姉を失ったことで空虚な日々を送っていた暗殺者のエレーナは、謎多きCIA長官ヴァレンティーナからの指令を受けて、ある施設へ向かう。そこで同じくヴァレンティーナによって集められたジョン・ウォーカー、ゴースト、タスクマスターが一堂に会し、記憶を失ったボブという謎の男も現れる。思わぬ危機が訪れたことで一同は協力して窮地を乗り切り、エレーナを助けに来た父のアレクセイ、ヴァレンティーナの真の目的を探るバッキー・バーンズも合流し、「サンダーボルツ*」という即席のチームを組むことになる。やがてニューヨークの町に次々と市民を消し去る脅威の存在が出現。当初はバラバラだった「サンダーボルツ」は、危機に直面する中で次第にチームとして結束していく。
2025年映画館での鑑賞7作目。公開日からほぼ2週間後の平日のレイトショーで観ました。字幕版。観客は10人くらいでした。
観終えて最初に頭に浮かんできた感想は「おまえ(たち)は、いったい何と戦っているんだ……」でした。
エレーナをはじめ、『サンダーボルツ』の面々は、人生の途中で深く傷つき、虚無のなかで、暗殺や破壊、証拠隠滅などの「裏の仕事」を続けてきた「ヴィラン(悪役や敵キャラクター)」たちです。
正直、マーベルの正統派ヒーロー映画、『アイアンマン』や『スパイダーマン』に悪役として彼らが出てきたとしても、せいぜい「中ボス」レベルで、観客は「今回のヴィランは小粒だな」とがっかりするのではないでしょうか。
それなりに強いのは強いけれど、アイアンマンのような大量破壊兵器的な力があるわけでもなく、キャプテン・アメリカのようなリーダーシップもスパイダーマンのようなドラマ性もない。
戦い方も肉弾戦がほとんどで、「こいつらに強大な敵なんか倒せるのか?」と思いながら見ていました。
まあ、その辺は、うまく物語として昇華している、というか、そんなに圧倒的な力がないからこその親近感、みたいなものも湧いてくるんですよね。
僕だって(そしてほとんどの観客にだって)、思い出したくないトラウマの一つや二つはあるわけですし。
圧倒的な戦闘能力を持った「スーパーヒーロー」でもなく、デッドプールやヴェノムのような「開き直っているレベルのクールなダークヒーロー」でもない、そんなにカッコよくはないはずなのに、少しずつカッコよく見えてくる『サンダーボルツ』!
無敵の善性のかたまりのようなヒーローは古くさい、デッドプールみたいな「露悪的なヒーロー」は、一発芸としては楽しいけれど、「これじゃない感」も拭えない。
マーベルも、いろいろ試行錯誤しているんだろうな、と思うのです。
『アベンジャーズ/エンドゲーム』で、正統派ヒーローものとしては、やりつくされたような気もするし、あの「続き」を経営上の判断としてつくらなければならないのは、すごく大変なはず。
しかも、政治的に正しいヒーロー映画を志向した『エターナルズ』は長いし爽快感もなくコケてしまい、イロモノ残虐路線の『デッドプール』は大ヒット。正統派の続編をつくった新たな『キャプテン・アメリカ』は、ハリソン・フォードの怪演が最大のみどころになってしまいました。
結局のところ、迷走の末に、マーベルがかつて生み出してきた「苦悩しながら成長していく人間味にあふれたヒーロー」という原点に帰ってきたのが『サンダーボルツ』だったのでしょう。
正直なところ、彼らの「鬱屈」に共感し、「転向」を歓迎しつつも、「この人たち、これまでさんざん酷いことを(たぶん)善良もしくは普通の人たちにしてきたんだよなあ。更生したヤンキーはずっと賞罰なしで生きてきた人よりも好感度が高い、なんていうのは、人の評価値のバグだ」という気持ちもあります。
自分たちでわざわざ「敵」を作り出して、それを苦労して退治する、というマッチポンプ的な展開は、ものすごく「現代的」ではあるし、「痛み」が伝わってくる格闘系アクションも今の時代にはかえって新鮮でした。
総じていえば、『エンドゲーム』以降のマーベルのヒーロー映画のなかでは、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』は別格として、最良の作品のひとつではあります。その一方で、「この作品が高評価になってしまう、スーパーヒーロー映画の袋小路」も意識せざるをえないのです。
それにしても、バッキーはイケメンだよなあ。バッキーがいちばんの見どころかも。