琥珀色の戯言

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【読書感想】「リスク」の食べ方 ☆☆☆☆


「リスク」の食べ方―食の安全・安心を考える (ちくま新書)

「リスク」の食べ方―食の安全・安心を考える (ちくま新書)

内容(「BOOK」データベースより)
放射能に汚染された食品は危険。食中毒を引き起こすレバ刺しは禁止。食にはさまざまなリスクがあるが、食の絶対安全は可能だろうか?一方で、健康にいいからグルコサミンを摂取する、抗酸化物質を排除するといったブームもあるが、それは本当に効くのだろうか?本書では、危険であれば拒否し、効果があれば礼賛する状況に抗するため、それぞれの問題を丁寧に検証していく。「安全」「安心」はただでは手に入らない。

「レバ刺し」の禁止は、妥当な判断だったのかどうか?
著者は、感染症の専門家としての立場から、「レバ刺し(あるいは肉の生食)の安全性」を検証していきます。
読んでいて驚いたのは、食品の産地偽装とか、賞味期限偽装、食中毒などが頻繁に起こっているようにみえる「日本の食品」は、実は、「世界に誇れる安全性を保っている」ということでした。

 例えば、アメリカでは年間で国民6人に1人にあたる、4800万人もの食中毒が発生していると考えられています。年間12万8000人が入院し、毎年3000人が死亡しています。そして、6万人以上の腸管出血性大腸菌O157:H7による食中毒が起きており(!)、年間2000人以上が入院(!)、20名の死者(!)が出ています。実は、これでもまた減ったほうで、アメリカでは1990年代に、毎年60名の方が腸管出血性大腸菌感染症のため亡くなっていました。
 先進国のアメリカにしてこうなのですから、途上国においては推して知るべしです。途上国に旅行した人の20〜50%がなんらかの下痢症にかかるといます。

(註:上記引用部の「毎年3000人が死亡しています」が、僕の引用ミスで「毎年3000万人」になっていました。お詫びとともに訂正いたします。申し訳ありませんでした)


日本の食品は、衛生的すぎて、発展途上国に旅行すると、食中毒にかかってしまう日本人が多い、というくらいなのです。


今回、「レバ刺し」が槍玉に挙げられ、食べられなくなってしまったのですが、「なぜレバ刺しなのか?」僕もよくわからないまま、受け入れてしまっていたんですよね。


レバ刺しは、のどに詰まらせることがある餅などに較べたら、「嗜好品」に近い食べ物であることは事実です。
そして、「内臓の生食」というのは、けっこう危険なイメージがあるのですが、実態はどうかというと、

 2011年7月6日の厚労省の会議資料6によると、1998年から2010年までに生食用レバーを原因とする食中毒は116件でした、そのうち87件がカンピロバクター、20件が腸管出血性大腸菌が原因でした。つまり、牛レバーによる腸管出血性大腸菌感染症は13年間で20件(患者数67人)しかなかったのです。年間5人程度の発生で、死亡者はゼロです。
 ところが、同日の参考資料1では「牛レバーを原因とする腸管出血性大腸菌食中毒が多く発生して」と厚労省は書いています。年間5例、死亡者ゼロの食中毒のどこが多いの?とぼくなんかは思ってしまいます。
 もちろん、「多い」「少ない」は主観的な指標ですから、厚労省ステートメントが間違っているとはいえません。これも数字を扱う時にしばしば間違うところです。


僕はレバ刺しが、「けっこう好きだけど、無いと困るというようなものではない」ので、「まあ、しょうがないかな」というくらいの気持ちだったのですけど、この本を読むと、「これで禁止というのは、ちょっとおかしい話だよな」と思えてきました。
少なくとも「基礎疾患を持たない大人が、それほど大きくもないリスクを受け入れた上で食べるのは自由じゃないか」と。


「ゼロリスクの食物」を希求するのであれば、究極的には「何も食べない」しかない。
しかしながら、今の世の中では、「じゃあ、食べて何かあったら、お前が責任とってくれるんだろうな?」と言われてしまいがちなのも事実です。
でもまあ、そこで「文句言うのなら、何も食べるなよ、飢え死にしろ!」と捨て台詞を吐くのも、大人げない態度ではありますし、バッシングを受ける可能性は高いでしょう。
そのあたりの「何かあったら、責任をとらなければならない」というのが、結局、「食べてはいけないことにしよう」という決定の要因にもなっているのです。
「レバ刺し」なんていうのは、まさにその(ちゃんと気をつけてますよ、という世間へのアピールと、「食べられなくなっても、社会や産業が全体としてはそれほど大きなダメージを受けないもの」という「落としどころ」として禁止されたと言うべきなのかもしれません。

 だから、ぼくは旅行医学のプロとして、登山家に「リスクを最小限にする登山」を提案しますが、「リスクをゼロにするために山に登るな」とは言いません。そんなことをいうのは健康リスクのプロではなく、アマチュアのいうことだからです。

