琥珀色の戯言

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【読書感想】創造力なき日本 ☆☆☆☆


内容紹介
なぜ日本人は世界レベルの戦いで勝つことができないのか。日本では失われてしまったハイレベルな創造を生み出すために必要な心構えと、組織や環境のつくり方を伝授!


「礼儀正しくしろ!」
「オレに理不尽な怒りをぶつけられて、社会勉強しろ!」
これを書いているのが、世界的アーティストの村上隆さんじゃなかったら、「ブラック企業の社長の言い分」のようにも思われます。

その一方で、「現代アートの現実」って、こんなものというか、ある意味「炎上上等!」みたいな覚悟がないとやっていけないものなのかもしれませんね。

 競争という言葉を排除してきた日本のビジネスは、勝つことへのこだわりが薄いともいえます。
 アートの世界でもそうですが、「描きたいものを自由に描けばいい」と教えられ、その枠内で制作を続けている人がほとんどです。しかし、そういう人たちは結局、趣味の域を抜け出せずにその創作活動を終えるだけです。
 アート業界で生きていくなら、この世界のルールを一から十まで把握したうえで、しっかりとターゲットを絞り、「”ターゲットに向かって弾を撃つ”というやり方をしなければ勝てません。
 今の日本のマインドセットは「ただ撃てばいい」「そうしていればそのうち当たるかもしれない」というスタンスを浸透させてしまいました。その部分を見直していかなければ、個人としても組織としても、将来に可能性を見出せるわけがないのです。
 アーティストとして何よりも求められるのは、デッサン力やセンスなどの技術ではなく「執念」です。”尋常ではないほどの執着力”を持ち、何があっても”やり通す覚悟”があるならば成功できます。それがなければ成功できるはずがないという図式は、はっきりとしています。そこに疑問を挟む余地などはなく、それがすべてなのです。
 アートの世界をビジネスの世界には共通項を見出せる部分も多いと思います。しかし、アートの世界にはやはり独特な面もあり、特殊な覚悟が求められます。

この新書、まったくもって「身も蓋もない話」に満ちています。
でも、こういう「現実」を自ら体験し、語ってくれる人は、村上隆さん以外には日本に皆無なわけで。
ゲームでハイスコアを出すには、まずはそのゲームのルールを把握することが必要なように、アートの世界で高く評価されるには、まず「アートの世界のルール」を熟知することが必要不可欠です。
「自由に描く」ことにより、偶然鉱脈を掘り当てる可能性だってゼロではないけれど、それはあまりにも無謀な賭け。
アートの世界の傍観者である僕からすれば、「アートの世界くらいは、マニュアルを読まずに生きていけるようであってほしい」なんて願望もあるんですけどね。
いや、多くの人が、そういう幻想を抱いているからこそ、「ルールを知っているものの優位」が際立っていくのかもしれません。


村上さんは、最初にこう仰っています。

 アーティストは、社会のヒエラルキーの中では最下層に位置する存在である。その自覚がなければ、この世界ではやっていけない。
 アーティストを目指す人間であるなら、まずはこのことを知っておくべきです。

アーティストになることに「夢」を抱いている人たちに、そんなこと言わなくても……と驚いてしまいました。
でも、そこで村上さんは「覚悟」を問うているわけです。

 絵がうまい人が、名のある美大に進めば将来は保証されると考えているのかもしれませんが、それは幻想です。それよりも、絵が下手であっても、挨拶の作法をゼロから学んでいくほうが、はるかに有効です。
 それが芸術の世界です。
 芸術の世界で生きていきたいと思っている人は、この本を読むことでまずそれを知ってほしい。

