこそ日本にとっての「そのとき」ではありませんか?

 

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