どんな小さなリスクに対しても「それなら何もするな」と言うのは「思考停止」であり、プロの立場ではない、ということなんですよね。
これは、僕としても耳に痛い。
「ぜったいに大丈夫なんでしょうね?」と問われたとき、「ぜったい、じゃないですけど……」と言ってしまうのだよなあ、やっぱり。
そこで、「このくらいのリスクがありますが、それを受け入れてやるかどうかは、あなたの判断です」「リスクを減らすには、こういう方法があります」と言うのが、「プロ」なんだよなあ。
たしかに「少しでも危ないことは、やるな」というだけなら、誰にでもできる。
ただ、こういう関係が成り立つには、アドバイスを受ける側にも「自分で判断する力」が必要なんですよね。
そして、人というのは、「そのくらいのリスクなら、やってみる」と考えてはじめたことでも、うまくいかなければ、「自分の判断の結果だから、しょうがない」とは、なかなか受け入れられないものではあります。
(僕自身もそうなので)


この新書を読んでいて、いちばん考えさせられたのは、「安心ではなく安全を」という著者の言葉でした。
心配性の僕は「安全だけじゃ足りない、みんなの安心をもたらすことが大事なのだ」と考えていたのですが、著者はこう述べています。

 安全とはリアルな概念です。建築物の耐震性とか、医薬品の副作用とか、食品の食中毒の可能性とかが、そうです。レバ刺しを食べることによる腸管出血性大腸菌感染症の死亡者はいまだに出ていない、というデータを冷静に、まっすぐ見据えることが安全の概念です。
 これに対して、安心とは根拠のない不安を打ち消すような感覚です。「もし何かあったらどうしよう」「なんとかの可能性は否定できない」と妄想を膨らませて不安で不安でたまらない……こういう感情を打ち消してくれるのが安心です。しかし、その安心に確たる根拠はありません。確たる根拠があれば、それは単なる「安全」だからです。
 したがって、安全の上に乗っかる余剰産物の「安心」とは、「根拠に基づいた」安全にさらに上乗せした根拠のない感覚なのです。根拠がないのに不安がなくなっているというのは、ちょうど麻酔科医が患者に麻酔をかけるのに似ています。麻酔薬は痛みの原因を治す根治作用はありませんが、その痛みを「なかったこと」にしてくれます。しかし、痛みの原因そのものは麻酔とは別なやり方で治療しなければなりません。そうしなければ、単なる「臭いものに蓋」になってしまうのです。

 厚生労働省は、国民の健康を国民自身に丸投げしてはいけません。それは我々自身の知性と覚悟の劣化を意味しています。役人も国民もマスメディアも、他者を指さし、相手を非難し、外野からヤジを飛ばす観客のようになってはいけません。全てを「他人事」とせず、己の責任を受け入れ、覚悟を決め、リスクから目を背けずに対峙するのです。
 リアルな安全対策は必要です。国家も国民も、安全対策は進めていくべきです。しかし、幻想たる安心づくりに加担してはいけません。それは思考停止だからです。
 だから、安心なんて必要ないのです。いや、安心なんて有害ですらあります。我々の中にしかない「安心」「不安」という観念は何の役にも立ちません。大事なのは安全だけです。安全とは観念ではない、現実にある、ハードでリアルなデータのことです。都合の良い、手前勝手なデータではありません。
 よいことも、悪いことも真正面から見据えることです。そこから安全を造ることができます。安全を造るためには、絶対に「安心してはいけない」のです。ぼくたちは不安でいるべきなのです。
 もちろん、過度に病的に不安になれと主張しているのではありません。適度を超えた、不健全な不安は有害です。

「ある程度不安であることは当然であり、不安だからこそ、より安全を目指すことができる」
「不安」は、より安全性を高めるための原動力にもなります。
「何もしなくても安心」であれば、わざわざめんどくさいことをやる人はいないでしょうから。
いまの世界を生きていくために大事なのは、「全てを『他人事』とせず、己の責任を受け入れ、覚悟を決め、リスクから目を背けずに対峙する」こと。
覚悟することはキツいように思われるけれど、原発事故以来、放射能関係の本などをたくさん読んできて僕が感じているのは、「覚悟を決めていくためには、知ることが必要不可欠である」ということと、「結局、実際のリスクというのは、いろんなひとがいろんなことを言っているなかの、ちょうど真ん中くらいにあるのではないか」ということなのです。


かなりわかりやすく書かれてはいるのですが、多少は科学的な解析の予備知識を要する本ではありますし、自分の無知と覚悟のなさを思い知らされるところもあります。
だからこそ、読者に嫌われることをあえて書いてあるこの新書、読む価値があるのです。
「レバ刺しなんて、どうせ好きじゃないからいいや」という人も少なくないでしょう。
でもね、「とりあえずレバ刺しを禁止し、仕事をしたことにしてお茶を濁してしまう(偽りの)リスクマネジメント」というのは、原発の「安全神話」と同根なんですよ、きっと。

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