 芸術には「大衆芸術」と「純粋芸術」があり、現代美術は純粋芸術に属します。その意味もよく考えてみるべきです。純粋芸術といえば、ヒエラルキーの上位に位置するジャンルのようにも感じられるかもしれませんが、まったく違います。わかりやすく単純化していえば、顧客が大金持ちだということです。
 芸術作品は自己満足の世界でつくられるものではありません。営業をしてでも、売らなければならないものです。そのためには価値観の違いを乗り越えてでも、相手、顧客に理解してもらう「客観性」が求められます。
 その部分が日本のアーティスト志向の人たちの意識からは決定的に欠落しています。
 現代美術が、純粋芸術である以上、客は大衆ではないのです。
 現実的な話をしましょう。100メートル規模の「五百羅漢図」と仕上げるうえでは、特注したシルクスクリーンだけでも1億5000万円ほどのお金がかかります。顧客がいて、その人にお金を出してもらえるからこそそれができている。そういう認識がなければ、現代美術におけるものづくりはできないわけです。
 それは、まず資本を集めるところから始めなければならない企業の論理と同じものです。
 顧客との関係性において、ぼくたちアーティストは常に”下からお伺いを立てる立場”にあります。
「いつか自分の作品がわかってもらえる日が来ればいい」と夢想していても、その人の目の黒いうちにその日がくることはほぼあり得ません。
 理解してもらうためには、ただただ歩み寄る。 
 そうすることに疑問を抱かないのが、絶対的最下層にいる人間の生き方です。
 いつか世間に見直してもらえるといった考えを捨てることこそが、芸術家として身を立てる第一歩、成功するための仕事術の第一歩になるのです。

これをあえて新書に書いてしまう村上隆さんは、よほどこれからの若い人のことを考えているのか、アーティスト志望者を絶望させて含み笑いをするのが趣味なのか、どちらかなのでしょうね(たぶん前者なのだと思いますが)。
村上さん個人のことを考えれば、この新書で紹介されている「ノウハウ」は、黙って自分で実行していたほうが、追い落とされるリスクも避けられるはずだから。

 欧米の芸術の世界には”確固たる不文律”が存在しています。
 そのルールをわきまえずにつくられた作品は、評価の対象にさえなりません。
 日本の現代美術家たちがほとんど欧米で通用しないのはそのことを理解していないからです。
 それでは評価されるためのステージにつくこともできないのは当然です。
 わかりやすい単純な部分でいれば、欧米では「見た目がきれい」的なことは重要視されません。知的なゲームを楽しむのに似た感覚で芸術作品を見ているので、目に入った瞬間の美しさなどよりも、観念や概念といった「文脈」の部分が問われるからです。


この新書を読んで、「アート」とくに「現代アート」は、僕がいままでイメージしてきたような「芸術」あるいは、「芸術家の世界」とは違ったものになってきているのだな、と痛感させられました。
「アートという物語の流れ」を理解して、その流れに沿った、今求められている「新しいストーリー」をつくり出すセンス、「自分や作品をプレゼンテーションする技術」こそが、現代アートなのだろうな、と。


こういうのが「現代アート」ならば、それに価値はあるのだろうか?
むしろ、日本が世界に誇る「大衆芸術」であるマンガのほうが、(売れれば)多くの人に愛され、理解され、自分の好きな表現を貫くことが可能なのではないか?
そんなことも考えてしまうのです。
実際、村上隆さんのような、ごくごく一部の例外を除けば、アーティストよりマンガ家のほうが高収入だし、世界で評価されている人も多いし。
もちろん「要求される能力水準も非常に高い」のだけれども。


歴史的にみると「アートで食えるようになった」時代は、そんなに長くないんですよね。
レオナルド・ダ・ヴィンチや、ゴッホフェルメールは、少なくとも大金持ちではありませんでした。
ピカソの時代になって、ようやく「稼げる仕事」になったのです。
もっとも、本当にアートで大金持ちになった人には、芸術家よりも美術商やオークション関係者のほうが多いかもしれませんが。
「食えるようになった」かわりに、「サービスすることも要求されるようになった」わけです。
(もちろん、昔の画家だって、スポンサーにそれなりにサービスしていたはずです)


現代アート」あるいは、「村上隆というアーティスト」に興味がある人にとっては、良質の入門書だと思います。
「これから社会に出る人」にとっても、「新入社員の心得」として、参考になるんじゃないかな。


僕のなかには、「こんな村上隆さんの『常識』をぶち壊すようなアーティストが、どんどん出てきたら面白いのにな」っていう期待も、少しだけあるんですけどね。

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